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永劫よ、滅びることなかれ  作者: null
三章 水深8m
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水深8m.2

 千花と蜜月を過ごすようになって、一か月ほどが経った。


 週に一、二回、仕事の終わりだとか、土日だとかに千花と会い、食事やカラオケ、ドライブを楽しんだ。時には、ショッピングや映画なんて日もあったが、もっぱら前述した3つが中心だった。


 多くの場合、一日の終わりには人気のないところに車を停め、恋人らしいスキンシップを図った。回数を重ねるごとに反応が顕著になっていく千花に、興奮と幸福感とを重ねていった私が、どんなに足掻いても逃れられぬほどに彼女の魅力に囚われてしまっていたことは、なんとなく伝わることだろう。


 今思えば、藤光千花は、この上なく私のタイプの女性だったのだと思う。そうでなければ、こんなに彼女にどっぷりはまってしまう自分に説明がつかない。私は本来、自分のポリシーを揺るがされる場面でさえなければ、リスクを取ることを苦とする人間なのだ。


 とにかく、千花との時間は楽しかった。恋をしているのだと、そのときにはハッキリ自覚していた。


 だが、常に楽しいだけだったわけではない。


 障壁――というと、世間様からは白い目をされるだろうが、彼女との関係を続けるにあたって、確かに分厚い壁になるものはあった。


 一つは、私が既婚者であること。もっとありていに、自分勝手に語れば、夫――久の存在である。


 念のために言うが、私は久が嫌いなわけではない。むしろ、愛しているのだ。彼は私を支え、大事にしてくれる、私自身も信頼する数少ない人物なのである。


 しかし、毎週毎週千花と会っていれば、さすがの彼も小言を言うようになった。


『今週もか?』とか、『帰りが遅いんじゃないのか』とか。


 浮気を疑っているのかどうかは定かではなかったが、私の性的指向や千花の年齢を考えれば、当たり前の心配だ。


 それでも、私は久の小言が煩わしかった。上手に誤魔化し、騙せることを自分で分かっていても、やはり、彼を欺くのは気が重かった。だから、何も言わないでほしいと思っていたのだ。全く、自分のことながら勝手極まりない。


 まあ、こちらの問題は特段大きくはない。多少、私の心身にとってストレス(いや、どの口が言うのだ、と思うだろうが…事実だから、あえてきちんとそう表現する)になるくらいの問題である。


 本当の問題は……私自身の独占欲と、彼女の持つ未来への展望、そして、その2つに現実という電気信号を送ってくる第三者の台頭にあった。




「え…小川くんを?」


 私は千花が、「はい」と明るく返す姿を見て、内心では毒虫を噛み潰したような表情を浮かべた。


 小川は私の部下である。そんな彼の名前をどうして千花が知っているかというと、一時期、花島会長の許可を得て、私の仕事の一部を業務の疑似体験として千花に行わせていたときに関わる機会があったからである。


「どうして?」と返す私の言葉には、明らかな不満があっただろう。だが、それを察せられないのが千花という人間だ。


「私、前に友だちを増やしたいんですって、夕陽さんに話したことがあるじゃないですかぁ」


「あー…そういえば、そんなこと…」


 私はその時点でピンときた。それと同時に、過去の自分の発言を呪うこととなった。


「そのとき、夕陽さん言ってたじゃないですか。小川さんなんて、年齢も近いし、悪い方ではないから、いいかもしれないって。だから、小川さんとお友だちになる手伝いをしてほしいんですよぅ」


 絶対に御免である…という台詞はどうにか飲み込み、愛想笑いで誤魔化しつつ、窓の外で駆け足のままに過ぎていく風景へと目をやった。


 小川を千花に近づけるような真似、どうして私がしたいだろうか?


 男、26歳、彼女無し、上っ面がいい――と、千花に紹介したら何が起きるか分かったものではない四拍子が揃っているのが、小川という男だ。


 だから私は、心の中では、『嫌に決まっているでしょう』と跳ね除けてやりたかったのだが、なにぶん、私自身が言い出したことだったため、結局は断り切れず会社終わりに三人で会う約束をしてしまった。


「わぁ、ありがとうございます」


 嬉しそうに笑う千花に対し、あまりよくない感情が芽生える。


「ふぅん、結局は千花も男がいいのね」


 冗談めかして言ったつもりではあったが、ハッキリとした嫌味を込めたつもりでもあった。だが、千花は不思議そうな顔で小首を傾げる。


「え…どうなんでしょう。たぶん、『大事な人』の枠内に入ったら、性別はどうでもいいんでしょうけど…」


「なにそれ」思わず顔をしかめてしまう。「そうして貴方も、すぐ男性の元へ去ってしまうのでしょうね。はぁ」


 わざとらしくため息を吐いてから、窓を開ける。そうして、頬杖をついた状態で車を運転すれば、鈍感な千花も何かしらの不満には気づいたらしく、少し困った顔を浮かべのだが、続く言葉は、決して私をあやすようなものではなかった。


「でも…夕陽さんだって、旦那さんのところに帰るじゃないですか」


「うっ…」


 正論だった。悲しいほどに。合理的反論の余地など、一片もない。


「…分かっているわよ。正論で殴らないで」


「えー…すみません」


 謝らせたいわけではなかった。ただ、私の心のざわめきを知って、叶うのであれば、彼女が他の人――とりわけ、男性と仲を深めるようなことにならなければいいと思った。


 でも、現実はそう上手くいかないものだ。


「あくまで友だち候補、ですから。大丈夫ですよ」


「何が大丈夫なのかしら、それ」


「えっと……それ以上の関係になるとしても、ずっと先のお話ってことです」


 そんなの何の慰めにもならない。未来に起こりうる可能性があるというだけで、嫌なのだ。


「はぁ…期限付きの関係、だったものね…」


 私の呟きに、千花が苦笑しながら頷いた。


 これもまた、千花が私との関係性を特別なものにする際、告げた条件だった。


 千花自身に特別な相手が出来上がるまでの関係。


 そう、永遠のものではない。それを今日この日という日ほど、リアルに感じたことはなかった。


(ずっと、私だけの千花でいてはくれないのかしら…)


 既婚者でありながら、千花と特別な関係になっている。本来、そんな不道徳なこの口で、千花の行いにケチをつけるなどふてぶてしいにも程がある。


 だが、それが分かっていても、千花には私だけを見てほしいと思う自分がいる。


 ジレンマ。そう、ジレンマである。この矛盾が、私の心と体を縛る鎖となっている。


 だから私は、嫌な現実を受け入れつつも、私だけの“千花”を求めてこんなことを口にするのだ。


「ねぇ、千花」


「はい?」


 明々とした月光が差し込んでいた。青白い光。千花の肌みたいに、艶やかで綺麗だ。


「その、車の中で取れるスキンシップにも限界があると思うの。分かる?」


「え――あぁ、はい?はい。そうですね…はい」


 半分は理解したが、話の流れが予想できないためクエスチョンマークが頭上で点滅している。そんな感じの千花でも、絶対に理解できるだろうストレートを放り投げるべく、息を吸った。


 これを言ったら、千花はどう反応するだろう?嫌がる?怖がる?


 不安はあった。でも、彼女が小川なんて男と、仮に友人関係だとしても繋がってしまうことを思えば、言わずにはいられなかった。


「だから、今度のデートの最後に…――ホテル、一緒に行ってはくれないかしら?」


「えっ」


 さしもの千花も、これには動転した様子だ。


「あー…ホテル…ホテル、ですか…」


 失敗しただろうか。言うべきではなかったのかもしれない。


 急激な後悔に苛まれた瞬間、千花が横目でチラリとこちらを盗み見た。


「ら、ら、ラブ、ホテル、ですよね」


「え、えぇ、そう、そうよ」


 言葉を詰まらせた千花に影響されて、私もどもってしまう。なんだか、顔だけじゃなく、全身が羞恥で熱くなってきた。


 こんなことなら、言わなければよかった。


「あ、あのね、千花、貴方が嫌なら、やっぱり…」


 とっさに無かったことにできないかと提案を引き下げかけたとき、不意に千花が言葉を挟み込んできた。


「違うんです、嫌とかじゃないんです!」


 だったら、どういうことだろうと無言で千花を見つめれば、彼女は頬を赤く染めながら、おずおずと俯きがちになる。


「……ちょっぴり、ドキドキしているだけです。あ、いや、結構…かも」




 いつだって可愛い千花が、いつも以上に私をドキドキさせるような発言をしてくれてから、一週間。二人きりのデートは来週に控えた土曜日、私は不服にも、千花に紹介するべく小川を連れて駅前の喫茶店で待機していた。


「なんだか、緊張しますね」


 小川が呑気にそんなことを言うから、私はイラっとして、眉間に皺を寄せた状態で彼を横目にした。


「千花さんとは仕事で何度も会っているでしょう。何を今さら」


「綺羅星さん、それは画面越しですよ。実際に会うとなると、緊張するじゃないですか」


「へぇ、私はそうでもないけれどね」


「だからそれは、綺羅星さんは何度も会ってるからですって」


「ああそう」


 これ以上、聞いていられないと思い、適当な相槌で口をつぐむも、彼のほうは沈黙を嫌ったふうに絶えずしゃべり続ける。本当に緊張しているのだろう。


「それにしても嬉しいなあ」


 イラっとする。もう黙っていろ、という意味合いを込めて彼を睨むも、小川は話の続きを促されていると勘違いしたらしく、そのまま口を動かす。


「あ、藤光さんに声をかけてもらえたことじゃないですよ?」


「…貴方、藤光会長のお孫さんに声をかけてもらえたことを光栄に思えないということなの」


「え、あ、ちょ、違います、違いますってば。それは光栄です。はい。……もう、どうしたんですか?今日の綺羅星さん、変ですよ。カリカリしてます?」


「…別に、何も。ほら、続けなさい」


 あまり嫉妬心が表に出るのも格好よくない。今がこれでは、千花が来たときはもっと酷くなってしまう。どうにか平静でいられるようにしなければ…。


「あのですね、僕が嬉しいと言ったのは、綺羅星さんが藤光さんに、僕のことを信頼のおける人間だと伝えてくれたことです」


 そういえばそうだった、と思い出しつつも、感情は鈍化していて、何も動かない。


 私は肩を竦めてため息交じりで告げる。


「『比較的信頼のおける』、という表現よ。勘違いしないで」


「はい。心得ておりますとも」


「…調子に乗って。妙な勘違いしないよういなさいよ」


「え?ははっ、しませんよ。綺羅星さん既婚者ですし」


「ふぅん」


 既婚者、という属性がこうも特別な意味合いを持つのは何故なのだろう?私は常々不思議に思う。


 結婚し、配偶者が誕生する。なるほど、確かに特別なことだ。それは分かる。だが、だからといって他の人間に恋愛感情を抱かない――というのは、些か短絡的というか、道理が通らないと思う。だが、それを無理やり納得させる魔法の言葉が存在するのもまた知っている。つまり、『モラル』という言葉だ。


『相手のことを考えれば、普通はしない』というのが一般論かもしれないが…別に、相手を、久を嫌いになったから、私は千花とこんな関係になったわけではない。千花という人間に魅力を感じ、共にいる時間が幸せだからである。


 不思議なことは他にもある。みんな、愛する人がいるのだからと理由をつけるが、愛情や恋慕は、一つの蛇口から出ていて、一つの場所にしか注がれないと言うつもりなのだろうか?そんな、機械みたいに?システマティックに?


 馬鹿な。そのほうがよほど気持ち悪い。


「綺羅星さん、どうかしました?難しい顔をしていますよ」


 自分の思考世界に没頭していた私を訝しがった小川が、私にそんなふうに声をかけた。


 熟考することで、今目の前に差し迫った現実から気を逸らせていたというのに…余計なことを。


「いえ、別に。ただ、つくづく私は世の中というものが…」


 小川に語ったところでしょうがない話を始めかけたそのとき、ちょうど、喫茶店の入口に見知った顔が現れた。藤光千花である。


 水色のブラウスを着て手を振り、ちょこちょこと駆け寄ってくる姿は今日も可愛らしかった。これがデートなら、どれだけ幸せな刹那になったことだろうか。

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