40 ミラー
「可愛い、だと?」
アリアはソファの端っこで丸まって震えていた。
両手で首を隠して荒い息を整える。
無言を貫くと、隣から伸びてきた手に首筋を捕らえられ、くすぐられたのだ。たった一回の攻撃で、アリアはソファからぴよんっと跳ねて、あっさり「可愛いと思ったの」と白状した。そのまま二度とされてはたまるか、と端っこで防御状態になっている。
ルイはソファの縁に掴み、じりじりとアリアに近づいてきた。
アリアの足のすぐそばでとまり、縁に右腕を置いてくつろいだ格好で、真っ赤になって睨み上げるアリアを複雑な表情で見下ろす。
「ふうん、可愛い、ねえ」
「だってそう思ったんだもの」
「なんで? お前はよく言うよな。昔も言ってた」
「裏庭で?」
「ああ」
十五の頃に「怖いか」と聞かれて答えたのが「可愛いと思う」と言うと、当時のルイに驚かれあげく爆笑された覚えがある。アリアは首を守っている手をそろそろと解き、からかうつもりのないルイの瞳を見つめ返した。
本当に疑問だ、と目が言っている。
「俺は今の今までお前以外に可愛いなんぞ言われたことない」
「どうして?」
「俺が可愛くはないからだ」
ルイに当然だと言われ、アリアは思いっきり首を傾げた。
「私には今も昔も、あなたがとても可愛く見えるわ」
「目は大丈夫か」
「心配しないで、大丈夫」
アリアは大きく頷く。
どうして、と言われても、どこが、と言われても、こればかりは感覚で感じていることなのでうまく説明できない。とにかく、ルイのふとした表情にアリアのどこかが触れて揺れて、そう思うのだ。心がきゅうっとなるというよりは、ふわりとじんわりと暖まる。
「あ、でもこれって」
「なんだよ」
「可愛いっていうより、愛しいって感じているのに近いのかも知れないわ」
アリアがまじめに言うと、思い切り顔をしかめたルイがそのままゆっくりと倒れかかってきた。
「わ」
丸まっていたアリアの膝の上にもたれ掛かるようにして、アリアの膝をとんとんと叩く。
「お前は」
「はい」
「……わかってる、お母さまのようだって言うんだろ」
「どうして?」
聞き返すと、ルイはアリアの膝にもたれ掛かったままぴくりと動いた。
「違うのかよ」
「当たり前じゃない。お母さまを可愛いだなんて思ったことはないわ。ルイはあるの?」
「……ねえな」
「でしょう。だから頭を撫でてもいい?」
「意味がわからないぞ」
「あなたが可愛くて愛おしいから、触りたいだけ。もちろん子供扱いではないわ」
「もう勝手にしろ」
疲れ果てたような低い声ではあったが、ルイから了承がもらえたアリアは、そうっと手を伸ばして膝の上にいるルイの頭へと手を伸ばした。
指先がその艶やかな黒髪に触れた途端、何とも言えない喜びのようなものに胸を鷲掴みにされる。
さら、と指先で髪を撫でると、その感動がむくむくと大きくなっていった。
アリアの目がきらめく。指を髪の間に通し、その柔らかさを思う存分味わう。
「……ふ、くすぐったい」
「!」
少し低く笑う声が昔のように聞こえた。
アリアは咄嗟に手を離した。
が、ぱしりと掴まれる。
見ると、前髪の隙間から見上げてくるルイの瞳がアリアだけを映していた。
言葉が詰まって出てこない。顔が赤くなるよりも先に、アリアの目の奥が激しく揺れた。動揺していることを悟られても、ルイは笑わなかった。
ただただじっと、真顔で見つめられる。
アリアの方が耐えられなくなった。
「……な、なに……?」
「いや」
ちらりと一瞬だけ視線が左に逸れたが、ほっと息をつく前に再び射抜かれる。
「アリア」
「はい」
「気に入ったからもう一度」
「はい」
ルイが再びアリアの膝に頭を預けると、アリアはソファの端っこで丸まりながら、膝に乗ったルイの頭に再びそうっと指を乗せた。
さらさらと髪を梳くように撫でると、ルイがふっと力を抜く。
アリアの身体に知らずに入っていた力も抜けていった。そういえば、ウルトイルではこのつむじにキスを寄せたのだ、と思い出す。
今できるだろうか。
アリアはそう思って、ああ、できないわ、と思った。
どうしてだろう。今同じことはできない。つい二日ほど前のことなのに、何が変わったのだろう。
「なあ」
「なあに」
「お前さ、家族に対してはどうなの」
「家族?」
「そ。お前が言う大好きで愛しいお母さま以外に、同じように思える家族はいたの」
「……なるほど」
アリアはルイの髪を撫でながら一人頷く。
「いないわ」
「ふうん」
「オード家の人たちは大好きよ。彼らの距離感の取り方は本当に尊敬するほどに絶妙でありがたかった」
「父親は?」
「そうね、きっと好きじゃなかったんだと思う」
アリアは言葉がすんなり出たことに驚いた。
自分自身と向き合うのはとても苦手だ。封じ込めていた場所だと思うが、ルイに聞かれてしまうと不思議と正直になれた。
「なにがどうとかじゃなくて、きっとお母さまを忘れようと必死になっている姿が嫌いだったんだわ」
「再婚に反対してるわけじゃないってあの頃言ってたけど、あれは本心だろう?」
「もちろん。もうその頃には気持ちが離れていたのよ。きっと。あんなに悲しんでいたのにお母さまを大切に思っていたことを忘れようとする過程を見るのは、私にとってはむごいものだった。私はお母さまの姿を忘れても、お母さまが特別で愛おしい存在であったことは忘れられなかったもの。私はきっと、執着心が強いのね。特別な存在を忘れることができない。思い出の外に置くことができない。いつまでも、真ん中にあるわ」
口にしながら。ああ、そうだったのか、と思う。
膝に感じるあたたかな重みが、ルイのさらりとした黒髪の感触が、アリアの柔らかい部分をそっと癒していた。




