『無職転生 異世界行ったら本気出す』の書評(前編)
空が、灰色の布のように垂れ込めていた。
エヌはアールの手をしっかりと握りながら、雪に沈む石畳の道を歩いていた。
まだ幼いその足は、靴の裏からしんしんと伝わる冷たさに、少しずつ感覚を失いかけている。それでも彼は文句ひとつ言わず、ただアールの横顔をちらちらと見上げながら、足を進めていた。
「寒くない?」
アールの声は、まるで雪を避けるようにやさしく響いた。白い吐息が空気に溶け、淡く消えていく。
「……うん、ちょっと。でも、大丈夫」
雪は、舞うというより降り積もることに専念しているようだった。
どこまでも白く、静かで、まるで世界が音を失ってしまったかのようだった。
けれどこの街――ゲートタウンでは、そんな景色もほんのひとときに過ぎない。
天気も、空気も、風の向きさえ、次の瞬間には別の世界のものになってしまう。
しかし、最近は珍しく、ずっと雪が降り続け、町は白黒な世界と化していた。
「もうすぐだよ。ほら、あそこ」
アールが指差した先、ぼんやりと立ち上る灯が、吹雪の帳の向こうに浮かび上がる。
それは雑貨屋の灯だった。
どんな異世界の風にも決して消されない、あたたかで、静かな明かり。
キィィ――ン……
扉を押し開けると、まるで別世界に繋がっているかのような澄んだベルの音がアールたちを歓迎した。
それは鐘の音というより、神聖な結界に足踏み入れた彼らを祝福する天使の声のようだった。
そして、そこには確かに「異世界」があった。
棚には無数の本、巻物、ガラス瓶、木製の人形、そして誰も知らない世界の道具たちが静かに眠っている。
何より目を引くのは、どう使うのかよく分からない機械たちである。
この世界のものではないということが明らかに分かる。ごてごてとしておらず、スマートで機能美を詰め込んだ箱のように見える機械たち。
異世界の様々な道具が集められたその部屋の赴きは、異世界からの物品などが流れ込むゲートタウンでも異彩を放つ。
天井から吊るされた不可思議な円形のランプは、やわらかな琥珀色の光を放ち、部屋の隅々にまで影のない明るさを行き渡らせていた。
灯された小さな炎を宿す不思議な機械が作り出す暖かい空気。
香ばしいハーブと少しだけ焦げた紙の匂いが鼻をくすぐる。外の雪のことなど、誰も思い出せないほどの、ほっとする空気。
カウンターの奥に、人の姿があった。
椅子に腰かけ、重たげな本を開いたまま、こちらを見上げるジト目の女性。
今日はいつも着ている宮廷風の服ではなく、ボロボロのロープに身を包んでおり、どことなく魔法使いを思わせる彼女は、ここの店主であるアイだ。
漆黒の黒い髪は、彼女の眠そうな目をそっと隠している。
その目は、まるで「来たわね」とでも言いたげに、二人を迎えていた。
「……おかえり」
ジトッとした目元を細め、女店主アイはぼそりと呟いた。まるで温度を感じさせない声音だったが、その一言だけで、アールはふっと肩の力を抜いた。
「ただいま、雪がすごくて……エヌも、ちょっと冷えちゃって」
「ぬくもってくれば?」
アイが手元のマグカップから立つ湯気を楽しんでいるようだ。
マグカップの中にはいつもアイが飲んでいる苦くて黒い飲み物――異世界ではコーヒーというらしい。それが入っていた。
エヌはその様子をぼうっと見つめていたが、すぐにアールの手を離して、店内の片隅にある丸い機械「ストーブ」のそばへと駆けていった。置いてあった毛布にくるまると、ほうっと長い息を吐く。
「……ぬくい」
「ぬくいですか、ふふ、相変わらずエヌは可愛いですね」
アールがそっと笑ったその瞬間――
「まったく、遅いんじゃないの? 雪が降ってようがさ、僕たちの休みはこの日だけ、月に一回だけなんだからさ。この日に創作を鑑賞する、その僕の最大の楽しみを減らすのはやめて欲しいなあ」
棚の陰から姿を現したエルが、いつものように冷たい声色で皮肉を飛ばす。
白銀の髪に褐色の肌、赤い瞳。その様は白と黒で満ちた外の冷たい光景を思わせる。
金髪に碧眼、透き通るような白い肌を持つアールとは対照的である。
彼はその細い指で手元の本を器用にくるくると回していた。
「そう言わないで下さいよ。異世界の漂流物は珍しくて、買うのにも手間がいるんです。それに、より素晴らしい作品を探すのにも手間が必要なんですよ、ここ一か月、僕はアイ様のお眼鏡にかなう作品を探し続けたんです」
アールがやんわりと諭すように返すが、その声色にはどこか苦笑がにじんでいた。
エヌはストーブの前で毛布にくるまったまま、二人のやり取りをじっと見ている。
「手間? ふん。どうせお前が持ってくる作品なんて大体ゴミだろ。性善説に満ちたつまらない作品ばっかり持ってきやがるからな、お前はさ」
「ええ、私は世界というものが美しいと思っていますので」
エルの毒に即座に応じるアールの声は、あくまで柔らかく、しかし芯の強さがあった。
言葉のやり取りだけでも、二人の思想のぶつかり合いは目に見えるようだった。
その緊張を切り取るように、エヌが口を開いた。
「……けんかしないで。あったかいとこでけんかするの、へんだよ」
「けんかじゃないよ」とアールが優しく言い、「単なる文化闘争さ」とエルが涼しい顔で続けた。
そのとき、カウンターの奥で本を読んでいたアイが、ぱたんとページを閉じた。
「はいはい、文化闘争はこの後に盛大にしなさい、評論会を始めるわよ」
ジトッとした目がこちらを向く。目元に浮かぶ、ほんのわずかな微笑――というより、なにか観察対象を見つけた科学者の目つきだった。
「じゃあ、始めましょうか。今日は、アール推薦の一冊ということで――」
エスがそう言って、アールから差し出された袋を受け取る。
袋から取り出されるのは本である。一冊、また一冊と取り出されていく。その数は明らかに袋の容量以上のものである。
「……ずいぶんと長いシリーズなのね。異世界では人気なのかしら」
取り出した本を、魔法陣が織り込まれた絨毯の中央へと並べていく。
おおよそ30冊。それが丁寧に、一冊ずつ放射状に並べられる。
そして、その手元に、いつの間にか現れた杖。彼女がそれを握り、静かに呪文を唱え始める。声は小さく、まるで祈るように、慎重に。
「封ぜよ時、重ねよ知、本よ真実に目覚めよ」
ぶつぶつと繰り返される言葉の響きが部屋を満たした刹那――
ぱあっ、と。
部屋の空気が震え、床の紋様が青白く光り始める。柔らかな光は渦を巻き、まるで夜空に浮かぶ星々のように瞬いた。
そして――
一冊、二冊、三冊……目の前にあった本たちが、まるで細胞分裂でもするかのように増殖し、
一つまた一つと本の上に重ねられていく。
あっという間に元の四倍の数に膨れ上がった。
窓に浮かぶ風景は凍り付き、雪は地面に落ちず、止まっている。
「いつも思いますが、凄い魔法ですね」
時間停止の魔法。翻訳の魔法。物体の複製。超高度な魔法を使う主人であるアイにアールはいつも通り感嘆の声を上げる。
「逆に、私にはこのくらいしかできないわよ――さてと。準備は万端、ね」
アイは膝を正し、整然と並んだ本の山の中から一冊を手に取った。ぱらりとページをめくる前に、表紙をじっと見つめる。
「ふむ……今日はこれね。『無職転生 異世界行ったら本気出す』。なるほど、タイトルとイラストからして全力でいわゆるラノベの香りがするわ、細分化するなら、いわゆる転生物という奴ね」
小さく息をついて、少しだけ肩をすくめる。
「ラノベ……ちょっと食傷気味なのよね。長いし、先の展開も読みやすいし、軽い文体で書かれているのに、逆に読むのに体力を使うっていうか……それに、異世界の書物なのに妙に私たちの世界の当たり前を長々と描いてたりして、そのくせ少しずれているの。どうしても気になってしまうわね」
そう喋る彼女はいつもの静かな様子とは異なり、作品の評価をしているため、饒舌である。
その彼女に同調するかのように、エルが目を細めて口に捻くれた笑みを浮かべた。
「そうそう。それに、転生ものってさ、たぶんあちらの世界からこちらの世界のような場所に転生するって言う構成なんだけど、僕たちにとっては面白みがないんだよね。まあ偶に面白い発見もあるんだけど、大体さ、物語もテンプレートだし、ねえ、本当に面白いのこれ?」
すると、隣で控えていたアールが、ぴしっと背筋を伸ばした。
「――今回は、そうは言わせませんよ!」
声に珍しく熱がこもっていた。アイはその勢いに目を瞬かせる。
「……おや、ずいぶんと強気じゃないの。あなたがそこまで言うなんて、ちょっと興味が湧いてきたわ」
「この作品には、“異世界テンプレ”の皮を被りながらも、じわじわと心に刺さってくるものがあるんです。アイ様のような捻くれた読者にも、きっと響きますから!」
「……褒めてるのか貶してるのか、微妙ね」
そう呟きながらも、アイはもう一度、本の表紙を見下ろす。その瞳には、先ほどまでなかったわずかな興味の光が宿っていた。
「――まあいいわ。せっかくの推薦だもの、読む前から決めつけるのも不粋ね。試してみましょうか、その“本気”とやらを」
静かにページがめくられ、物語の世界が、部屋に忍び込むように広がっていく。