8 船
アーキラクオーツはシロノイスで採れる透明度の高い美しい水晶で、ミラーの国名のついたミラークオーツという黒い水晶との交換だけでやりとりをしている高級品だ。価格の適正化と盗難防止のために少数を頻繁にやりとりしている事が、この船の勤勉さにマッチしたのだと、男は語った。
そこから少しずつ「拝借」し、一粒でも二粒でもウルトイルに「降ろす」らしい。
男は帳簿を誤魔化す担当だそうだ。
個数ではなく「重量」で計測するときに、コツがあるとやや自慢げに言った。
アリアは、ルイにべらべらと口を滑らせている男が希望に満ちている様子を黙って眺めている。
罪悪感や苛立ちがこの一年積もり積もっていたのだろう。それで毒を盛るのは恐ろしく馬鹿だが、長いものに巻かれて動けなくなった人間が、突然リミッターが外れて危害を加える手段を取ってしまうことは六十五年の人生の中で何度も見てきた。
いわゆるキレるとヤバい奴だ。
「で、毒のことだけど」
「それは本当にすみません。一度や二度では影響のない量ですが、身体は平気ですか。今までお客さんが口にしたことはなくて」
「平気だ」
ルイは今まで受容の姿勢で話を聞いていたのが嘘のように、静かに男を睨みつけた。
「アリアが口にしていたら、それが影響があろうとなかろうと関係なく、お前を海に沈めていたよ」
男は一瞬息を飲み、吹き出した汗を必死に拭う。
すみません、と枯れた声で言うと手を握りしめた。
「毒の調合は誰が?」
「……私です」
「誰に聞いた?」
え? と男は首を傾げる。
「私が作った毒ですが」
ルイはそのとぼけた顔をしばらく見ていたが、緩く頷いた。
「わかった。では、後で“荷物”を確認させてほしい。そうすれば明日の朝に到着するミラーでお前を降ろすと約束しよう」
「は、はい」
「いつも通りにしておくこと。少しでも気取られると、この話は無しだ。いつ抜けられる?」
「朝食当番が終わったので、この後はいつでも大丈夫です」
「では三十分後に甲板で」
「はい!」
顔を輝かせた男に「いいから死にそうな顔してろ」と言い残し、ルイは立ち上がった。
アリアは誰もいない甲板で、手すりを掴んで潮風に目を細めた。
地平線をどんどん進んでいく船の上に逃げ場はない。どこへでも行けるのに、今この瞬間は不自由だ。船に乗ると、いつもその感覚が不思議で仕方なかった。
夜は明けた。朝日が海から顔を出し、海面を凶暴に照らしている。
「どうした? さっきから」
隣に経つルイは、手すりに寄りかかってアリアを見上げた。
アリアはその目を見つめ返し、眉を下げる。
「うーん」
「言う気がないやつか」
「ううん。言葉にするのが難しいだけよ。ルイのこと、知ってるつもりだったなって」
「なんだそれ」
「さっきね、話しているところを見て、誰だろうって思ったの。私の知っているルイと、ルイが過ごしてきた時間で形成されたルイと、当然だけど違うんだなって」
「中身は六十すぎてるからな」
「そうよね」
アリアは苦笑する。
それはそうだ。自分は六十五年生きたし、ルイは想像もつかない場所で六十五年戦ってきたのだ。堂々と人に指示するルイの姿に、初めて王弟という身分の重さを実感したと言ったら、ルイはどういう反応をするのだろうか。
遠いと思ったという言葉を、アリアは言わずに頷いて飲み込んだ。
ルイはアリアの横顔をちらりと見る。
「……お前もだけどな」
「私?」
「俺の知っている十五のアリアとは、やっぱり少し違うよ」
「そうかな」
「あの頃は物怖じしないし適当だったけど、今じゃそれに加えて人の扱いがうまくなって、人を転がしてる」
「転がすって、私が? 誰を?」
「はいはい。まあ、俺たちが割と短気なところは、五十年前も今も変わってないだろ?」
「それはそうね」
「お前、めちゃくちゃ穏やかな顔で、のんびりした態度のくせに、嫌いなことに関しては短気だもんな」
「ルイは外側に対しては無関心で安定してるけど、内側に入れたものには愛情深くて繊細で、短気よね」
「おー、そうそう。本質は変わらねえよ」
アリアはルイを見た。アリアを見上げる目が凪いでいるのを見て「遠い」と感じたことを見抜かれていたのだと気づく。なだめるような視線は、そのまま早朝の空へ向かった。アリアもそれを追いかける。青と薄紫と水色の境目がぼんやりと溶けている朝焼けの空に、まだ星が輝いている。
胸に溜まっていた淀みのようなものが、途端に消えていく気がした。
ルイが、来たな、と呟く。
アリアが振り返ると、甲板に出てきたばかりの男が縮こまってこちらを窺っていた。
「お前は待っとけな」
「ん。わかった」
「落ちるなよ。身体が冷えたらすぐ部屋に戻っておくこと」
「はあい」
「アリア」
少し進んだルイがアリアを見る。
視線が、同じ位置になる。
アリアはその目に何故かひどくざわめいた。
「お前は俺の内側にいるよ。五十年前から」
一言そういうとルイは無垢な微笑みをアリアに向け、反応できずにいる姿を満足そうに見てから出て行った。
あんな顔は知らない。
アリアは再び海に向き、ほんの少し赤くなった頬を冷ます。
これはきっと、深く考えてはいけない。
そういえば初めて船に乗ったのはいつだったっけ、とアリアは現実逃避に乗り出したのだった。