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仄暗い水の底

作者: あい太郎

 山の中腹にある過疎の集落。そこに「ぬめり井」と呼ばれる井戸があった。

 井戸はもう何十年も使われておらず、苔むした石垣に囲まれ、蓋すらしていない。周囲にはじめじめとした空気が漂い、誰も近づこうとしなかった。


 「ぬめり井には、触れるな」

 そう言い伝えられているが、なぜ触れてはいけないのかを語る者は、もう村にはいなかった。


 大学生の真弓は、民俗学を専攻しており、この井戸に興味を持っていた。

 教授の推薦で、卒論用に「使われなくなった信仰井戸の調査」をすることになり、ひと夏をその村で過ごすことにしたのだ。


「ぬめり井には近づかないでくださいね」

 宿を営む老女・タエが、食事の席でぽつりと呟いた。


「古くは“水人様”を祀っていたと聞きます。けれども、戦後まもなく、その祠も潰されて……それから、村で変なことが起きるようになったんですよ」


「変なこと、ですか?」


「井戸の周りで、動物の死体が見つかるようになったんです。骨の周りに粘つく液体がこびりついて、まるで……溶けたみたいに」


 真弓はノートに書き留めた。現代に残る口承伝承。それが事実であれ創作であれ、価値がある。


 夜、真弓は懐中電灯とカメラを持って、ぬめり井へ向かった。

 タエの忠告は気にしていなかった。学術的調査が目的で、何も触らなければ問題はないだろうと。


 草をかき分け、井戸の縁に立ったとき、不意に鼻を刺す腐臭が漂ってきた。

 井戸を覗くと、底は見えなかった。ただ、暗闇の奥から、何かが蠢くような気配がする。


 カメラを構えた瞬間、ぬめりとした空気が頬を撫でた。

 思わず振り返ると、誰もいない。


 しかし、井戸の中から「ぬち…ぬち…」と粘つくような音が微かに聞こえてきた。


 足がすくんだ。


 そのとき、井戸の縁に置いていたカメラが――ゆっくりと井戸の中へと滑り落ちていった。

 まるで、何かに引き込まれるように。


 反射的に手を伸ばそうとしたが、頭の中で警鐘が鳴った。

 この井戸に触れてはいけない。そう思い直し、真弓は後ずさりしてその場を離れた。



 翌朝、村の神社を訪ねた。そこで出会ったのは、白髪交じりの神職の男だった。

 真弓がぬめり井のことを尋ねると、男は無言で引き出しから古びた紙を差し出した。


 それは昭和二十年代の記録で、こう記されていた。


 ――この村では、水源を司る“水人様”を井戸に封じ、毎年六月の晦日に人形を流して祀った。だが、昭和二十年、占領軍の命令により祠を撤去、以後、供物も絶たれた。

 翌年より、水源周辺で異変多発。井戸より粘液状のもの噴出。祈祷無効。

 水人様、怒り未だ鎮まらず。接触禁止。


「井戸はな、蓋をするんじゃなくて、“結界”を張って封じるもんなんだ。だが、あの井戸には結界を張る神職も残っていなかった」


 神職はそう言って、静かに告げた。


「もう、あれは井戸じゃない。口なんだ。あっちの世界へ繋がる、粘るような……口だ」



 その夜、真弓は熱にうなされた。

 夢の中で、何度も井戸を覗いている自分がいた。


 ぬち…ぬち…という音が、耳の奥で響く。

 井戸の底から、何かが浮かび上がってくる。


 粘液に包まれた人の顔。それは溶けかけた自分の顔だった。


 次の瞬間、井戸の中から長い腕が伸び、真弓の足首を掴んだ――


 そこで目が覚めた。


 ……と思った。


 足元が冷たい。見ると、畳の上に水たまりが広がっていた。

 そこには、ぬるりと濡れた足跡がひとつ。


 しかもそれは、真弓の寝床に向かって――増えていた。


 部屋の奥、窓の方から、濡れた布の擦れる音がする。


 真弓がそっと振り向くと、そこには――


 溶けかけた顔が、にやりと笑っていた。


 「次は……」

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