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人は、仕事の選択と人生の選択を、いつも同時に迫られている。 ある者は安定を選び、ある者は挑戦を選ぶ。そして、ときに――過去と向き合わざるを得ない瞬間が訪れる。

人は、仕事の選択と人生の選択を、いつも同時に迫られている。

ある者は安定を選び、ある者は挑戦を選ぶ。そして、ときに――過去と向き合わざるを得ない瞬間が訪れる。


村上孝司、三十代半ばの営業マン。

一年前に別れた女性、原田みゆき。

そして、新たに立ち上げられる営業所。


偶然か、必然か。

その営業所の行き先は、原田みゆきが暮らす街だった。


仕事の責任と、胸の奥に残る未練。

過去と未来が交差する中で、村上はどんな決断を下すのか――。


これは、地方都市の営業所立ち上げを舞台に、仕事と恋愛、そして再会の行方を描く物語である。

第一話 新営業所立ち上げの話


村上孝司が原田みゆきと別れてから、1年が経った。

今年は支店に新入社員と本社からの転勤社員が配属され、支店はやや人員オーバー気味になっていた。


そんなある日、支店長から村上が呼ばれた。

「今度、新しい営業所を立ち上げるんだ。立ち上げ時に力を貸してくれないか」

返事は「2、3日中に」と支店長に言われた。


村上は考えた。担当している顧客のサポートは誰に任せられるのか。営業所が軌道に乗った後、自分はどうなるのか。

いろいろと悩んだ末、サービス部門の高畑さんに相談しようと、夜に酒へ誘った。


居酒屋で、村上は支店長に言われたことや、将来がわからなくなったことを率直に話した。

高橋さんは静かに聞き、ひと言こう返した。

「村上君、ある程度自分の中で決めているなら、自分を信じて進むべきだ」


その瞬間、村上は自分の考えを見透かされたような気がした。

実際、営業所の立ち上げには興味があったし、担当顧客も、高畑さんがサービスとして付いてくれるなら、営業の中堅社員に任せられると考えていた。


翌日、村上は支店長に「営業所の立ち上げに協力します」と返事をした。

同時に、担当顧客の引き継ぎと、自分の将来の立ち位置については自分で決めさせてほしいと伝えた。


営業所のメンバーは、本社からの転勤者、新人、営業サポート事務員、そして営業所長を含めて5名に決まった。

営業所の場所は、東北のある市――。


その市名を聞いた瞬間、村上はハッとした。

そこは、原田みゆきが暮らしている街だった。

村上は自分から話を請け負うと言った以上は後に引けない。


第二話 営業所の立ち上げ準備


村上はまず、担当顧客の引き継ぎのため、営業の清水幸雄を連れて顧客回りを始めた。


そんなある日、取引先の近藤商会に挨拶へ行ったとき、山田課長からこう告げられた。

「営業所を立ち上げる予定の市には、取引会社が何社かある。その中で、機械メーカーの営業所長に挨拶してきてほしい」


その機械メーカーこそ、原田みゆきが勤めている営業所だった。

村上は動揺を悟られないよう、平静を装った。


そして、近藤商会の女子社員である大槻さんに、清水のサポートを頼んだ。

これまで大槻さんは、山田課長への進言や業務面での補助などを通じて、村上を支えてくれていたからだ。


支店に戻ると、営業所の場所選定や、地元の中堅企業へのアピール方法についての会議が行われていた。

村上はそこで、営業所の場所は営業所長と新人営業が中心となって探すべきだと進言した。

理由はこうだ――所長は営業所全体の機能を考えて判断できる立場であり、新人は固定観念にとらわれない若者らしい発想が期待できるからである。


さらに村上は、営業所というより「株式会社オーエーサービス」という会社そのものを地元に知ってもらうため、セミナーを開催し、その案内をダイレクトメールで中堅企業に送付する企画を提案した。

企業リストの選定は、本社からの転勤社員、新人、営業サポート事務員の3人で行う計画だ。


その後、村上は山田課長に教えられた機械メーカー――ハンサワマシーン工業の営業所長に会いに行き、地元の情報収集を行うことで、今後の展開を見極めようと考えた。

この行動についても、支店長の了承を得た。


夜、村上は居酒屋で高畑さんと向かい合っていた。

立ち上げ準備の概要をある程度伝え、場合によっては高畑さんの力を借りることになるかもしれないと話した。


そして、ためらいがちに告げた。

「実は……営業所ができる市には、原田みゆきがいるんです」


高畑さんは箸を置き、真っ直ぐ村上を見た。

「それで――再会したら、どうするつもりだ?」


村上は少し間を置き、静かに答えた。

「正直、まだ未練があります。もし、みゆきさんが受け入れてくれるなら……もう一度付き合いたいと思っています」


高畑さんは村上の一本気な性格をよく知っていた。

だからこそ、ゆっくりと付け加えた。

「どんな結果になったとしても――みゆきさんを恨むなよ」


その言葉は、村上の胸に深く響いた


第三話 君の街へ


川上仁志所長と安藤慎一は、不動産会社を訪れ、希望する物件の条件や家賃などを説明し、複数の候補物件を提示してもらえるよう依頼した。


一方、河野康二と安藤慎一、そして営業サポートの美山さとみは、帝国データバンクを利用し、資本金・従業員数・業種・売上高を基準に企業を抽出。過去3年間の業績データをもとに、最終的にセミナーの案内ダイレクトメールを発送する企業を絞り込む作業を進めていた。


村上は考えていた。

――「営業所を出せば何とかなる」では失敗する。

だからこそ、地元を深く知る必要がある。


そこで村上は、取引先である近藤商事を訪問し、山田課長に相談した。

「この地域の特性や、人々の気質、風土について理解している社員の方をご紹介いただけませんか」


山田課長は快く応じ、地元に精通した社員を紹介してくれた。

村上はその社員から話を聞き取り、地域性や商習慣などの注意点を整理し、参考資料としてまとめていった。


やがて村上は、意を決してハンサワマシーン工業の今井営業所長を訪問する日を決めた。

しかし同時に、そこには原田みゆきが勤めている――そう考えると、彼女と顔を合わせるかもしれないという不安が頭を離れなかった。


訪問日を決めた村上は、今井営業所長に電話を入れた。

「近藤商事の山田課長からご紹介いただきまして、ぜひご挨拶に伺いたいのですが」


都合を確認したところ、今井営業所長から「その日は営業所におりますので大丈夫です」と快諾の返事を受け取った。


訪問の日。

ハンサワマシーン工業の営業所の前に立った村上の胸には、彼女と再会するかもしれないという一抹の不安があった。


ドアを開けて中に入ると、幸いにも彼女の姿は見当たらなかった。近くにいた社員に訪問の旨を伝えると、すぐに今井営業所長が現れ、村上を応接室へと案内した。


挨拶を交わした後、村上は用件を切り出した。

「近々、セミナーを開催する予定です。もしご興味を持っていただけそうな企業をご存じでしたら、ぜひご紹介いただけませんか。また、この街で営業活動をするうえで注意すべき点なども教えていただけると助かります」


今井営業所長は頷きながら応じ、地域の事情について話し始めた。


そのとき、営業所のドアが開く音がして、所長は話を中断し、席を立った。

外から誰かと短く言葉を交わしたのち、戻ってきた所長が微笑んで告げた。

「原田がちょうど戻ったので、コーヒーを入れてくれるそうです」


その名を聞いた瞬間、村上の心臓が強く脈打った。


一方の原田みゆきも、所長から「村上さんが来ている」と聞かされ、思わず息を呑んだ。

――まさか、彼がここに現れるなんて。


コーヒーを運んで応接室へ入った彼女は、顔を上げた瞬間に村上と視線が重なった。

胸の奥から、抑えきれない感情が溢れ出す。驚き、喜び、そして説明のつかない戸惑いが入り混じり、彼女の表情を複雑に彩った。


村上もまた、その瞳に釘づけになっていた。


村上は、原田がコーヒーを置いたときに、軽く頭を下げて言った。

「ありがとうございます」


その後、所長との話を終えると、丁寧に言葉を添えた。

「本日はお時間をいただき、誠にありがとうございました。次回は、私どもの川上所長とともに伺わせていただきます」


深々と頭を下げ、応接室を後にする。


営業所を出た瞬間、偶然にも郵便局へ向かう原田と鉢合わせた。

村上は一瞬ためらいながらも、口を開いた。

「実は、こちらに営業所を新しく開設することになりまして……。あの、今夜、少しお電話しても大丈夫でしょうか」


原田はわずかに驚いたように目を見開き、そして小さく微笑んだ。

「私からお電話します。……電話番号、変わっていませんよね?」


「ええ、変わっていません」

村上がそう答えると、原田は小さく頷き、足早に郵便局へと向かっていった。


彼の胸には、再会の余韻と、今夜かかってくるであろう電話への期待が入り混じっていた。


第四話 電話


原田みゆきは、自宅に戻ると落ち着かない気持ちのまま、先輩の小野みさきに電話をかけた。


「今日ね……営業所に村上孝司さんが来たの。今度、この街に営業所を開設するための挨拶だったみたい」


驚いたように小野が応じる。

「へぇ……。それで、みゆきは村上さんのことをどう思ってるの?」


鋭い問いかけに、みゆきはしばし言葉を失った。やがて、小さな声で答える。

「……村上さんは、とてもいい人だと思う。好き……だけど、今は親の面倒を見ているから、やっぱり諦めたほうがいいのかなって」


その言葉に、小野の声が少し強くなる。

「みゆき、それは違うわ。自分の気持ちに正直にならなきゃダメ」


叱るようでありながら、優しさも滲む声だった。


「親御さんのことはね、二人で話し合えば必ず道は見つかるはずよ。逃げる理由にはしないこと。最後に決めるのは、みゆき自身なんだから」


受話器を握るみゆきの胸に、先輩の言葉が深く響いた。

その瞬間、みゆきの中で何かがほどけるように感じた。


「……ありがとう、小野さん」


感謝を込めてそう告げると、みゆきは電話を切った。

心の中に、ほんの少し勇気の灯がともっていた。


村上は明日川上所長と安藤慎一が不動産企業から紹介された営業所候補の複数箇所を見に来るので泊まるホテルに着いていた。


みゆきは意を決してスマホからに登録している村上さん表示してコールした。コール音が胸の鼓動を重ねるように響いた。


10時過ぎに村上のスマホに電話がかかってきてディスプレイにみゆきの文字が表示された。

「……はい、村上です」


懐かしい声に、みゆきは思わず胸が熱くなった。

「……あの、原田です。今夜、お電話してもいいかって聞かれたから……」


村上の声が少し和らぐ。

「ありがとう。かけてくれて嬉しいよ」


その言葉に、みゆきの頬が熱を帯びた。

「村上さん……今度、少しお時間をいただけますか。お話ししたいことがあるんです」


「もちろん。いつでも連絡してほしい」


短い会話だったが、受話器を置いたみゆきの胸には、先ほどまでの迷いとは違う確かな想いが残っていた。

小野の言葉に背中を押され、そして村上の声に支えられ――みゆきは一歩を踏み出したのだった。


第五話 営業所の準備


村上は川上所長、安藤慎一とともに街を歩き、候補となる物件をいくつか見て回った。

その中で、立地・広さ・駐車場の条件が整った場所があり、三人とも納得したうえで、その物件を仮押さえしてもらうことになった。


川上所長は支店長に電話を入れ、承認申請書を作成して送る旨を伝える。

「では、これから申請書を作成して、今夜中にメールで送っておきます」

そう言って電話を切った所長は、ホテルの一室に戻るとノートパソコンを開き、作業を始めた。


翌日は休日だったため、村上と安藤も同じホテルに宿泊することにした。


やがて承認申請書の作成と送信を終えた川上所長は、村上を自室に呼び入れた。


「村上君。今回の営業所開設に、君が選ばれた理由を話しておきたい」


村上は姿勢を正して耳を傾けた。


「支店長は、昨年四月からの君の働きを見ていたそうだ。後輩の面倒を親身に見て、営業上の課題があれば適切に提言する。その姿勢を高く評価していた。それに、君が来てから顧客からのクレームは一件もない」


村上は思わず息を呑んだ。


「成績面でも、無理に目標以上を狙わず、顧客に過度な負担をかけることなく、むしろ顧客の業務上の問題を解決してきた。その姿勢こそ、営業所を運営する上で必要だと支店長は判断したらしい」


川上所長は、言葉を区切ってから続けた。


「私自身も、君がこの街で積極的に情報を集め、取引先と信頼関係を築いている姿を見てきた。顧客との絆の深さこそが、営業所長に最も求められる資質だと思う」


村上の胸に、じんわりと温かいものが広がっていった。


第六話 本音


週末の昼下がり。

村上は指定された喫茶店のドアを押した。


窓際の席に、すでに原田みゆきが座っている。

カップを両手で包みながら、どこか落ち着かない様子で外を眺めていた。


「……待たせたかな」


声をかけると、みゆきははっと振り返り、小さく首を振った。

「いえ……私が早く来すぎただけです」


一瞬の沈黙が流れる。

しかし、以前と変わらぬ彼女の笑顔を見て、村上の胸を締めつけていた緊張は少しずつ解けていった。


「先日は急に伺って、驚かせてしまったね」

「……私こそ。まさか村上さんが、この街に営業所を開設されることに関わっているなんて思わなくて」


互いにぎこちなく笑い合ったあと、みゆきは視線をカップに落とし、静かに言葉を紡いだ。

「正直……会えて嬉しかったです。でも同時に、不安にもなりました」


「不安?」


村上が問い返すと、みゆきは唇をかすかに噛み、勇気を振り絞るように顔を上げた。

「……私、親の面倒を見ていて。だから、誰かを好きになっても諦めなきゃいけないって……ずっと思っていたんです」


その瞳には迷いと、かすかな涙が光っていた。


村上はしばらく黙って彼女を見つめ、それからゆっくりと口を開いた。

「みゆきさん。俺は……君に会えたことが本当に嬉しい。事情があるのは分かる。でも、それを理由に諦めなくてもいいんじゃないかな」


みゆきの瞳が揺れる。


「大切な家族のことだからこそ、一人で抱え込むんじゃなくて、二人で考えていけばいい。俺はそう思う」


その真っ直ぐな言葉に、みゆきの胸に温かいものが広がった。

頬を赤らめながらも、確かな声で答える。

「……ありがとうございます。村上さんの言葉を聞いて……少し救われた気がします」


二人はしばし言葉もなく向かい合い、ただ微笑み合った。

そこには、ようやく再び結ばれた心と心があった。


みゆきは本当に一歩進めたと感じ、村上は自分がしっかりみゆきを支えていこうと心に噛みしめた。


別れ際、村上は「電話は難しいからメールするよ」と言ったが、みゆきは「夜なら電話できます」と応じ、二人は電話の約束を交わした。


第七話 営業所開設へ


営業所の承認が正式に下りた――。

川上所長がその知らせを告げると、会議室に集まった社員たちの間に、小さなどよめきが広がった。長く準備を重ねてきた計画が、ついに現実になる。


その場にいた村上は、用意していた資料の束を手に立ち上がった。

「では、現地の風土や人間性、地域性についてまとめたレポートをお配りします」

緊張を含んだ声ではあったが、彼の表情には確かな自信が宿っていた。


配られた資料を前に、社員たちはページをめくる音だけを響かせる。

村上はゆっくりと語り出した。


「僕が本社から地方支店に転勤した頃の話をします。当時は本社流の営業をそのまま持ち込んで、結果……まったく業績が上がらなかった。企業からの信頼も得られず、苦しい日々でした」


思い出すだけで胸の奥がざらつく。だが、その経験こそが今につながっている。

村上は一呼吸置き、視線を資料から顔を上げて全員を見渡した。


「そのとき、サービス課の高畑さんに『本社流を捨て、地域の風土や文化を学び、人間関係を築くことが大切だ』と助言をもらいました。僕は腹をくくってそのやり方を続けました。すると少しずつですが、数字が伸び始めたんです」


一瞬の沈黙のあと、彼は力強く言い添えた。

「だからこそ、この土地でも“地域ごとの営業”をしなければ、必ず失敗します」


その言葉に、多くの社員はうなずきかけた。だが、空気を切るように反論が上がる。


「それでも営業は合理性で進めるべきです」

声を上げたのは河野康二だった。隣に座る安藤慎一も同意するように頷く。


「無駄な時間をかけて人間関係を築くより、効率を優先するべきでしょう」

二人の意見に、会議室の空気が少し重くなる。


川上所長は腕を組み、しばらく考え込むように沈黙した。やがて低い声で口を開く。

「……実際に経験してみなければ分からないだろう。よし、こうしよう」


全員の視線が一斉に集まる。

「営業所を開設してから3か月以内に1社と契約を取り、担当者に認められる成果を示せ。それができなければ、村上流の営業に切り替えること。異論はあるか?」


河野と安藤は顔を見合わせ、小さくうなずいた。渋々ながらも受け入れざるを得なかった。


その様子を見ていた営業サポートの美山さとみは、心の中でため息をついた。

(これじゃあ、余計な仕事が増えそう……)

けれど同時に、彼女の胸には別の予感もあった。

(村上さんなら、きっと3か月で実績を出してくれる)

そんな期待が自然と芽生えていた。


議題は次へと進む。

「開設から2週間以内にセミナーを実施する。会場を確保し、ダイレクトメールを発送する流れだ」

川上所長が説明すると、会場候補がいくつか挙がった。最終的に現地調査は、所長と河野、安藤の3人で行うことに決まる。


翌日。

初夏の強い日差しの下、3人は候補会場を次々と回っていた。ビルの会議室、ホテルのホール、地域センター――それぞれに長所と短所があった。


川上所長は二人の意見を一つひとつ聞き取り、時に歩みを止めて考え込む。

(合理性ばかりでは駄目だ。しかし彼らの視点にも学ぶものはある)

そう心に留めながら、最終的な会場を決定した。


新しい営業所は、まだ見ぬ未来へと向かって静かに歩みを始めた。


第八話 心が潤う


会議の夜。

村上は自宅に戻ると、机に腰を下ろし、営業所の話が順調に進んでいることを短くメールにしたためた。

――ただし、会議での苦労や衝突のことは、どうしても書けなかった。彼女を心配させたくなかったからだ。


送信を終え、ふと肩の力が抜ける。時計の針は夜十時を回っていた。

そのとき、不意にスマホが震えた。画面には「みゆき」と表示されている。


「……電話?」

少し驚きながら応答すると、受話口から控えめな声が届いた。


「もしもし……村上さん、もう休んでましたか?」

「いや、大丈夫。ちょうど一息ついたところだよ」


その言葉に、電話越しのみゆきが小さく安堵の息をもらす。

「メール、読みました。営業所のこと……本当に、すごいですね」


「いや、まだ始まったばかりさ。正直、大変なことも多いけど……」

思わず口にしかけた本音を、村上は途中で飲み込んだ。


代わりに、少し柔らかく声を落とす。

「でもね、こうして誰かに『すごい』って言ってもらえるだけで、少し報われる気がするよ」


電話口の向こうで、みゆきが小さく笑った気配がした。

「村上さんって……そういうところ、変わらないですね。昔から、どんなに大変でも前を向いて」


その声は、乾いた一日の心をそっと潤す雨のようだった。


しばし沈黙が続いた。けれど、不思議と気まずさはなかった。互いの存在が、距離を超えて確かに寄り添っている。


やがてみゆきが、少し躊躇いながら口を開く。

「……私、今までは家のことを理由にいろいろ諦めてきたんです。でも、村上さんと話していると……少しだけ、自分の未来を考えてもいいのかなって思えるんです」


その言葉に、村上の胸の奥が熱くなった。

「みゆきさん。君の未来に、もし俺が一緒にいられるなら……それほど嬉しいことはない」


電話の向こうで、みゆきはしばらく黙っていた。やがて小さな声で、しかし確かな想いをのせて答えた。して抱く

「……ありがとうございます。今夜は、それを聞けただけで十分です」


通話を終えると、村上の心には不思議な静けさと温かさが広がっていた。

外では夏の夜風がカーテンを揺らし、都会のざわめきも遠ざかっている。


――心が潤う。

それは、彼にとって新しい日々を歩む力になるのだった。


第九話 営業所の開所


営業所への引越し日が決定した。

川上所長はセミナー会場の運営会社に連絡し、開所日から十日後の一日を確保した。


さらに、セミナーに参加してもらう企業へのダイレクトメールを作成し、発送準備に入る。

候補先は河野康二と安藤慎一、美山さとみの三人で二十社を選んだが、村上が五社を追加して最終的に三十五社となった。

当日、果たして何社が参加してくれるか――少なくとも十社を確保するための行動が必要だ、と村上は考えていた。



新しい営業所の引越しは、朝から慌ただしく始まった。

ダンボールに詰められた書類や備品が次々とトラックに積み込まれ、午後には真新しいオフィスへと運び込まれていく。


まだ机や椅子の配置も落ち着かない室内で、川上所長は腕時計をちらりと見てから声を張った。

「よし、開所は予定どおり進んでいる。だが、真の勝負はセミナーだ。ここで成果を出せなければ、営業所の存在意義すら問われるぞ」


社員たちの視線が一斉に集まる。

その中で村上は、黙って深くうなずいた。


心の中では、招待状を送った三十五社の名簿が何度も浮かんでは消える。

(最低でも十社……。いや、できればそれ以上。どう動けば、彼らの足を運ばせられるか)


村上は資料の山を抱えながら、ひとり思案していた。


その様子を見ていた美山さとみが、机に書類を置きながら声をかける。

「村上さん、顔がちょっと怖いですよ」

「……あ、すまない。考え事をしてた」

「分かります。でも大丈夫です。村上さんなら、きっとやり方を見つけるはずですから」


その言葉に、村上はふと表情を和らげた。

(支えてくれる仲間がいる……それだけで心強い)


一方で、河野康二と安藤慎一は名簿を見ながら顔をしかめていた。

「本当に三十五社も声をかける必要があるのか?」

「効率を考えれば、もっと絞り込んだほうがいい。来ない企業に無駄な労力をかけることになる」


彼らの合理的な意見に、村上は静かに答えた。

「確かに効率は大切だ。でも、この土地では“顔を合わせること”そのものが信頼につながる。たとえ一度で成果が出なくても、出会いの数は必ず力になる」


川上所長は腕を組み、二人を鋭く見やった。

「三か月で結果を出す、と言ったのは君たちだ。その間は村上のやり方に口を出すな。自分の考えを貫きたいなら、まずは成果を出してからにしろ」


会議室に重い沈黙が落ち、河野と安藤は不承不承ながら口をつぐんだ。


村上は大きく息を吸い込み、仲間たちに向かって言った。

「とにかく、今できることをやろう。セミナーまで時間は限られている。一社でも多く、参加してもらうために」


その決意に応えるように、美山が「はい」と力強く返事をした。


――新しい営業所は、まだ形を整えたばかり。

だがそこには、ぶつかり合いながらも未来を切り拓こうとする熱気が、確かに芽生え始めていた。


第十話 引越し


村上は会社が紹介してくれたアパートの中から一つを選び、引越し日を決めた。

選んだのは、みゆきの自宅に近い場所だった。引越し日と住所をメールで彼女に知らせる。


川上所長と他の三人は、当面はマンスリーマンションで暮らしながら、一か月ほどで住居を決める予定だった。


引越し当日の午前十時、村上はアパートの前で業者を待っていた。

すると遠くから、一人の女性が自転車でこちらに向かってくるのが見えた。


近づいてきたその顔を見た瞬間、村上は思わず微笑む。

「おはよう」

自転車を止めたのは、やはりみゆきだった。


「おはようございます。手伝いに来ました。邪魔ですか?」

「ありがたいよ。今日は大丈夫なのか?」

「はい」

彼女は力強くうなずいた。


そうこうしているうちに引越し業者が到着し、荷物を次々と部屋に運び込んでいく。

昼前にはすべて運び終え、業者は引き上げていった。


「お昼は悪いが、これを食べてくれるか」

村上はコンビニの袋を差し出した。中にはサンドイッチとおにぎり、飲み物が入っている。

夜まで片付けを終わらせるつもりで、あらかじめ買ってきたものだった。


二人は床に腰を下ろし、笑いながら昼食をとった。


その後、息を合わせて片付けを進め、午後四時には大方の整理が終わった。

二人で室内を見渡すと、ようやく新しい生活の形が見えてきたように感じられた。


「夕食を食べに行けるか?」

「親に“食事してから帰る”って伝えてきたので、一緒に行きます」


二人は外に出た。夕方の柔らかな光に包まれた街を並んで歩く。

まだ新しい土地に不慣れな村上にとって、みゆきが隣にいることは何より心強かった。


「どこに行きましょうか?」とみゆきが振り向く。

「この辺りはよく分からないんだ。みゆきのおすすめの店に連れていってほしい」

村上の言葉に、みゆきは少し得意げに微笑んだ。

「じゃあ、落ち着けるお店があります。駅の近くの小さな和食屋さんです。派手じゃないけど、味は確かですよ」


歩く途中、みゆきは近所のことをあれこれ説明してくれた。

スーパーの場所、評判のパン屋、散歩にちょうどいい公園――。

村上はその一つひとつを聞きながら、この街での暮らしの輪郭が少しずつ鮮やかになっていくのを感じた。


やがて暖簾の下がった和食屋に着くと、出汁の香りがふわりと鼻をくすぐった。

「ここです」

「いい匂いだな……」


店に入ると、木の温もりが漂う落ち着いた空間で、二人は向かい合って席についた。

定食を注文し、料理が運ばれてくる。みゆきは箸を止め、村上を見つめた。


「村上さん、今日はすごく頑張ってましたね」

「引越しは体力勝負だからな。でも、みゆきが手伝ってくれて、本当に助かったよ」

「私も楽しかったです。なんだか……新しい生活が始まるんだって、一緒に感じられて」


そう言って照れくさそうに笑うみゆきに、村上の胸の奥がじんわりと温かくなった。

(この街で、彼女が近くにいてくれる。これ以上の支えはないな)


食事を終え外に出ると、夜風が心地よく頬を撫でた。

駅前の灯りが二人の影を長く伸ばしている。


村上は歩きながら、少し声を低めて言った。

「これから大変な日々が続くと思う。でも……今日、みゆきと一緒に過ごして、頑張れる気がした」


みゆきは立ち止まり、真っすぐに彼を見つめる。

「私もです。だから……無理しすぎないでくださいね」


その言葉に村上は静かにうなずいた。

――新しい部屋、新しい街、そして彼女の笑顔。

村上の心には、確かな「居場所」が芽生えつつあった。


その後、村上はみゆきを自宅まで送り届けた。

夜の道を歩きながら、彼の胸には新しい生活への希望と、彼女への感謝が重なり合っていた。


第十一話 セミナーに全力


村上は、セミナーに参加する企業がすぐに我が社の製品を導入してくれるほど甘くはないことを理解していた。

重要なのは、参加企業の抱える問題点を聞き出せるかどうか――そこが鍵だと考えながら、どう動くべきか思案していた。


川上所長から「セミナー参加を希望する企業はあるか」と尋ねられたが、返答があったのはわずか数社にとどまっていた。

村上は「ダイレクトメールを送った企業に挨拶を装って訪問し、参加を促すのはどうか」と提案した。


村上の提案に所長は頷いた。

「よし、それでいこう。一度でも接触した相手なら、完全に無関心ということはないはずだ。こちらから積極的に声をかけてみよう」


こうしてチーム全員で担当先を割り振り、訪問計画を立てることになった。

村上は訪問先企業の業務内容や直近のニュース記事を調べ、相手が興味を持ちそうな切り口を整理した。単に「セミナーに来てください」と呼びかけるだけでは意味がない。相手にとって「得られるものがある」と思わせなければならないのだ。


――訪問初日。

村上は資料を抱え、緊張を隠しながら最初の企業を訪ねた。受付で名乗り、担当者との面談の時間を取り付ける。


「お忙しいところ恐れ入ります。先日ご案内したセミナーの件で、少しだけお時間をいただけますでしょうか」


応対に出た担当課長は、半信半疑といった表情を浮かべていた。だが村上が「御社の物流効率化への取り組みについて、ぜひ事例をお伺いしたい」と切り出すと、その表情が少し和らいだ。単なる売り込みではなく、相手の課題を聞き出そうとする姿勢が伝わったのだ。


面談を終えた村上は社に戻り、所長やチームに内容を共有した。

「一方的に案内するより、相手の問題意識を引き出す方が効果がありますね。セミナーで“解決の糸口が見つかるかもしれない”と思ってもらえれば、自然と参加につながるはずです」


川上所長も満足げに頷いた。

「村上君、その調子だ。セミナーは製品を売る場ではなく、相手の課題を一緒に考える場だ。全員、そこを意識して準備を進めよう」


こうしてチームは、単なる集客ではなく「企業同士が問題を共有し合える場」としてセミナーを作り上げていくことになった。


その過程で、河野康二と安藤慎一は、村上が自分たちのために丁寧に資料をまとめ、説明してくれていたことを初めて知った。二人の胸にも責任感と期待が芽生えていく。


そして、これまでの努力が形となり、セミナー参加企業はついに10社前後に達した。

村上の胸には、責任感と同時に高揚感が広がっていた。努力の成果を、仲間と共に分かち合える喜びがあった。


第十二話 村上とみゆきの不安


引っ越しが済んでから、村上はみゆきに余計な心配を掛けないよう、こまめにメールを送っていた。

みゆきは本当は毎晩でも電話をしたかったが、気持ちを抑え、二、三日に一度に留めていた。


ある日、みゆきは先輩の小野に、村上が近くに引っ越してきたことを打ち明けた。

しかし話し終えた途端、胸の奥にふとした不安がよぎる。――本当に、自分は村上と一緒になれるのだろうか。

村上もまた、みゆきが本当に自分を選んでよいのか、時折思い悩んでいた。


電話を切ったあと、みゆきは受話器に残る余熱を指先に感じながら、胸の奥に小さなざわめきを抱えていた。

――彼は本当に、自分との未来を描いてくれているのだろうか。

職場で誰かと笑い合う村上の姿を想像するたび、言葉にならない不安が頭をかすめた。


一方その頃、村上もまた夜の机に向かいながら、同じように思い悩んでいた。

みゆきは素直で誠実だ。だが、自分がこれから背負う仕事の重圧に、彼女を巻き込んでしまっていいのだろうか。

「本当に俺でいいのか……」

ふと漏れた言葉が、静かな部屋に虚しく響いた。


翌週末、二人は久しぶりに会う約束をした。

駅前で待ち合わせ、並んで歩き出したものの、胸の奥にある不安を口にできないまま、ぎこちない沈黙が続く。


「……仕事、慣れてきた?」

みゆきの声には、少し強がりが混じっていた。


「まぁ、なんとか。でも……大変だよ」

村上は曖昧に笑った。その笑みの奥には、言えない迷いが隠されていた。


その夜、みゆきはなかなか眠れなかった。村上の横顔が何度も脳裏をよぎり、気づけば枕を濡らしていた。

――一緒にいるはずなのに、なぜか遠くに感じる。


同じ頃、村上も机の上に置いた携帯を見つめていた。

みゆきに「大丈夫だよ」と伝えたいのに、その一言を言う勇気が出なかった。

互いを想いながらも、心はすれ違っていく。


だが翌週末、村上は思い切ってみゆきを食事に誘った。

「たまには外じゃなくて、俺の部屋に来ない?」

少し照れくさそうに切り出すと、みゆきは一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべて頷いた。


――引っ越してから初めて訪れる村上の部屋。

玄関を開けると、整理途中の段ボールや書類が目に入った。だが、窓際の観葉植物や机の上に整然と並べられた資料からは、彼の几帳面さが伝わってきた。


「ごめん、まだ全然片付いてなくて」

「ううん……なんだか、村上さんらしい」

みゆきは微笑んだ。彼の生活の一部に触れられたことが、なぜか嬉しかった。


二人で簡単な料理を作り、狭いテーブルを囲んで食事をした。

最初は他愛もない会話が続いていたが、やがて村上が真剣な顔をした。


「みゆき……正直に言うと、不安なんだ。こんな仕事ばかりの生活に、君を巻き込んでいいのかって」


みゆきは箸を置き、彼をじっと見つめた。

「私も不安だよ。村上さんが私を選んでくれるのか、時々わからなくなる。でも……それでも一緒にいたいの」


一瞬の沈黙のあと、村上は深く息を吐き、少し照れながら笑った。

「ありがとう……そんなふうに言ってもらえるなんて思わなかった。俺も、君と一緒にいたい」


二人の間に漂っていた不安は、完全に消えたわけではない。

けれど、その夜だけは確かに互いの心が近づいた。

温かな灯りの下で、二人の未来は少しずつ形を帯び始めていた。


第十三話 セミナー本番


セミナー当日。

朝から会場は慌ただしく準備が進んでいた。受付の机には参加企業の名札が並び、資料の袋詰めも最終確認が行われている。


村上は控室で、自分が担当する発表資料に目を通していた。

緊張で喉が渇く。だが、今回は逃げるわけにはいかなかった。

――今日のために積み重ねてきた努力を示せるのは、自分しかいない。


「村上君、大丈夫か?」

川上所長が声をかける。

村上は深く息を吸い、笑顔を作って答えた。

「はい。やってみます」


―――


受付近く、参加者に混じって一人の女性が控えめに会場へ入ってきた。

みゆきだった。

村上には内緒で、こっそり応援に駆けつけたのだ。会場後方の席に腰を下ろし、配られた資料を見ながら彼の姿を探す。


――大丈夫かな。緊張していないかな。

胸の鼓動が早まる。まるで自分が発表するかのように。


―――


セミナーが始まった。

冒頭の挨拶に続き、各担当者が順に登壇していく。

村上の出番は中盤。名前が呼ばれた瞬間、心臓が大きく跳ねた。


会場に歩み出ると、数十人の視線が一斉に注がれる。

「本日はお忙しい中、ご参加いただきありがとうございます」

声が少し震えたが、言葉を続けるうちに次第に落ち着いてきた。


村上は事前に企業を訪問して得た課題を取り上げ、

「このような状況は、御社にも当てはまるのではないでしょうか」

と問いかけながら話を進めた。


単なる製品の売り込みではない。相手の課題を共に考え、解決策を探る姿勢がにじみ出ていた。


会場の空気が少しずつ変わっていく。

参加者たちが頷き、メモを取り、真剣に耳を傾け始めていた。


―――


後方の席のみゆきは、村上の姿をじっと見つめていた。

――すごい……。

いつも不安そうに見えた彼が、今は誰よりも堂々として見える。


背筋を伸ばし、言葉を選びながら語るその姿に、胸が熱くなった。


「このセミナーが、皆さまの業務改善の一助となれば幸いです」

締めくくりの言葉を述べ、深々と頭を下げる村上。

会場には自然と拍手が湧き起こった。


―――


控室に戻った村上は、緊張の糸が切れたように大きく息を吐いた。

川上所長が肩を叩き、笑顔で言う。

「よくやったな、村上君。君の言葉は参加者に届いていたよ」


その頃、会場後方で拍手を送ったみゆきの目には、光るものが滲んでいた。

――やっぱり、この人についていきたい。

不安はまだある。けれど、その背中を見ていると自然と未来を信じたくなる。


セミナーは続いていたが、みゆきの胸には温かな確信が芽生えていた。

そして村上の中にも、自分が一歩成長できたという実感が静かに灯っていた。


―――


本編終了後、会場の一角では立食形式の懇親会が準備されていた。

軽食と飲み物が並び、少し張り詰めていた空気が和らいでいく。


村上は紙コップを手にしながら、まだ心臓の高鳴りが収まらないのを感じていた。

――終わった。やりきったんだ。

そう自分に言い聞かせながらも、果たして参加者にどれだけ伝わったのか、不安は拭い切れなかった。


そんな時、一人の参加者が近づいてきた。

「先ほどの発表、非常に興味深かったです。実は弊社でも物流の効率化に課題を抱えていまして……」


真剣な眼差しで語りかけられた瞬間、村上の胸に喜びが走った。

「ありがとうございます。もしよろしければ、具体的にどのような課題をお持ちなのか伺えますか」


自然に口をついた言葉に、相手も安心したように笑みを返す。

気づけば周囲には二、三人の参加者が集まり、村上を囲んで話が広がっていった。


―――


その様子を、会場の隅でみゆきは見守っていた。

懇親会が始まってすぐに帰ろうかと思っていたが、村上が参加者に囲まれ、真剣に耳を傾けている姿を目にした瞬間、足が止まったのだ。


――あんなに不安そうにしてたのに……。

今は堂々と、相手の目をまっすぐ見て話している。

その背中は、自分が知っている村上でありながら、一回り大きく見えた。


胸の奥がじんと熱くなる。

誇らしさと、少しの安心。

そして――「これからも隣にいたい」という気持ちが強くなるのを感じた。


―――


懇親会の終盤、名刺交換や次回の打ち合わせの約束がいくつも成立していった。

川上所長はその様子を満足げに眺め、村上の肩を再び叩いた。

「今日の成功は、君の一歩があったからだ。これからが本当の勝負だぞ」


「はい!」

村上は力強く答えた。

不安はまだ完全に消えてはいない。だが、確かな手応えを胸に刻んでいた。


―――


会場を後にしたみゆきは、夜風にあたりながら小さく微笑んだ。

――大丈夫。彼はきっと成長していく。

その背中を信じて支えていこう。


彼女の胸には、これまでの不安を少しずつ溶かす温かな希望が灯っていた。



こちらで文の冗長さを整理し、臨場感と感情表現を強めました。


第十四話 夜風の中で


懇親会が終わり、会場の片付けを手伝った村上は、外に出ると夜風の冷たさに深く息を吸い込んだ。

全身にはまだ緊張の余韻が残っている。それでも胸の奥には、小さな達成感が確かにあった。


「お疲れさま」

ふいに声をかけられ振り返ると、そこにみゆきの姿があった。

少し距離を置いて見守っていたはずの彼女が、まだ帰らずに待っていたのだ。


「……来てくれてたんだ」

「うん。発表も、その後も、ずっと見てたよ」

みゆきは柔らかく笑った。

「村上さん、すごく頼もしかった」


村上は思わず視線をそらした。照れくささと、どこか信じられない気持ちが入り混じっていた。

「いや、まだまだだよ。所長やみんなが支えてくれたおかげだ」


「それでも……今日のあなたは、前よりずっと大きく見えた。私、不安ばかりだったけど、信じてもいいんだって思えたの」


その言葉に、村上は胸が熱くなるのを感じた。

懇親会での手応え以上に、この一言が自分を支えてくれるようだった。


二人は並んで駅へと歩き出す。街灯に照らされた歩道、行き交う人のざわめきの中で、自然と歩幅がそろっていく。


「……みゆき」

「なに?」

「俺さ、今日改めて思ったんだ。もっと成長して、もっと頼れる人間になりたいって。そうなったとき、隣にいつも君がいてほしい」


みゆきの瞳が一瞬潤み、やがて静かに頷いた。

「その時じゃなくても、私はもう隣にいるよ」


言葉を失った村上は、ただ「ありがとう」と絞り出すように呟いた。

夜風が二人の間をすり抜けていったが、その距離は以前よりもずっと近かった。


第十五話 新たな試練


セミナーは無事に終わった。

会場を後にする村上の胸には、言葉にできない高揚感が残っていた。

自分の言葉で相手が頷き、課題を共有しようとしてくれた――その瞬間をいくつも体験したからだ。


「村上君、よくやったな」

川上所長の一言に、村上は深く頭を下げた。

後ろでは河野や安藤も「やるじゃん」と笑っている。

だが心の奥には、達成感と同時に、妙な不安が芽生えていた。

――この先も、うまくやれるのだろうか。


その夜、懇親会を終えて別れ際、みゆきと駅前で並んだ。

「すごかったね、セミナー。村上さん、みんなの前で堂々としてて……」

「いや、そんなことないよ。必死だっただけさ」

彼女の目が潤んでいることに気づき、村上の胸が熱くなる。

けれど「ありがとう」と言う代わりに、照れ隠しの笑みを浮かべただけだった。



数日後、セミナーで知り合った大手メーカーから一本の電話が入った。

「ぜひ、御社の提案を詳しく聞かせてほしい」

営業部全体がどよめく。規模の大きな案件で、成功すれば会社の未来を左右する。


「村上君、今回の窓口は君に任せたい」

所長の言葉に、村上は息をのんだ。

「……はい」

返事をしたものの、胸の鼓動は速まる。

――俺で大丈夫なのか。


河野と安藤が肩を叩いた。

「一人で背負うなよ。チームでやるんだ」

「そうそう。俺たちも一緒に走る」

その笑顔に、村上はわずかに力をもらった。



準備の日々が始まった。

企業の事業内容を徹底的に調べ、先方の課題を洗い出し、提案資料を何度も作り直す。

夜遅くまで残業が続き、机に突っ伏して眠ることもあった。


みゆきはそんな村上を思いながら、電話口で小さくため息をついた。

「体、大丈夫? 無理してない?」

「大丈夫、大丈夫。もう少しだから」

声は明るく装っていたが、その背後には疲れと緊張がにじんでいた。

受話器を置いたあと、みゆきの胸は締め付けられるように痛んだ。

――本当に、大丈夫なのかな。私、ちゃんと支えられているのかな。



プレゼン当日。

会議室の扉の前で、村上は深呼吸をした。

河野が小声で囁く。

「お前ならできる。落ち着け」

安藤も拳を握り、無言でうなずいた。


扉を開けると、先方の役員たちの視線が一斉に集まる。

緊張で手のひらに汗がにじむ。

だが、一歩踏み出した瞬間、セミナーの光景が頭に浮かんだ。

相手の目を見て、課題を聞き、共に考えようとしたあの時間。


「本日は、お忙しい中ありがとうございます。

 私たちがご提案したいのは――」


声は震えていなかった。

資料をめくる指先も、思ったより落ち着いていた。

チームで積み重ねた準備が背中を押してくれていた。



数時間後、会議室を出た三人は無言で顔を見合わせ、そして同時に笑った。

「……やりきったな」

「うん、あとは結果を待つだけだ」


その夜、村上はみゆきに電話をした。

「今日、プレゼン終わったよ」

「どうだった?」

「全力は尽くせた。結果はまだだけど……不思議と、後悔はない」

受話器の向こうで、みゆきは静かに泣いていた。

「よかった……ほんとによかった」


その涙は、不安から解放された安堵の涙であり、

村上を信じていた誇りの涙でもあった。



案件の行方はまだわからない。

けれど、村上には確信があった。

――どんな結果であれ、自分はもう一人ではない。

仲間がいる。そして、みゆきがいる。


その夜、携帯を握りしめながら村上は思った。

「これからは、彼女と一緒に成長していきたい」


未来はまだ形を持たない。

だが、確かに灯った光が、二人の道を照らし始めていた。。


第十六話 結果と決意


数日間の沈黙が続いた。

大手メーカーへの提案を終えてからというもの、村上は携帯の着信音に過敏になっていた。

チームも同じだった。毎日「連絡はまだか」とは口にしないが、空気は張りつめていた。


そして、その瞬間は突然やってきた。


「先日のご提案、ぜひ正式に契約を進めさせていただきたい」


先方の役員の声に、村上の耳が熱くなった。

「……ありがとうございます!」


電話を切ると同時に、会議室に歓声が響く。

河野がガッツポーズを決め、安藤は机に突っ伏して笑っていた。

川上所長も美山さんも、滅多に見せない笑顔を浮かべている。


「村上君、この成功は君の努力の賜物だ。よくやった」


村上は静かに首を振った。

「河野君と安藤君、それに美山さん。みんなで協力して提案書を作り、プレゼンした結果です。ありがとう」


所長は二人に目を向ける。

「河野君、安藤君。二人ともよく頑張ったな。以前の約束は、これでクリアしたことになる」


河野は少し照れくさそうに笑った。

「所長との約束ですが……私たちの負けですね。気づけば、村上さんに引っ張られて、いつの間にか村上さんのやり方に沿って進めていました」


所長はすべてを理解しているように頷いた。

「それでいい。短い間でそこまで成長できたのは、君たち自身の力だ。胸を張っていいぞ」


全身から力が抜ける。

夢のような達成感と、仲間と掴んだ喜びに包まれながらも、村上の胸にはもう一つの思いが芽生えていた。

――今こそ、彼女にも胸を張って未来を語れる。



その夜。

みゆきと会った村上は、照れくさそうに報告した。

「契約、決まったよ。大口案件……正式に」

「ほんとに? すごい! 村上さん……!」


みゆきは目に涙を浮かべ、彼の手を強く握った。


一瞬の沈黙。

村上は覚悟を決めるように息を整えた。

「みゆき……近いうちにご両親に挨拶に行きたい。ちゃんと、俺たちのことを話したいんだ」


驚いた表情のあと、みゆきの頬が赤く染まる。

「……うん。きっと喜んでくれると思う」

声は震えていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。



週末。

スーツに身を包み、土産を抱えた村上は、緊張で胸が高鳴っていた。

玄関を開けて迎えてくれたみゆきの両親は、穏やかな笑顔を浮かべつつも、彼を真っ直ぐに見つめている。


「初めまして、村上です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


食卓を囲み、ぎこちない会話が続いた。

それでも村上は一つ一つの質問に真剣に答えた。

仕事のこと、これまでの経験、そして何より――みゆきを大切にしたいという思い。


最後に深く頭を下げた。

「至らないところもありますが……どうか、私にみゆきさんを支えさせてください」


一瞬の静寂。

やがて父親が静かに頷いた。

「その言葉を忘れないでください」

母親も微笑みながら「娘をお願いします」と添えた。


帰り道、肩の力が抜けた村上の手を、みゆきがそっと握った。

「ありがとう、村上さん……」

「いや、俺の方こそ。やっと一歩踏み出せた気がする」


夜風の中で繋がれた二人の手は、これまでになく温かく、強く結ばれていた。

そしてその温もりは、まだ見ぬ未来へと続く道を静かに照らしていた。


第十七話 未来に向かって


週が明け、川上所長が「支店長から呼ばれた」と告げ、二人で支店へ向かった。

支店長は所長に向かって、にこやかに言葉をかけた。


「川上所長、今回の契約は営業所のスタートにとって最高の門出になった。これからも頑張ってくれ」


その後、村上は別室に呼ばれた。

会議室で支店長は真剣な眼差しを向ける。


「村上、今回は大躍進だったな」

「本当に川上所長に推進してよかった」

「……将来も出世する気はないのか?」


思いがけない問いに、村上は少し戸惑った。

「いえ……出世だなんて、まだ自分には早いです。ただ、今は一つ一つの仕事に全力を尽くしたいと思っています」


その答えに、支店長はしばし黙って村上を見つめ、やがてゆっくり頷いた。

「謙虚なのはいい。だがな、村上。組織を動かす立場にならなければ見えない景色がある。君なら必ずそこまで行けると、私は思っている」


思いがけない期待の言葉に、村上の胸は熱くなる。

「……ありがとうございます」


会議室を出ると、廊下で川上所長が待っていた。

「何を話された?」

「出世する気はないのか、と……」

「ほう、それは支店長が相当買っている証拠だな」


川上は笑みを浮かべ、村上の肩を軽く叩いた。

「焦らなくていい。だが覚えておけ。責任ある立場を引き受けるのもまた、一つの成長なんだ」


村上は深く頷いた。

――出世。これまで避けてきた言葉だ。

けれど今は、みゆきとの未来を思うと「いつか考えるべきこと」なのかもしれない。


会社へ戻る道すがら、川上と並んで歩きながら、村上はふと空を見上げた。

青く澄んだ空がどこまでも広がり、自分の未来を示しているように思えた。


心の奥底に、確かな言葉が芽生える。

――もっと強くなりたい。

そして、支えてくれる仲間や、みゆきに誇ってもらえるような人間でありたい。


その決意は、静かに、しかし確かに彼の歩みを未来へと進ませていた。


村上は仲間と力を合わせ、営業所をより大きな部署へと成長させていくだろう。

そして――どんな道を進もうとも、みゆきのそばにいて、共に笑い合える未来を築いていくのだ。


だがその未来は、決して平坦ではない。

新たな課題が、次なる試練が、必ず訪れる。

それでも村上はもう恐れなかった。仲間と、そしてみゆきと共に、一歩ずつ進んでいけると信じているからだ。


夜空を見上げ、彼は静かに誓う。

――この手で未来を切り拓いていく。


物語はここで幕を下ろす。

しかし村上の歩みは、これからも続いていく。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


村上という一人の青年が、仲間と共に挑戦し、成長し、そして未来へと歩み出していく姿を描いてきました。

仕事に打ち込みながらも、大切な人との関係を守り育んでいく――そんな姿は、不器用ながらも誠実に生きようとする私たち自身の姿と重なるのかもしれません。


この物語は「挑戦と成長」「仲間との絆」、そして「大切な人との未来」という三つの柱を意識して紡ぎました。

読んでくださった皆様の中に、少しでも共感や温かさを感じていただけたなら、これ以上の喜びはありません。


村上の物語はひとまずここで幕を閉じます。

しかし、彼らの未来にはまだまだ新しい課題や喜びが待っているでしょう。

どうか、皆様の心の中で、その続きを自由に描いていただければ幸いです。


最後までお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。

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