25 戦国時代十六 名胡桃城
名胡桃城での戦いは四時間と持たなかった。
一方的な昌幸と北条氏の力量のちがいによる圧勝であった。城からしの字を描くように北条氏側の足軽が倒れている。北条氏の武将は逃げたようであった。
殺伐とした戦場で死体を一箇所に集め、火を付けた。山の中での埋葬は風葬か、平地なら火葬しか出来ない。また、戦場になる可能性があるなら、火葬して山から谷に投げるしかない。石を置き塚を作った。
兵が引いたので弥彦は武田軍に昌幸の手紙を伝達する任務に付く。真新しい甲冑に沼田の馬を連れて甲斐に向かった。
沼田城には矢沢が戻る事に決まり、3つの砦の幕岩城、小沢城、荘田城には武田に流れた国衆が付く。
沼田が万全な状態であると確認してから弥彦は馬を走らせた。夜は馬を休める。
弥彦は風呂敷から矢沢が書いた武田勝頼の宛名書きを見る。豪快な文字を見て人柄が伺えた。それに引き換え真田昌幸は端正な文体をしていた。藤田はもっと楷書体で武田勝頼殿と書かれている。
やはり矢沢の文字が気に入っている弥彦は、何度か矢沢の手紙を手に取った。しかし、地べたに落としてしまい、砂を払い落とす。
朝、藪の中で昌幸が教えてくれた指笛の音程で吹く。沢から返しがある。数日もせず甲斐から上野国に向かう野営地点まで見つける事が出来た。
暗幕から敷かれた陣地には武田の家紋が縫われていた。
武田菱が至る所で棚引いている。今回は矢沢が居ない。弥彦は胸が縮む思いだった。
矢沢の存在は弥彦には大きい。藤田以外の武将には会った事もなかった。
藤田とは馬小屋で会った。
寡黙な摺り足の馬子。弥彦には警戒するだけの動きであった。だが、馬が良く懐く。馬は見た目よりも頭が良い。藤田はクズ菜葉を持って朝一で動いていた。城主であるなら逃げ足になる馬を大切にしていたのだ。
「弥彦殿は熊を打たれたそうな……。どうでしたか? 」
不意に掛けられた問は興味の表れであった。
「警戒している時に熊が森から立ち上がった。偶々槍がオラに覆いかぶさった時に心臓を貫いただけだ。動けなくなった所を鎌で首を切って仕留めた。運が良かったたけだべ。まだ年若い人を襲った事がない熊だったんだべ。」
藤田が無表情で見ている。
「遠くで見ていた仲間が色々付け足してるだけだべ。毎回違う事を言っているべ」
「熊が襲ってきたらどうします?」
「一矢報いる……だが、今は違うべ。逃げる。力の限り走るべ。生きていたいと思ったべ」
弥彦にはあやめの顔が過ぎった。
藤田が訝しい顔をしたが、笑みを零した。
「力の差を知ったのですね……。ならば、槍では心許ない。ふむ。どうしたものか? 」
藤田もどきが遠くから歩いてくる。それを見た藤田が駆け寄って行く。二三言葉話すと、馬屋に来た。
この時は藤田めどきを城主だと思っていた弥彦は、膝を付いた。
「お前にこれを……。褒美として与えん」
藤田もどきが白い日本刀を差し出した。弥彦が肌見放さず持っていたのは替え玉から貰った物だった。
「刀に恥じぬように生きなさい。必ず守って下さいますよ」
藤田は笑みを零した。
ああ、初めから城主として目を掛けられていたのだな……と弥彦は思った。
寡黙な藤田に気に入られ、矢沢に会い、短刀を渡され、そして、真田昌幸から託された刀。
雑兵ごときに託す刀ではない。
胸を張ろう。託された想いを弥彦は武田勝頼に伝えるのだ。
陣地はこじんまりとしていた。本陣の城から出て下山している。
武田勝頼を前にして弥彦は身を引き締めた。早足で近づき片膝を付いて頭を垂れた。
「我が名は阿部弥彦。沼田城主、藤田信吉様の一平卒。真田昌幸殿の伝達を伝えに参った。真田殿、矢沢殿、藤田殿、他国衆の手紙を携えておりまする」
胸元からあやめの風呂敷に入った手紙を出した。
前には三人座っている。中心にいるのが武田勝頼だろうか……。まだ若い青年。
横から出てきた兵が手紙を勝頼に手渡す。弥彦は下を向いた侭居た。
「では、城主は藤田信吉で間違いないのだな……」
「はい。国衆、用土新六郎殿の仮の姿に御座います。」
勝頼は、昌幸の手紙に目を通し、藤田、国衆達の内容を読み、隣の武将に手渡した。
「名胡桃城で敵を退けたようだが数は?」
「300にも満たないと思われます」
「では武蔵の地には退いていないな……。まだ立て直し決戦に持ち込むつもりだろう……」
隣の男が言う。
「敵兵も本城へはまだ帰還できますまい。織田の動きが読めませぬ」
「織田の力が強すぎまする」
「北条方に付いていた上杉景勝らは和睦に応じていまする。北条を攻めるなら今かと……」
勝頼が唸った。
「沼田は死守しなければなるまい。昌幸には岩櫃城に戻り、退路を絶たせよう。北条の決戦が終わるまで待たせてからだ」
勝頼が手を叩く。硯と黒い布を持ってこさせた。
立ち上がると布が引いてある一角に、座る。
墨を擦り始める勝頼。
「そうだった。もう一通……。矢沢から……。」
勝頼は宛名を見てから、近くにある松明に投げ入れた。音も立てず矢沢の手紙が燃やされる。
「あないに、汚れていては読めますまい……」
弥彦は呆然と一部始終を見ていた。
開きもしないで燃やされた矢沢の手紙の灰が宙を舞う。
また何事もなかったように墨を擦る勝頼。
弥彦は奥歯を噛み締めて下を見た。滴った汗が地面に垂れた。




