『虐殺機関』『ハーモニー』の評論会(中編 アイの視点、アールの視点)
そんな空気の中、評論会は、アイの言葉で火蓋が切られた。
「今回はまず私から始めるわね……この二作、どちらも面白かったわ」
アイは、机の上に重ねられた『虐殺器官』と『ハーモニー』に視線を落としながら、静かに語り始めた。
「ハーモニーは『虐殺器官』の後日談。世界観的にもどこか対照的で、それが説得力があって良かったわ。どちらの作品でも、まず印象的だったのは、“人の意識”の扱い方。こちらの世界では、魂とか精神とか、そういう非物質的な形で語られることが多い。でも、この二作ではそれが徹底して“物質”として描かれていた。反応であり、構造であり、科学的な処理対象」
彼女の声は落ち着いていたが、その奥には微かな熱が宿っている。
「ハーモニーに至っては、そこからさらに進んでいた。“正しさ”によって人を管理する社会。いや、作中では善、と表現されていたわね。社会をより持続させる何かが、善として。その理想と、それに対する個人の“自由”の価値――その哲学的な問いかけが根底にある」
言葉を切り、コーヒーを口に含む。
「ディストピア作品としては非常に洗練されてるわ。 “善と自由のせめぎあい”をここまで描けるのは稀ね。救いがない終わり方も、どこか現実的だったわ」
そこで、エルが鼻を鳴らした。
「でも、理屈っぽくて、作者の哲学ばかりな気もしたぜ」
彼は本の片方を持ち上げて、ぱらぱらと乱雑にページをめくった。
「『虐殺器官』なんてさ、最後の最後はちょっと無理がある展開だぜ。科学っていう名の皮をかぶった情念。SFっていうか、ファンタジーだよこれは」
「それはちょっと言い過ぎですよ、エル」
アールが静かに制した。
「私はむしろ、そこに“人間らしさ”を感じました」
彼は『虐殺器官』を手に取り、表紙を撫でるように触れた。
「この作品は、“善意の暴走”がテーマだと思います。すべての人を幸福に、健康に、倫理的に――その理想が徹底されすぎて、個人の曖昧さや弱さが排除されていく。作者はそれを、静かに、でも確かに否定していたと思います。だから、最後はああいう破滅的な終わり方にしたんじゃないでしょうか。ハーモニーも同じで、最後の終わり方に違和感があるのは、そういった世界を否定したかったんじゃないでしょうか」
「そうか?俺は別の、作者の暗い感情をそこに感じたぜ。まあ、それは後にして、アイの意見を続けてくれよ」
アイは『虐殺器官』のページをめくりながら、目を細める。
言葉にする前に、一度目を閉じた。
「……あの軍隊の、冒頭の描写も良かったわね」
小さな声だった。だが、言葉は確かだった。
「現代的で、冷たい軍隊の在り方。こちらの世界の軍隊も、最近そうなりつつあるらしいわね……英雄が活躍するような、そんな場所じゃない。ひたすら、現実的に人と人の死で満ちた空間。その戦場の描写は“美化されていない”のに、美しいと感じてしまった。人の狂気も倫理も、ただそこに在るものとして――主人公の目を借りて、淡々と描かれている。その“距離の取り方”が、現実的で、かえって引き込まれる」
「うん……」
ぽつりと声が重なる。エヌだった。
「ぼく……すごく怖かった。読むあいだずっと、なにか、息が詰まる感じがして」
彼は胸元を軽く押さえる。
「陰鬱なはずなのに、書き方はぜんぶ静かで……それが逆に、怖くて」
アイは頷く。
「淡々としている。でも、その奥にあるのは、鋭くて豊かな表現。そして深い教養」
ページに指を走らせながら、彼女は言葉を続けた。
「たとえば、ハーモニー。あの作品では、文体そのものが表現の一部になっている。“機械的な”記述が挿し込まれる構造。それがまた、世界観に妙なリアリティを与えているわ」
「読んでる時は変な構造だと思いましたが、読み終えた後、そういうことだったのか、と思いましたね。私たちの世界ではない発想ですよ」
アールが静かに補足する。
「美しく整っているのに、息が詰まる。あの社会は、本当に“善意”で作られているからこそ、怖い。誰かを守るために、自由が失われていく……」
「正しさの暴走……奴隷が許容されている俺らの国じゃあ、ちょっと感情移入しにくかったけどな」
エルが眉をひそめて呟いた。
「虐殺器官も、ハーモニーも、ミステリ的だったのも面白くて良かったわ」
アイがその言葉を拾うように言った。
「完璧に見える社会のなかで、ある日突然“集団自殺”が起きる。その謎を解いていく構造は、ディストピアSFでありながら、確かに“本格軍隊ミステリ”の顔もある」
「読んだあと、しばらく黙っちゃったよ」
エヌが言うと、アイは微かに微笑んだ。
「考えさせられるわよね。読後の余韻がすばらしい。どちらも、ハッピーエンドとは到底言えない。でも、なぜか……深い“爽快感”がある」
彼女は、もう一冊の『ハーモニー』を手に取る。
「重くなりすぎないのは、キャラクター造形のおかげね。ライトノベル的な軽さがいい塩梅で挿し込まれてる。会話のテンポも良くて、哲学的な主題を“難しすぎないかたち”で読ませてくれる」
「それでいて、話題はほんとに広かったですよね」
アールが指を折って数え始める。
「言語、経済、医療、倫理、教育、宗教、軍事……すごく“多面的”な視点で、でも全部がちゃんと繋がってて。まるで、社会という生き物をまるごと切り取ったみたいでした」
「じゃあ次、アールの番ね」
「僕は、基本的にはアイ様と同じ意見です。なので、個人的に感じたことを話そうと思います。ハーモニーで登場した印象的な主人公の幼馴染、ミァハの深堀です」
アールは、読み終えた『ハーモニー』をそっと胸元に抱えるように置き直した。
その所作には、どこか哀悼にも似た丁寧さがあった。
全員の視線が向くと、アールはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「ミァハ…彼女は……意識のない人間として生まれて、八歳で戦場に放り込まれて、ひどい目に遭って……」
言葉は静かだが、その奥には明確な感情があった。
「でも、そのあと主人公のいる異世界の国……日本で“やさしさ”に出会った。誰かに守られながら、意識を持って育って、やっと人間になれた。そう、彼女は“やっと人間になれた”はずなんです」
けれど、とアールは続けた。
「それでも彼女は、そんな世界に違和感を感じて、主人公と共に自殺しようとした。それも出来ず、真実を知ってから、今度は世界を巻き込んで、“意識のない人間”になろうとした。世界を、意識のない静寂に戻そうとした。
それってきっと――深い恨みと、同じくらいの救いの感情が重なってるんだと思います。
この汚れた、うるさい、痛みばかりの世界、そして「調和」に苦しむ人の意識に、“さよなら”を言うための……彼女なりの祈りだったんです」
空気が、少しだけ澄んだ気がした。
「彼女は……一番、救われたかったんでしょうね」
アールは目を伏せ、ほとんど独り言のように呟いた。
「潔白されて、人間らしさも感情も曖昧になった社会。それを選んだのは、怒りと――やさしさの、両方だった気がするんです」
「……やさしさ?」
低く返したのは、エルだった。
「人を道連れにして、システム化して、意識のないただの“調和”に飲ませる。それがやさしさだって?」
アールは一瞬だけ黙った。だが、その沈黙は迷いではなかった。
「はい、やさしさです」
正面から、迷いなく答える。
「だって……彼女は自分を責めてた。救えなかった命を、自分の過去を、世界を。何より、そんな優しさに満ちた世界に違和感があるのが意識のせいだと知ってしまった。だから、意識を消して、それらすべてを“無に帰すこと”で、悲しみも、怒りも、全部終わらせようとしたんです」
「……美談にすんなよ」
エルの声には棘があった。
「世界を巻き添えにしておいて、自己救済? それって、ただの独善じゃん」
「そうかもしれません。でも、独善って……時に、人間の一番切実な“選択”なのではないですか?」
エルが言葉を詰まらせたのを見て、エヌがそっと手を上げた。
「ぼく、わかる気がする……」
いつもより少し真剣な声だった。
「ミァハは、きっと、地獄の世界から調和が溢れた世界に来て、本当に感動したんだと思う。でも、そのせいで、世界に不信を感じて、死のうとした。その後、ハーモニーの真実を知って、その不信の理由が分かった。それであの地獄を、世界を救おうと思ったんだ」
彼は、少しだけ不思議なことを口にする。
「やさしさって、あったかいけど、やさしさを知った人ほど、やさしくない世界がつらくなる……」
「……それよ」
アイがぽつりと呟いた。
「“知った者”だけが、苦しむ。彼女は、知らなければよかったとさえ、思ったのかもしれないわね」
アイは目を閉じて、しばらく黙っていた。
やがて静かに口を開く。
「……作者は、異世界の“現代にある苦しみ”の根を、ずっと考えていたのかもしれない。社会の病理、感情の矛盾、人間の限界。その全部に、真正面から向き合った痕跡がある。
あの物語は、たしかに“意識のない世界”を描いていた。でもそこにあったのは、むしろ――“意識すること”の痛みだったのよ」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
ただ、遠くでAriaが、雨とともに流れていた。
その旋律は、少しだけ、ミァハの声のようにも聞こえた。