『虐殺機関』『ハーモニー』の評論会(前編)
雨が降っていた。
それも――昼と夜の区別さえ曖昧になるほど、長く、しとしとと。
濡れた石畳が灰色の街を一層ぼやかし、軒先の植木鉢は雨粒に打たれて無言のまま揺れている。通りを歩く者の姿は少ないが、だからこそ、空気はどこか澄んでいる。
ここはゲートタウン。
世界と世界の“継ぎ目”であり、迷宮ユグドラシルだけではなく、時折町に突然、異界の存在が「忘れ物」のように流れ着く、知る人ぞ知る辺境の街だ。
そんな町の片隅――木製の看板に「サロン・フロートシェルター・アイ」とだけ書かれた店が一軒ある。
暖かなランプの光が窓から漏れ、店内に流れる音楽が、雨音と混ざり合って心地よく響いていた。
♪……
静かで、透明で、どこか懐かしい旋律。
それは遠い異世界から流れ着いた一枚のCDから流れる、穏やかなBGMだった。
"Aria"――それだけが刻印された、二次元にデフォルメされた女の子が書かれた円盤。
出どころも作曲者も不明だったが、女店主のアイは、それを「当たり」と認定していた。
評論こそしなかったものの、毎日そっと棚に戻して、また翌日もかけてしまう。そんな音楽だった。
「……静かで、いい音」
棚の影で丸まっていた少年が、ぽつりと呟く。
その声に返事をする者はいない。けれど、店内には確かに“静かな幸福”があった。
――カラン、と。
扉の鈴が鳴った。
湿った風と、革のコートをまとった客がひとり、音もなく入ってくる。
「……めずらしい顔ね」
カウンターにいた女が、ジト目でゆるりと顔を上げた。
黒髪、白い肌、宮廷の司書が着るようなシックで高級感を感じる衣服――そして、どこか疲れたようなその瞳が、一瞬だけ懐かしさに揺れる。
「いやぁ、いいねぇこの音楽。耳がくすぐったくなる……こりゃあ当たりだ!」
入ってくるなり、そんなことを言ったのは、かつての同僚――グレン。
広い肩幅に似合わぬほどの優しい笑顔で、彼はずぶ濡れのコートを脱ぎながら、店内をぐるりと見回した。
彼はかつて、アイと同じ宮廷の図書館で机を並べていた――同僚。
かつて“権威主義”の蔓延る秩序の中で、彼女と同じように創作に向き合っていた一人。
「こんな場所で、まさか君が雑貨屋なんてやってるとはね。いや、評論家かい?相変わらずクセが強いな」
声が大きい。低い。元気すぎる。静かな空間には不釣り合いなはずだが、不思議と嫌な響きではない。
アイはひとつ小さくため息をついて、カウンターから立ち上がった。
「……グレン、あなた、相変わらず騒がしいわね」
「おう、それがオレの売りだ」
「で、何の用?」
突き放すような口調。けれど、その奥にかすかに灯る懐かしさの光を、彼は見逃さなかった。
「……いや、ただの興味本位さ。君があの“宮廷図書館”を辞めたって聞いて、正直驚いたんだよ」
「驚くほどのことでもないわ」
淡々と返すアイ。しかし、彼の目を見た瞬間、過去の記憶がふと脳裏に浮かぶ。
――宮廷図書館。
国家の知識と格式の象徴。すべての書物が階層ごとに厳密に分類され、閲覧には魔法資格と階級が必要とされる。
アイは、そこで“最年少司書”として抜擢された。
理由は明白だ。
彼女には――生まれつき、“書物”に対して異常なまでの感応力があった。
文字に触れれば、その書に込められた魔力が流れ込む。
書物の魔法を自在に操り、魔導書であれなんであれ、閲覧・解析・再構成・封印といった行為を、彼女は“本能”で行えた。
そして、限定的だが、書物に限らず創作物を鑑賞する場合に時間を操り、物品を保管する場合に空間を広げる能力。
――異世界的に言えば、チート。
それは誇張でも比喩でもなく、まさに「特異能力」と呼ぶにふさわしい才能だった。
だが、才能があれば満たされるわけではない。
古典主義、権威主義。
様式の美、形式の整合性、過去の栄光。
そうしたものばかりが優先されるあの場所で、彼女が評価したいと願った作品――
「粗削りだが、今を生きる人間の痛みを描いた短編」や、「革新的だが、秩序を脅かす思想を扱った作品」、「自由で、過激な表現の作品」というのは、ことごとく否定された。
「形式がなっていない」
「思想的に危うい」
「読者の階層にふさわしくない」
訴えもした。改革案も出した。けれど、どこかでわかっていたのだ。
――この場所に、わたしの望む創作はない。
そんな折に、たまたま休暇を取って訪れた街があった。
ゲートタウン。
あらゆる価値観がごった返し、意味不明な“異世界の創作物”が平然と混ざり合っている町。
まとまりはない。整ってもいない。だが、そこには確かに――「自由」があった。
綴りが粗い詩にも、設定だらけの物語でも、過激な表現に溢れたエログロ作品でも。
そこには作者の“伝えたい”という衝動が、はっきりと脈打っていた。
その瞬間、アイは思った。
――ここでなら、わたしの目は、わたしのままでいられる。
「……というわけよ」
アイは椅子に腰を下ろしながら、そう呟いた。
「権威のもとで死んだ創作を守るより、混沌の中で生きている創作に出会いたかった。それだけ」
「……ははっ。あいかわらず、難しいことをさらっと言うなあ、君は。それで、宮廷の図書館から夜逃げするんだから、凄い行動力だよ」
彼はしみじみとそう褒めたあと、店内を眺めた。
不思議な空間だ。入って目に入るのは、異界の物品が並ぶ、どこか奇妙だが美しい空間とカウンター。特に、異世界の床の材質である「畳」を使った空間は、どこかその空間とマッチしていて魅力的だ。
そして、その奥にはドアだけが、何もない空間に取り付けられたように置かれている。
アイの魔法、空間を広げる能力を使っているのだろう。
店内に満ちる音楽の旋律は、相変わらず静かだった。
「非常に魅力的な空間だね、ここは」
グレンが店内を眺めながら、低く、けれどどこか感嘆のこもった声を漏らした。
「異世界の物……作品に囲まれて、温かい音楽があって……君がここに居る理由、なんだかわかった気がするよ」
アイは黙ったまま、カップに手を伸ばす。コーヒーはすっかり冷めていた。
「でも――」
彼は言葉を区切る。やがて、真っ直ぐな目でこちらを見た。
「もし、ほんの少しでも気が向いたら……戻ってこないか?」
静寂。雨の音だけが、窓の向こうで続いている。
「……冗談じゃないわ」
アイはカップを置いた。ジト目のまま、わずかに眉尻を下げる。
「私をあそこに戻すなんて、貴族に畑仕事で土まみれにさせるようなものよ」
「それはそれで、絵になる気もするけどね」
グレンは笑った。だがその笑みの奥に、ほんのわずかに寂しさがあった。
「君が去ったあと、変わったんだよ。少しずつだけど、確かに」
「……」
「君の訴えてた「表現の自由」とか……あの時は笑われてた。でも、今じゃ若い司書たちの間じゃ、ちょっとした信仰みたいになってる」
信仰――その言葉に、アイの指が一瞬止まった。
「改革は、無駄じゃなかったよ」
グレンは鞄から、包みをひとつ取り出した。
「それでね。実は、今回それを記念して、図書館に“新しい選書基準”で展示されることになった作品集があって――」
包みの中から現れたのは、二冊の書籍だった。黒と白のシンプルな表紙は、ゴテゴテとした表紙が目立つこの世界の本とは対照的だ。
「……これは」
「“漂流物”から選ばれたものだ。君が評価したがってたジャンル……SF。最近、こちらの世界でも科学の発展に伴い書かれ始めた、そのジャンルさ」
「……作者は?」
グレンは首を振る。
「今までだと、まるで情報がない作者だ。読み方も分からない。でも、どちらも素晴らしい内容だった。君なら、きっと何か見出すと思ってな」
アイは手に取った。
表紙には、それぞれこう書かれていた。
『虐殺器官』
『ハーモニー』
見たことのない作家名。けれど、指先に伝わる感触に、ただならぬ熱を感じた。
これは、書物として“生きている”。
「……ちょうど良かったわね。今度の評論会、これにする」
「おおっ。例の評論会という奴か……でも、どっちを?」
「両方よ」
「まじか」
アイは振り返らずに言った。
「店員も揃ってる。作品も揃った。あとは――始めるだけ」
「それさ、僕も見て言っていいかい?君たちのやり取りというのが気になってさ」
「良いわよ。それこそ、あなたも何か批評して貰えると助かるわ」
雨音が、静かに背を押す。
そして、このサロンでまたひとつ、“創作との対話”が幕を開けようとしていた。