エピローグ
懐しいにおいがした。
もう随分人がいなかった家の独特の気配のなかにも、自分の家というのは自分しか知らないにおいが染みついているようだ。アリアは薄暗い部屋の中、記憶を頼りに壁に触れながら歩く。
寝室にたどり着くと、ベッドカバーが丁寧に掛けられたベッドを見つけ、アリアはそれにそっと触れた。
誰かが、整えてくれたのだろう。
窓から月明かりが差し込み、微笑むアリアをやわらかく照らす。
揺るぎない意志の強い目は満たされていて、内側から輝くような表情をしていた。胸元で切りそろえたブロンドが揺れる。
左手に持っていた紙袋を置くと、アリアは支度を静かに始めた。
服飾の国、オダリーでルイにプレゼントされたのはもう二週間ほど前。
紙袋の中身は見ていない。ミラーから船に乗り、ウルトイルを中継してシロノイスへ。
十年ぶりの帰国だった。
着なれた素朴な格好に帽子を目深にかぶった二人は城下町の宿を取り、夜まで息を潜め、街が寝静まった頃に小さな荷物を持って丘を駆け上がった。
アリアは袋から出したドレスを見て、月明かりにかざす。
シロノイスの国花が刺繍された美しい純白のドレスだった。
「よお、アリア」
家から出て庭へ行くと、ごろりと寝転がっていたルイがアリアを呼んだ。
白いシャツに、紺のスラックス。くつろいでいるその格好は、十五のアリアがよく見ていた格好だ。
肩まで伸びた黒髪が芝生に散らばり、長い足は組んで揺らされている。
けれど、こちらを見る目だけが少し違う。
深く慈しまれている、信頼を灯した目だ。今は悪戯心が見え隠れするが。
「こんにちは、ルイ」
アリアも昔のように返してみる。
ルイが嬉しそうに笑い、起きあがって立つとアリアを迎えに来た。
見下ろされ、そのまま額にキスが振ってくる。さらりと黒髪が頬をくすぐった。愛おしい感覚に、アリアは目を細める。
「ん、やっぱり綺麗だ」
「私もう二十七よ。ちょっと可愛すぎない?」
「はいはい、照れない照れない。約束だったろ。ドレスでも着て、この庭で踊るって」
「ルイの格好はそれでいいの?」
「いいんだよ、俺は」
「あ、待って」
アリアは庭に咲いていたカスミソウを摘むと、小さなブーケにしてルイのシャツの胸元のポケットにそっと差し込んだ。とんとん、と叩く。
「はい、どうぞ」
「……感謝、か?」
「もちろん。あとは永遠の愛っていう花言葉でもあるのよ」
「幸福もだっけな」
「やっぱり詳しいのね」
「じゃあ俺からも」
ルイは胸元のカスミソウを一つ取ると、アリアの耳に掛けた。
そのまま頬を撫でる。
「この花の全ての花言葉をお前に」
「具体的にお願いしようかしら」
「お前が耐えられるなら」
「やっぱり遠慮することにするわ」
「愛してるよ」
「……ワルツを踊りましょう」
「ふっ。はいはい」
ルイに手を差し出される。
アリアはその手を澄まし顔で恭しく取った。
夜の庭の片隅で手を取り合うと、無音の中お互いに体を寄せ、ステップを踏む。
ルイのリードに身を任せるのが心地が良い。
乾いた心地のいい夜風が、庭にさあっと吹き込む。木々や草花が観客のようにさわさわと揺れ、ローズマリーの香りがふわりと足下から二人を包んだ。
ルイが支えてくれている体が、くるくると軽やかに動く。
「……ああ、そうだ。ミラーで軟禁されたな」
ルイが呟く。
アリアはこの会話に思い当たり、くすくすと笑った。
「ふふ。そうね、昔話をしなくちゃ」
「結局フオルロンに三ヶ月くらいいたんだっけか」
「そうね。あの後、イアンともゼノとも気軽に話すことなくフオルロンに行ったけど、ほぼ毎日イアンと会っていた気がするわ」
「けろっとした顔で、暇だからって話しに来たり、チェスをしに来たりしてたな、あいつ」
「きっとルイから学びたかったのね」
「迷惑だった」
「あら、嘘が下手ね」
ゼノは結局、妹の不始末を国王に正直に話したそうだ。
三ヶ月の幽閉を言い渡されたが、実際は膨大な書類整理を任され、仕事に忙殺されていた、とイアンが持参した手紙に書いてあった。ジゼルの幽閉はさすがに兄王子たちもかばいきれなかったらしく、ゼノの言うとおりに実行され、出られるようになるまでに一年がかかったが、彼女はその後社交界で「希有なる才媛」として評価されたというのだから、ああ、よかったわ、と安心したのを覚えている。
どこにいても、イアンとゼノからの手紙が届いていたのは、ルイ自身が葉書を出していたからだ。
「いい友人になったじゃないの」
「困ったときの生命線の一つだよ」
「あら、可愛くない。ゼノの結婚式だって、イアンとジゼルの結婚式だって、見届けに行ったじゃない」
招待状がきても、小さいときならまだしも、成長したルイの顔ならば知っているかもしれない人たちの巣窟にはさすがに行けなかった。それでも足を運んだのだ。
憎まれ口も許されるとわかっているルイは、余裕のある目でアリアを見つめる。
「俺ももう二十五だ。可愛くなくて当然だろ?」
「可愛い瞬間はいつでもあるわ、安心して」
「そりゃ残念だ」
「小さい頃が懐かしく思うときはあるけど」
「小さいって言うな」
「いつでも、どんなあなたも特別よ」
アリアが言うと、その目は「わかってる」と微笑んだ。
身長差が縮まっていく過程で、二人で色々な壁に当たったこともあった。
どちらかが大袈裟に照れたり、それ以上は駄目だ、とストップを掛けたり。その中で、焦らずに少しずつ新しい「ふつう」を増やし、自然に形を変えていくことができた。おかげで、ルイが十七の時には、信頼感や安心感というものが一回り大きく育っていたうえで恋人同士になることができたのだ。
そういえば、なぜかその後にエドワードと偶然会い、何も言っていないのに「おめでとう!」と祝福されたこともあった。エドワードはサーシャの洋菓子をウルトイルで流行らせ、従業員を雇い、そして今はウルトイルに立派な洋菓子店を持ち、奇跡のクッキーなどという看板を掲げて少数だけを各国に気まぐれに配り歩いているそうだ。
それぞれの国の情勢を見て歩いているのだろう、とアリアは思う。
彼は無駄なことはしないはずだ。
サーシャとも彼女が二十歳になったタイミングで結婚して家族になり、ダンとともに今も三人で暮らしている。
キースも未だ現役で、今回シロノイスに帰国する手筈もはりきって整えてくれた。
あらゆる教育係として頼られているらしく、忙しい中にもかかわらず明日は密かにお茶をする予定だが、アリアは遠慮した。去り際に挨拶だけを、とルイに言うと、素直に頷かれた。
どうか、二人でゆっくり話をして欲しい。
「みんな幸せになったわね」
「お前は?」
「もちろん幸せよ。ルイは?」
「お前と出会ってから、ずっと幸せだよ、俺は」
くるりと回転し、深く抱き留められた。
アリアもルイの背中に手を回す。
ああ、幸せだ。
こんな感情は特別な相手にしか感じないだろう。
抱きしめられると、心がすとんと落ち着いていく。なのに、幸せで幸せで、足下から感情がせり上がってきて、泣いてしまいそうになる。
この人でなくては駄目だと、いつもそう感じる。
愛している、と。
「踊るか」
「踊りましょう。夜明けまでには退散しないと」
「だな」
再び、二人で手を取り合って踊る。
ルイが鼻歌を歌うので、アリアは嬉しそうに笑みをこぼし、ルイの手のひらをまた強く握った。同じ力で返される。ふざけあいながら、くるくると回る。
星空の下、月明かりに照らされながら、二人は夜が明ける直前までワルツを踊った。
次はどこに行こうか、と話を弾ませながら。
完
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
こうして完結できたのは読んで下さった方々のおかげです。
いいね、が一つある度、
誰かが読んでくれているんだな、と嬉しく
ブックマークが一つ増えると、
誰かが続きを気にしてくれたんだな、と励みになり
評価をもらえると、
どうしたら面白く読んでもらえるだろう、と考え
誤字脱字報告は
申し訳ない恥ずかしい思いの中、何よりもありがたい、と思いました。
メッセージをいただいた時は、それを何度も読み返して原動力にさせていただきました。
pvひとつあるだけでも本当に本当に嬉しかったです。
アリアとルイの物語が、少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。
藤谷




