33 ミラー
悪いが全力で逃げてくれ、と言ったゼノに返事もせずに、ルイはアリアの手を引いてさっとその場を後にした。そのスマートさに、ルイの人生経験の豊富さの片鱗を見た気がしてアリアはなんとなくそれが気に入らない。女性を簡単にかわすルイの慣れた所作など、見たいものではなかった。ルイの過去に固執するつもりは毛頭ないが、彼が王弟として様々な女の子を泣かせてきた疑惑もあるので、簡単に言うとモヤモヤするのだ。
「アリア」
几帳面な碁盤の目となったミラーの城下町でも目立たない場所を歩かされ、図書館やら雑貨屋を通り過ぎ、とうとう人気のない路地を見つけたルイにアリアは連行されていた。煉瓦の壁に追いやられたアリアは、じっと上目遣いで自分を見つめてくるルイを精一杯険しい表情を作って見下ろす。
「か、買い物に行きたいわ」
「おう。話した後で、一緒にな」
「一人で平気」
「一人で行ってもいいが、後をつけていくから意味ないぞ」
ついでに「俺は慣れてるしなあ」なんて、こともなげに言う。
アリアは少しだけ詰まった。
「な、なにを話すの」
「お前の不機嫌の理由を」
「別に不機嫌じゃないわ」
「……アリア?」
「ルイが慣れているところを見るのは嫌なのよ」
これ以上誤魔化すとろくなことにならない、と察したアリアは早口で白状した。
前に立っていたルイが、アリアの両手を握ってきて放さないどころか、自分の方へ引き寄せてきたからだ。
「慣れてる?」
「……」
「何に?」
「……わかったから手を」
「ん?」
「女の人の扱いよ。ルイがそうしているところを見たくない。モヤモヤするの」
アリアは顔を背けて一気に言った。もう勘弁して欲しい。ぎゅっと目をつむる。
思えば、自分の意見は「嫌」「無理」とはハッキリと言うが、自分の心の内を話すのはとことん苦手だ。ルイはそんなことを承知しているはずなのに、どうして聞いてくるのだろう。アリアはふと苛立って、ルイを睨もうとした。
が、思わずぽかんとする。
ルイが、ふにゃりと表情を崩して、伏し目がちに微笑んでいたのだ。アリアの頬が、じわじわと熱くなっていく。アリアの視線に気づいたルイは、器用に天使のような表情をすとんと消した。
「ふうん、わかった」
などと、何でもないように言う。
先ほどまでの喜びに満ちた表情とは雲泥の差だ。
「お前が気にするのなら、今後気をつける」
「……そ、そう?」
「ん」
「あの、ルイ」
「なんだよ」
どうやら聞いてはいけないらしい。
アリアは黙って何度か頷いた。ただ、妙に嬉しくて、それがどうして嬉しいのかもわからないが、とにかく嬉しくて、さっきのルイと同じように、顔がゆるむのを感じた。気を抜けば、ふふふ、と笑い出しそうだ。
ルイが手を引く。
アリアはその手を握りかえして、二人で一緒に路地から脱出できたのだった。
煉瓦の道に、屈強に見える背の高い建物に、複数ある窓。
ミラーの建物の技術はどこよりも進んでいて、アリアがその昔訪れたときよりも、より洗練され、生真面目な印象を強く感じた。わりと裕福であって、楽園と呼ばれているシロノイスのちょうどよく力の抜けた町並みが懐かしい。街路樹など緑は多いが、シロノイスに漂う風に乗って運ばれるさわやかな草のにおいは感じなかった。熱に焼かれた煉瓦の土のにおいや、開いた窓から漂う本のにおい。やはりとても、真面目な国だと感じる。
「ここは相変わらずだな」
ルイも同じことを思っているのか、苦笑するようにこぼす。
アリアは頷いた。
「本当にね。堅実というか、堅牢というか」
「まあ、この大陸の要の場所だしなあ。入り口であり、出口である港のある王都だし、軍も精鋭ばかりだ」
「シロノイスはすごくのんびりしているんだって、ここに来る度に感じるわ」
「まあな。王家も安定してるし、自然豊かで資源も豊か、シロノイスは金持ちの運営するのんびりした島だよ」
「あら。じゃあ王だった者にも感謝しなくては。例え何もせずハンモックに揺られていても」
アリアはにやりと笑う。
主にエドワードに対する嫌みだったが、正しく伝わったようだ。ルイも同じように笑った。
「今度の王はしっかりしてるから、数年後にそっちに感謝してやれ」
「ふふ。そうするわ。ルイが言うのなら」
「頼むな。ああ、そうだった。アリア、そろそろこれ持っとけ」
見えてきた大きな門を前に、人々が列をなしている。
王都である城下町から出て、フオルロンを通り、山脈の隙間を通って隣国へと行くための関門だ。
ルイから渡されたのは、その唯一の大陸への道を通過するのに必須である「身分証」だった。やはり準備はしっかりしていたらしい。アリアの名前と、誰が身元引受人かが書かれている。もちろん、キースだ。名前が光って見えるほど威光に満ちている。
「彼にはお世話になっているのね。昔から」
「本当になあ」
ルイは軽く言っているが、その言葉には深い信頼が感じられた。
何気なくルイの身分証も見るが、もちろん「ルイ」という名前だけだ。それを見て、自分たちは本当に「ただのアリア」と「ただのルイ」になったのだと、嬉しくなる。
アリアがふにふにと笑っているのを、ルイが眩しそうに見上げてきた。
「嬉しそうだな」
「うん」
「まだしばらく越えられそうにないけど、身体は大丈夫か」
「平気。そうだ、聞かせてほしいわ」
「何を?」
「ルイとキースのこと」
「……別におもしろくないぞ」
「あら、いいじゃない」
あの落ち着いた青年がお菓子を毎日作っていて、それを持たされていたルイを想像すると妙におかしくなる。彼らがどんな友情を育んでいたのか聞けたなら、アリアにも宝物のような記憶を分けてもらえる気がしたのだ。




