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『無職転生 異世界行ったら本気出す』の書評(後編)

 ことん、と小さな音を立てて、本が一冊、卓の端に置かれた。

 それはエヌが、ようやく読み終えた一冊だった。彼は背筋を伸ばし、静かにページを閉じると、読み終えた本たちの列に、丁寧に加えていく。


「……読み終えたのか?」


 机に肘をつき、頬杖をついたエルが、じろりと視線を送る。その唇は皮肉げに歪んでいた。


「相変わらず遅いな。本の虫っていうより、本の亀ってところか?」


 エヌは怒るでもなく、苦笑を浮かべて肩をすくめた。


「ごめんね。でも、ぼく……どうしても気になる場面は、何度でも読み返したくなるんだ。それで頭の中で何度もイメージを浮かべる、それが作品の中に入れるみたいで、楽しいんだ」

「はあ。まったく、手間のかかる読み方をする奴だ」


 エルはそう言いながらも、どこか諦めたような、それでいてどこか嬉しそうな声だった。

 そのやり取りの合間に、アイが音もなく現れた。手には湯気の立つカップを乗せたトレイ。彼女はふわりと微笑みながら、みんなの前にコーヒーをそっと置いていく。


「まあ、いいじゃない。エヌが時間をかけてくれるおかげで、私たちも余裕をもって読み返せるんだから」

「読み終わった後、コーヒー飲んでドライフルーツ食べてばっかじゃないか」とエルが呟いたが、コーヒーの香りに負けたのか、それ以上の文句は口にしなかった。


「それじゃあ……魔法を解くわね」


 エスは静かに立ち上がり、杖を掲げる。口元に浮かぶ言葉は、呪文というにはあまりに澄んでいて、けれど確かに、力を帯びていた。


「真なる言葉よ、還れ。束ねられし影よ、ほどけよ。時間よ、解き放たれ――終われ」


 最後の一語が放たれた瞬間、空気が震えた。

 部屋の中心に、ふわりと青い光が舞い上がる。絨毯の紋様が再び輝きを放ち、光の波が部屋全体を包み込むように広がっていく。

 そして、ぴたりと止まっていた窓の外の景色が、音もなく動き始めた。

 さあ……。

 雪は変わらず、しんしんと降り続いていた。白銀の世界は何も言わず、ただ時間だけが流れ出している。


「それにしても……」と、アールがぽつりと呟いた。


「僕たち使い魔はともかく、アイ様にエヌ様、人間であるお二人が、よくまあこれだけ一気に本を読めますね。体力と集中力が尋常じゃありませんよ、3日くらいは費やしているんじゃないですか?」


 カップを片手にしていたアイが、少しだけ肩をすくめた。


「別に普通よ。私は一応“魔法使い”なんだから、こう見えても体力と精神力は鍛えられてるの」

「鍛える魔法使いって珍しいですね……」

「そんなことないわよ。それに創作って、一気読みしたときのあの達成感。あれがもう、癖になるのよ。最後のページを閉じた瞬間にね、ああ、私、生きてるって思えるの」


 エスの言葉に、エヌがそっと頷いた。彼の前には、読み終えた本の山。少し表紙が擦れて汚れた一冊を、名残惜しそうに指でなぞっている。


「うん……その気持ち、ちょっと分かるよ。最初の一文と、最後の一文がつながった時、なんだか、心がひとつの世界を旅し終えたような気持ちになるんだ」


 アールは腕を組み、肩を竦めた。


「はあ……やっぱり、アイ様たちって変わってる」

「失礼ね、私は普通の人間よ」


 アイは笑って、湯気の立つカップに口をつけた。その横顔は、雪のように静かで、そしてどこか満たされた表情をしていた。


「それじゃあ、そろそろレビューをつけていきましょうか。まずは……アール、お願い」


 エスが軽く指先で合図を送ると、アールは椅子に座り直し、胸元でこほんとひとつ咳払いをした。懐から取り出したのは、几帳面な文字でびっしりと書き込まれた原稿用紙だ。


「では――評価を発表させていただきます」


 声に少しだけ緊張がにじむ。その気配を振り払うように、彼はゆっくりと、原稿を読み上げ始めた。


「えー、この作品、私は作品に点を付けるのは苦手です。それは、点数というものでははかれない価値が、どんな作品にもあると思うからです。ですが、この作品については素直に点数を付けることが出来ました、つまり100点満点中、100点とさせてもらいます。理由を挙げさせて頂きたいと思います」


 読み上げるその声音は、どこか誇らしげですらあった。


「100点ね。これはいつも肯定的に作品を見ているあなたでも珍しいわね」

「ええ。それぐらい良い作品でした。まず一つ目として、シンプルにストーリーラインが素晴らしいです。ニート、いわゆる仕事をしない引きこもり、そういった落伍者が転生してやり直すというストーリーはシンプルにサクセスストーリーとして面白い。勿論、このような作品は今までもいくつか評論会でも読みましたが、完成度は随一と言って良いでしょう」

「確かに、よくある設定とはいえ……惹きつけられる流れだったわね」

「そして、第二に。この作品を際立たせているのが、“家族愛”というテーマです」


 アールの表情が少し柔らかくなる。語調に、どこか親しみのある感情が滲んだ。


「血の繋がりだけでは語れない、複雑で、それでも確かに存在する家族の絆。特に、主人公と父・パウロの関係は、単なる温かさにとどまらず、生々しくも人間的なつながりとして描かれていました」

「ええ。特に5巻、そして12巻の内容は読んでいて胸が詰まったわ」


 エスも小さく頷いた。記憶の中に浮かんだあの場面――あれは、たしかに、ただの“いい話”では終わらない重さがあった。


「そして、主人公が、家族を守るために強敵に立ち向かう後半。そこには、作者の強い想いが込められていたと感じます。単なるバトルではなく、そこにある“守りたい存在”が、読者の心にしっかりと届いてくる」

「読んでいて、分かりやすい流れだったわね、それでいて、ちゃんと重みがある」

「そして3つ目。文章が非常に読みやすく、軽快でユーモアがある。ラノベ的な文章として完成形の一つなんじゃないでしょうか」


 アールは最後の一文を読み終えると、原稿を伏せて静かに一礼した。


「……というわけで、私の評価は100点です。読んでいて自分も頑張って生きようと思える作品。読後感、テーマ性、キャラクターの成長、どれをとっても傑作と言える一冊でした」


 室内に一瞬、静寂が流れる。

 そして――

「……ふふ、気合いが入ってたわね。聞き応えがあったわ」

 エスが微笑み、そっとコーヒーを口にする。アールはどこか照れくさそうに、それでも誇らしげに胸を張っていた。

 アールが満足げに原稿を伏せたその瞬間――

 その様子を、どこか冷めた目で見つめている者が一人いた。

 部屋の隅で脚を組み、椅子にもたれかかっていたエルだ。彼の視線は、アールの自信に満ちた態度を射抜くように向けられていた。薄く笑ったその口元には、明らかに嘲りの色が滲んでいる。


「……おいおい。相変わらずベタ褒めで、気持ち悪い奴だな」


 皮肉混じりの声が、静まり返った空気に落ちる。

 アールは相変わらず、こいつは場の空気を凍らすのが上手い奴だな、と感心した。


「お前にはさ、作品を批判的に見るって視点が欠けてるんだよ。“全部が素晴らしい”とか、そんなレビュー、作者の宣伝屋にでもなったつもりか?」


 その言葉に、アールの眉がわずかに動いた。

 だが彼はすぐに姿勢を正し、ゆっくりと言葉を返す。


「……では、あなたはこの作品に“粗”があるとおっしゃるんですか?」


 その声には怒気もなければ皮肉もなかった。ただ真っ直ぐに、問いを返す響きだった。 エルは鼻を鳴らすと、やれやれと肩をすくめる。

 

「そりゃあるさ。どんな作品にも“完璧”なんてありゃしない。例えば――」


 そう言って、エルはゆっくりと腰を上げる。茶化すようでいて、その瞳の奥に一瞬だけ、鋭い光が宿った。


  「語ってやるよ。あの作品の、俺が引っかかった部分をな」


  場の空気が、わずかに緊張を帯びる。 アールの正面に立ったエルの口元には、確かな自信が浮かんでいた。


「確かにこの作品は、作品としては破綻していないし、お前の言う通り文章は読みやすい。でも致命的な弱点がある」

「致命的な弱点、ですか?」


 アールが静かに問い返す。声はやわらかだが、瞳には確かな熱が宿っている。

 それを正面から受け止めながら、エルは唇の端を持ち上げた。


「まずさ、これってそんなに綺麗な話として評価して良いのか?」


 彼の口調は、からかうように軽い。だがその中に、ひやりとした本音が混ざっていた。


「たしかに構成はよく練られてる。プロットも破綻してないし、文章もこなれてる。読めるよ。そりゃね。それに、一見すると、純粋なファンタジー、世界観が凄い作品のように見える。僕たちのような、あちらの世界からしてファンタジーの住民からしても、この作品はよくかけてる」


 本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。

 そして――パタンと音を立てて閉じた。

 その音が、まるで断罪の鐘のように、店の空気をわずかに震わせた。


「だからこそ、俺はこの物語が――結局ハーレムものであるということを、残念に感じたんだ」


 エルは椅子に浅く腰をかけ、足を組みながら続ける。

 その目は冷静で、だがその奥に、かすかな苛立ちの色が浮かんでいる。


「やっぱ、人間――いや、俺は人間じゃないけどな。知性ある生き物なら、伴侶は一人であるべきだ」


 その言葉に、アールはきょとんとした表情を浮かべる。そして首をかしげた。


「……あなたみたいな人が言うと、なんだか違和感がありますね。本当にそんなことを思ってるんですか?」


 エルはふんっと鼻を鳴らす。


「何言ってんだ。こう見えて俺は純粋なんだぜ」


 口元に皮肉を浮かべつつも、その目は珍しく、まっすぐだった。


「一人の人間は、一人の人間を愛すべきだ。……少なくとも、そう思ってる奴がいる限り、その感情は否定できないだろ?

 自分の好きな人に、他に好きな人がいたら嫌だ。それが“人間らしさ”ってもんだ。俺は人間じゃないけどな、そう言うことは分かるんだ」


 彼の言葉は冷たくも切実で、嘲りの中に一筋の誠実さが混ざっていた。


「なのにこの作品は、男の都合で複数の相手に手を伸ばし、

 その“身勝手”を“成長”や“優しさ”として作品の世界観、つまり作中のキャラが肯定してる。……俺には、そこが気味悪かった」


 沈黙が落ちた。

 アールはしばらく視線を落としていたが、やがて顔を上げ、静かに言う。


「……たしかに、それはわかります。

 誰か一人を大切にする愛。それが本物だと思う気持ちも、きっと、嘘じゃない」


 そして、ゆっくりと目を細めて付け加えた。


「でも私は、この作品が描こうとしたのは“成長の途中”なんだと思っています。

 未熟さも、過ちも、全部ひっくるめて、どう愛そうとしたか――そこに意義があると感じたんです」


 エルはアールをじっと見つめたまま、肩をすくめる。


「へえ、そう。ま、そういう綺麗な言い方もアリかもな」


 その言葉には、もう皮肉はなかった。

 ふと、カウンターの奥からページを閉じる音がした。

 エスが、本を軽く指で叩きながら、ジト目で二人を交互に見やる。


「……結局、ハーレムってのは都合がいいから物語に使われるのよ。

 現実じゃ誰もが誰かの“たった一人”になりたがるくせにね」


 マグカップを手に取りながら、さらりと付け加える。


「でも、作品ってのは作者の理想の投影。そこに何を読み取るかは、あんたたち読み手の価値観しだい。

 “気味悪い”と感じるのも、“未熟でもまっすぐ”と思うのも、全部、正しい。それでいて、このジャンルが人気なのは、きっと、そういった世界観に救われる人がいるからね」


 言葉の余韻が、ストーブの火の揺らぎに溶けていく。

 やがて、エヌがぽつりと呟いた。


「……ぼくは、好きな人がいっぱいって、ちょっとおどろいたけど。

 でも、みんなが、だいじにされてるって感じなら……それも、わるくないのかなって、思った」


 そのあまりに素直な言葉に、誰もすぐに返事はできなかった。

 静寂が、ぬるま湯のように店を包み込む。


「ちっ、まあ良いんだよ。そこはさ」


 エルが吐き捨てるように言った。けれど、その言葉の後に続く間は、珍しく少しだけ熱を孕んでいた。


「ハーレムものが薄気味悪く感じるのは、俺が生きてきた環境や宗教――あるいは感性の問題かも知れないさ。だがな……」


 一呼吸。

 まるでその言葉に自分自身を納得させたあと、エルはさらに一段、声を強くした。

 その目はギラギラと光り、もはや皮肉でも冷笑でもない、真っ直ぐな怒りが宿っていた。


「転生ものには、本質的な問題がある。

 それは――強い能力を持って、優れた知性をもたなきゃ人生は上手くいかないって、読者に突きつけてくるところだ」


 静まり返る空気のなかで、彼の言葉だけが研ぎ澄まされていく。


「俺らは、“死んで生まれ変わる”くらいのイベントがないと、人生をやり直せないのか?

 過去の自分じゃダメで、優れた人に生まれ変わって、そしてチートもらってようやくまともに人間らしく扱われるのか?

 それってさ――何というか、あまりにも悲しい世界観じゃないか」


 アールはその訴えに、思わず言葉を失った。

 彼の皮肉に満ちた笑みが、今回ばかりは悲しみの裏返しに見えたからだ。

 そういえば――

 まだエヌがいない時。かなり昔にも、転生ものの評論会で、彼は似たようなことを言っていた。

「“生き直さないと、まともに扱われない物語”ばっかりじゃないか」と。

 僕たちは奴隷として生きてきてアイ様に救われた。だから、よりいっそう、そう言った世界観にエルは憤りを感じているのかもしれない。

その、転生観とでもいうべき価値観がきっとどこか心にあるからこそ。

沈黙の中、エルは視線を落とし、再び呟いた。


「……それに、下ネタのオンパレード、ロリコン描写、やたら都合のいい女キャラたち。

 『家族愛』とか言いながら、結局モテまくって、下品な欲望にまっすぐ忠実。

 そんなもん、俺には“成長”なんて呼べない」


 机に置かれた本の表紙を指先でなぞるようにしながら、ふっと息を吐く。


「環境が甘やかしてくれてるから、ちょっとマシに見えてるだけじゃない?

 結局、自己肯定の物語でしかない。あの主人公、根っこは何も変わってないよ。

 いや、作品としての完成度は高いさ。でもさ、読後に残るこの“気持ち悪さ”――」


 エルの声が、わずかに揺れた。


「それはきっと作者の理想の写し鏡のせいだ、サクセスストーリーも含めて、男の理想なんだよ結局この作品はさ、男の読者もそれで肯定された気分になる……女性読者は、途中で本、閉じたくなるんじゃない?まあ、評価としては70点といったところかな、これでも優しく評価してるぜ」


 一瞬の静寂。

 その中で、アールはゆっくりと目を伏せ、そして……言葉を探すように、顔を上げた。


「……それでも、私は“成長”だと思いました」


 その言葉に、エルの視線が鋭く向けられる。


「ほう?」

「たしかに、あなたの言うように――表現には粗があるのかもしれません。

 配慮が足りない場面もあるかもしれない、見る人によっては不快になるのもわかります」


 アールの声は静かだが、芯の強さがあった。


「でも……“変わりたい”って思って、行動したこと――それ自体は、私は否定できません。

 過去の自分がどんなに未熟であっても、そのままじゃいけないと思い、努力した姿。

 それを、作者は描こうとしていた」


 そして、そっと本を両手で抱えるようにして言葉を継いだ。


「主人公は、ときおり過去の自分を反省して。変われなくても、本気で生きようとしていたのは本当なんです。

 そして、どんな人でも、転生なんてしなくても、頑張りなおすことはできる。本気で決意して生きて、反省して、転がりながらも成長すれば、よりよい未来がある。作者が本当に伝えたいのはそういうことだと思うんです。転生なんてしなくても人は変われる。それが本当に伝えたいことだと思います」


 その言葉に、エルはしばし何も言わなかった。

 ただ、どこか遠いところを見るように、視線を横に逸らした。

 その沈黙を破るように、静かな足音が響く。

 アイがいつの間にか席を立ち、二人の中間に歩み寄っていた。

 手には、すでに空になったマグカップ。


「……まあ、どっちの言い分も、それなりに理があるわね」


 そう言って、アイは肩をすくめた。


「エヌは、どう思うのかしら?」

 アイが視線を向けると、部屋の隅――異世界製の“こたつ机”の中に、エヌの姿があった。ぬくぬくと温風を吹き続けるその機械は、読書室の中で最も離れがたい場所となっていた。

 毛布にくるまれ、まるで猫のように丸くなっていたエヌは、声をかけられると目だけこちらに向けて、もぞもぞと喋り始める。


「うん……。ふたりの言ってること、それぞれに理があると思うんだ」


 言葉はゆっくりと、けれど芯が通っていた。その言葉は、いつものエヌと違い、明朗さを伴っており、まるで大人のような喋りとなっていた。


「アールの言うとおり、ストーリーはすごくまっすぐで、胸を打つし。エルが言うように、作品の根本的なところに難があるのかもしれない。だけど……それでも、ぼくからの評価を言うとね、ぼくはアールの言うことの方にもっともだなって感じたんだ」


 エヌは、少しだけ体を起こして、毛布から顔を出す。湯気のように、静かな声が部屋に広がっていく。


「この物語は……“救いの物語”だと思うんだ、たぶんね、主人公だけじゃない。読んでるぼくたちにも、“もう一度やり直せるかもしれない”って、思わせてくれる。誰だって過去に後悔がある。でもそれでも、前を向いていいんだよって――そんな風に、語りかけてくれるんだ」


 エヌは言い終えると、ふうっと一息つき、また毛布の中にゆるやかに沈んでいく。


「だから……ぼくは、この本、好きだよ」


 静かな余韻が、部屋を包む。

 評価でもなく、分析でもなく。ただ、“好き”という感情だけを、まっすぐに差し出したエヌの言葉は、不思議と誰の反論も許さない力を持っていた。

 エヌの言葉が静かに消えたあと、室内には短い沈黙が訪れた。

 やがて、アイがゆっくりと椅子から立ち上がる。


「……なるほど。アールの誠実な称賛、エルの辛口な指摘、そしてエヌの静かな共感。それぞれに違って、どれもがこの本を読む“意味”だったのかもしれないわね」


 彼女は歩み寄って、本の表紙をそっと撫でる。


「物語というのは、読む者の数だけ顔を変えるものよ。だからこそ、私たちはこうして集まって、話し合う。それぞれが何を見て、何に心を動かされたのか――それを知ること自体が、もう一つの“読書”なのよ」


 そう言って、アイはふっと笑った。


「まあ、たまにはラノベも悪くないわ。長いけど、眠らずに読み続けたくなる作品だった……それに、少なくとも、あなたたちの議論はね、十分すぎるほどに刺激的だったわ」


 彼女はずりおちつつあったコートを肩にかけ、窓の外を見る。

 雪はまだ、しんしんと降り続いていた。

 それはまるで、物語の余韻を外の世界までも包み込もうとしているかのようだった。


「――それじゃあ、今日はここまで。評論会、終了としましょう」


 アイが手を叩くようにして宣言した。


「いつもありがとう。今回のレビューも、例によって販売用の記録に回させてもらうわね」


 そう言って、部屋の隅にある小さな魔導機械に手を伸ばす。数個のボタンを操作すると、ほどなくして軽やかな駆動音と共に、数十枚の紙が一気に吐き出されてきた。そこには、先ほどの熱い討論と感想が、美しく整った文字で記されていた。


「……何だか、毎回のことながら、少し照れますね」


 アールがそう頭を書きながら、紙束を見つめた。


「自分たちの雑談が、まさか人に読まれて売り物になるなんて」

「そう言わないでよ」


 アイは悪戯っぽく笑って、紙束をまとめる。


「案外ね、評判いいのよ?“異世界評論サロン”なんて名前で一部の好事家には受けてるらしいし。それに、ひと月に一度しか使えない“時間停止の呪文”の活用法としては、最高でしょう?一日で数十冊読んで評論会、なんて普通じゃできないわ」


 そして、ふっと笑みを深めて、アールをちらりと見る。


「あと、別にあなたの評価は良いのよ、作品の良いところを拾ってくれるって好評よ」

「じゃあぼくはどうなの?」

「あなたも、純粋な子供らしい評価って言う感じで悪くないわよ」

「へぇ、じゃあまるで俺の評判が良くないみたいじゃねえか」

「事実でしょ?皮肉屋過ぎて、どんな作品だって粗があるって言うじゃない」

「はっきり言うなよ、アイ様。俺の皮肉だってスパイスになってるはずなんだがなあ」

「毒も薬も紙一重、って言うでしょ?ちょうどいい塩梅に抑えてくれると助かるんだけど。まあ、今日はギリギリ毒だったわ:


 肩をすくめるアイに、エルはふんと鼻を鳴らしつつ、どこか満足げだった。

 そして、温かな笑いが部屋に広がった。

 外の雪はまだ、静かに降り続いている。けれどこの小さな部屋には、本と魔法と――少しだけ、家族にも似たあたたかさが、確かに存在していた。

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