50 ミラー
一瞬、空気が凍り付いた。
両手で顔を覆ったゼノ、わあ、と口元を押さえるイアンに、その真ん中では二人と対照的に頬を赤らめて、希望に目をきらめかせる少女がルイの返事を待っている。
お付きの者、か。
アリアは、それは仕方ないかも知れないわ、と納得する。
王城で末っ子として育った彼女から見れば、自分は随分大人に見えるだろうし、何よりルイの育ちと佇まいと容姿の洗練された美しさは、やはり「一般市民」とは呼べないものと彼女はしっかりと見抜いている。方や自分は子爵家の令嬢であったのはたった十五年。その後は旅をして気ままに過ごしてきた「一般市民」だ。その組み合わせを見ると、お付きの者と言われても何もおかしくはない。
それに、ストレートに「一目惚れだ」と言えるのはすごい。ルイの身分を確かめなくとも、欲しいと言えるのだから。彼女は自分に自信があるのだ。
では、私はどうだろう。
私は。
アリアがふと視線をあげると、ゼノが真っ青な顔で目を見開いてた。
イアンに至っては顔に「本当にすみません」と書いてあり、アリアがそうっと隣を見ると、ルイはそれはそれは凄絶な微笑みを浮かべていた。少年に似合わない妖艶と感じるほどのそれは、見るからに怒りがこみ上げているのがわかるというのに、たくましいことに王女様はさらに喜びを表情に乗せる。
ルイが紅茶のカップを持ち上げた。
ゼノとイアンが一瞬緊張し、さっとジゼルを守るように手を動かそうとしたが、アリアは黙って見守る。
ルイは、カップをその場でゆっくりと傾けた。
ソーサーに紅茶が溜まっていく。溢れ、テーブルに染みが広がっていく様を、ルイは微笑んだ表情のまま見つめていた。
ジゼルは最初は不思議そうにしていたが、徐々に顔を強ばらせていく。
カップから紅茶が流れなくなり、ルイは空になったそれを再びソーサーに静かに置いた。たぷん、とソーサーに溜まった紅茶が再び溢れる。
「大変美味しいお茶をどうも。これで失礼する」
すっと立ち上がり、アリアを見る。
とろけるような優しい笑みで、ルイは手を差し出してきた。そっと握る。紳士らしくアリアを椅子から立ち上がらせると、そのままバルコニーを後にしようとした。
が、どこまでもめげない少女に呼び止められる。
「……ま、待ってください!」
ルイは無視をしようとしたが、アリアが足を止めた。
彼女を振り返る。
ジゼルはそれでもルイに向かって必死に言葉を投げかけた。
「私はあなたに恋をしているのです。その心だけでも、受け取っていただけませんか?」
ルイは何も答えない。
ゼノとイアンに至っては、アリアに懇願するような目で事態の収束を求めていた。そんな目をしていないで自分でどうにかしなさい、と言いたい。
「ジゼル様」
子供らの目に負けたアリアは仕方なく彼女に話しかける。
彼女は初めてアリアの格好に気づいたように、ぽかんとした。
「……な、なにかしら」
「これは私のです」
ルイの手をぐいっと引っ張る。
彼女は自信がある。
じゃあ、私はどうだろう、とアリアは考えていた。
ルイは決して自分を置いていかないし、自分も決してルイを置いていかない、とイアンに話したことを思い出したとき、自信など関係ない、と悟った。
自信があろうとなかろうと、一緒にいる。
そうしたいのだ、と。
「あなたがルイに恋をしていようとどうでもいい。だって、私はルイに恋をしたことはないもの」
ジゼルのように、思いっきり自分をぶつけて走ることが恋ならば、アリアはしたことはない。この先できるとも思わない。だったらルイに対するこの気持ちは、一つしかなかった。
「愛してる。ずっと前から。ルイという人そのものを」
五十年前から。
愛おしんできた。会えなくとも、話せなくとも、ただただ、元気でいてくれることを願っていた。特別で愛おしい存在だったことが、自分の支えでもあった。
ジゼルは一瞬怯んだが、潤んだ目でアリアを睨もうとしている。
「……それは、家族としてではないかしら? 愛など親でもきょうだいでも感じますわ。私だってお兄様方を愛しておりますし、このイアンのことだって愛しています!」
とばっちりを受けたイアンは、少々驚いた顔でジゼルを見ていた。
瞳に動揺が一瞬揺れる。
アリアは、はあ、と大げさなため息をついて見せ、ジゼルを見下ろすようにしてハッキリと言った。
「これは、私の男です」
ごほ、とアリアの後ろでルイがせき込む。
「私がお付きの者に見えるのでしたらそれは仕方ありませんが、ルイを侮辱するのはやめていただけますか」
「ぶ、侮辱などしていないわ」
「ルイが、王女様であるあなたが持っているものを差し出せばお願いを聞くと思っているのなら、それは侮辱だわ。彼はそんなもので動いたりはしない」
ジゼルはハッとして黙り込んだ。
見苦しい我が儘はよせ、というのが伝わったらしい。
くい、と手を引かれ、アリアはルイを見た。その顔には呆れと、喜びと、複雑な何かが入り交じっている様に見えて「駄目だった?」と首を傾げると、目を伏せた苦笑が返された。そうして、ゼノに向き直る。
「ゼノ殿下」
ゼノが弾かれるように立ち上がる。
「俺たちはこれで失礼する。先ほどの部屋でキースを待たせていただきたいのだが、彼が到着したら呼んでくれるだろうか」
「……承知した」
「ではその時にその者達に与えた処罰を聞かせてもらう」
「その必要はないよ」
この場に不似合いな脳天気な声が、突然割って入った。
驚いたのはアリアとルイだ。この声を知っている。
ばんっとゼノの私室の扉が大きく開かれ、それはやって来た。
「やあ、待たせたね。我が愛しの弟よ! 兄上が助けに来たよ」
両手を広げたエドワードが、何故かそこに華々しく登場したのだった。




