7 船
スープを見た男は、喉を締め付けられたように苦しげに息を飲んだ。
その瞬間、ルイが素早く立ち上がった。男の腕を掴む。
男は反射的に手を引いたが、逃げるに逃げられなかったのか、すべてを悟った青白い顔でその場で震え始めた。
小さな子供に押さえつけられている背の高い男を見て、アリアは同情する。ルイの凄まじい視線を真っ直ぐに刺されているのは些か可哀想だった。
「ルイ、離してあげて」
「アリア」
「大丈夫。逃げたりしないわね?」
アリアが柔和な笑顔で話しかけると、男は震えながら頷いた。
ルイはしばらくじっと男を見ていたが、徐々に手の力を抜いたようだ。真っ白になっていた男の腕が徐々に血色を取り戻していく。
「……どうして」
男は呆然と呟いた。
その「どうして」はどういう意味だろう。「どうして」旅客がこんなに朝早くに食堂にいて乗組員用のスープを飲んでいるのか。「どうして」スープに毒が入っていることがバレたのか。「どうして」それが自分であると知られ、「どうして」こんな子供から逃げられないのか。
こちらからすれば「どうして」毒を入れるなど馬鹿げたことをしているのか、だ。
アリアは、ふと何気なく彼が持ってきていた朝食のプレートを見て、あらま、と呆れた。テーブルに置かれたそれには、スープカップも乗っているのだ。
「あなた、自分も毒を飲んでるの?」
アリアが聞くと、男は一気に脱力した。
ふらりと自分が引いていた椅子に倒れ込むように座る。顔を覆い、小さくかすれた声で呻いた。
アリアは、細い身体で縮こまる中年の男を哀れに思った。自分が毒を入れたスープを自分も飲むのは一体どういうことなのか訳が分からないが、こうして年下(に見える)者たちに、自分の悪事を取り押されるなど思いもしなかっただろう。
「……ユシアの根と、ハズラリスの実、フシダケに、コジシの骨」
「!」
ルイが囁くように言うと、男は勢いよく顔を上げた。
追い打ちをかけるようににっこりと笑いかけるルイに戦慄いている。これでは話せないだろうが、それを許してはもらえるわけがない。
「にらめっこしても無駄だと思うわ」
仕方なくアリアが助け船を出すと、男は脂汗をかいた額を袖で拭い「すみません」と一言ようやく絞り出した。
「理由を言え」
「い、家に、帰りたく、て」
「……は?」
ルイは男の旋毛を指さし、何言ってんだこいつ、とアリアに視線で訴える。
どうやら馬鹿馬鹿しすぎる理由が飲み込めないらしい。
アリアは頷き、代わることにした。
「家に帰れないの?」
言っておいてなんだが、ものすごく馬鹿馬鹿しい。
アリアは、自分の姿が十七で、相手は三十代を過ぎたであろう男に「どうしておうちにかえれないの」と聞いている姿を客観的に見たときに、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがなかった。
もう面倒くさくなっていたが、知ってしまった以上、これから毒を飲み続ける人たちを思うと放ってはおけない。
男は一見穏やかに見えるアリアには心を開いたらしい。
うっと涙ぐみながら、腰に掛けていたタオルで顔を覆った。
ルイがうんざりした目で男を見ている。
「すみません、すみません。もう一年家に帰れてないんです。港へは寄っても下船することを許されなくて」
「許されない?」
「そうなんです。シロノイスとミラーを繋ぐ定期船のこの船が、去年から一日も休まず運行することになって……とにかく荷物を積み、人を乗せ、船を整備する。もう一年ずっと海の上です。家に帰りたい。子供たちに会いたい」
「それは可哀想」
馬鹿馬鹿しいと思ったけれど、これは意外と深刻なのではないだろうか。アリアは同情した。
ミラーとシロノイスは長いこと交易も親交もある。積み荷のやりとりも多いだろうが、だからといってそんなに必死にこの船が責務を果たさなければならないほど、他の船がないわけではない。
アリアの丘の家からは港も見えていたが、常に色々な国からの船が貢ぎ物を持ってやって来ていた。
「だから、毒でも盛って体調不良にでもなれば、この船をとめられると思ったんです」
「あなた一人が飲むのは駄目なの?」
「駄目なんです。一人くらいなら、看護室に寝かせられて終わりだ。船底の全く休めないところへ押し込まれ、二日寝かされて仕事に戻される」
「まあ、なんて人使いの荒い」
「全員が体調不良になってパニックを起こすくらいじゃないと駄目だと思ったんです。国の遣いが船に入って徹底的に検査してくれれば、その間はみんな休める。ベッドの上で苦しいかもしれないが、揺れていないベッドなら天国だろうし」
物騒な言葉が並んだ。
相当追いつめられていたらしい。それは、本当に家に帰れないからだろうか。男から罪悪感のにおいがした気がして、アリアはさりげなく聞いてみた。
「この船は途中でウルトイルに寄港するのよね」
アリアが聞くと、男はびくりと身体を揺らした。丸まっていた背をさらに丸める。
「……今日の、夜に」
「何を降ろすの?」
「……ああ、もう、ああ」
男は小さな声で呻いた。
それまで黙っていたルイが、指先でこつこつとテーブルを叩く。男が顔をタオルからようやく上げ、ルイを見た。ルイはにこりともせず、脅さない声で言う。
「教えてくれたら、お前を自由にしてやるよ」
「アーキラクオーツ」
わりとすぐに白状した。
男はさっきまで泣いていたのが嘘のように瞳を輝かせている。
アリアは思う。
やっぱり毒を使うやつは総じて馬鹿らしい。