32 ミラー
天気に恵まれた船旅は、シロノイスから出たときとはまるで違う穏やかで普通のものだった。
夜は二人で眠りにつくまでエドワードの悪事について話し、それにアリアが怒ったり呆れたりするのをルイは目を細めて穏やかな顔で見ていた。
穏やかな夢だって見られた。
波に揺られながら見る夢は、その昔、裏庭で二人でただ話をしていたときのよくある場面だったが、それが幸福であったことをそのまま受け止めて目覚めることができたし、目が覚め、先に起きていたルイに寝ぼけていたところを頭を撫でられたことも、くすぐったくて、子供のように安心できて、そして嬉しかった。
そんな船旅ももうすぐ終わる。
「あっという間にミラーね」
「だなー」
隣に座るルイがのんびりと頷く。
客船のせいか甲板にはベンチがいくつも置かれていて、アリアとルイのように旅客の人々が思いのままくつろいでいた。
船が大陸へと吸い寄せられていく。湾の向こうには町が広がり、王都らしい雄大な城と、そのさらに向こうにある先の尖った山々が、雲の隙間からこぼれる朝日に照らされていた。
シロノイスは海上の楽園と呼ばれているが、ミラーは神々しいがどこか硬質な雰囲気で賢者の城などと呼ばれている。世界中の文献が集まっている図書館が多く、研究者が住み着いていることも由来しているのだろう。こうして離れたところから見ると、その言葉の意味がよくわかるような気がした。
栄光溢れる神々しさや、じっと待ちかまえている城や山々に、どこか感動すら覚える。
「……いい天気で良かった」
「ん。お前、王都には長くいたいか?」
ルイに聞かれ、アリアは首を横に振った。
「どちらかというと、できれば避けたいわ。私、ミラーには叔父とよく行っていて、小さい子の相手を任されたことも多かったから、私のこの頃の顔を知っている人がいる可能性もあるの」
「俺もだな」
「そうよねえ」
ルイの言葉に、アリアも頷く。
ルイの母親の生まれはミラーで、つまりミラーの王女だった人だ。親戚がいるこの国では、よく働く王弟として名だけが知れ渡っていたルイの顔を知っている者がいるかもしれない。
一度見れば忘れられないこの美しい佇まいを、綺麗さっぱり忘れてくれるなどあり得ない、とアリアは本気で思う。
「じゃあなるべく城下町は素通りで」
「すぐにフオルロンに行きましょ」
「決定だな」
フオルロンはミラーの山々の麓にある小さな自治区で、温泉が豊富にある観光地兼保養所として有名だ。その昔は温泉を巡って戦が起きたとか何とかいわれているが、古き良き石畳の左右で湯けむりが上がるあの風景は、心が本当に和やかになれた。想像だけで、ほうっと息をつける。
「ああ、楽しみだわ」
「ビールもワインもが飲めないのが残念だけどな」
「本当にね」
と、アリアもルイも温泉へ行こう、と意気揚々と船を下りたところで、突然後ろから呼び止められた。
「ルイルイ、そろそろ話しかけていいよね?」
「おいイアン……」
アリアが振り向くと、どこにいても違和感のない格好をしたミラー国第五王子とその従者が立っていた。つまり、イアンとゼノだ。にこにことしているのはイアンで、その肩を掴んで引き留めたらしいゼノは、少々居心地の悪そうな顔で「お前は最後まで我慢しろよ……」とうんざりという風に呟いた。
ルイは二人を見て軽く睨む。
「ゼノの言うとおりだ。お前は最後まで我慢して見送れ」
「だってえ、ここで声かけなかったら絶対もう会えないじゃん」
「会えなくていいけど」
「冷たい、ルイルイ冷たいー」
「もう本当に悪い」
ゼノが額に手を当ててルイに謝る。
まさか同じ船に乗っているなどと思ってもみなかった。アリアはしつこくルイにアピールをするイアンの後ろでさらに小さくなっている男を見つけ「あら」と呟く。家に帰りたいから、と乗船員に毒を盛っていた、あの男だ。イアンとゼノに連れられてはいるが、拘束されている様子もなければ、顔色もとてもいい。
「良かったわね」
思わずそう声をかけると、男はアリアを見て目を輝かせた。
イアンを押しのけてやってきて、アリアの手を握る。すかさずルイに思い切り叩き落とされて、親指をあらぬ方向に曲げられて呻いた。
「すみません、すみません」
「触るな」
「あの、はい、もう触ってません」
ルイはそのまま男の手を引き、耳元で何かを伝えたようで、男は必死に何度も頷いていた。
イアンがじっとりとその様子を見て、ゼノはその肩をぽんぽんと叩く。
その二人のやりとりから、結局この件は流通経路を潰して終わるようだ、とアリアは察した。今後は、国同士でさぐり合い、落としどころを探し、その先の利益を絡めた建設的な外交が、これを期に始まるのだろう。
すべてをクリアにして、正しいことをしているだけでは、世の中は動いてはいかない。
悲しいけれど、人生だってそんなものだということをアリアは知っている。
ルイから解放された男は、アリアに向き直ると両手を後ろで組んで頭を下げた。
「ありがとう。あなたのおかげでこうして家に帰れます」
「……ええ」
「今度はいい船に乗れるように、しっかりと」
「もう船に乗るのはやめろ」
ルイが呆れた顔で言うのに心底同意する。
「あなたは船乗りには向いていないわね」
「そ、そうですか……」
「これ、持って行け」
ルイが手紙を渡す。
男は深くルイに頭を下げると、手紙を大切そうに抱きしめてイアンとゼノをちらりと窺う。ゼノがひらひらと手を振って「行け」とジェスチャーをすると、もう一度アリアとルイに頭を下げて、さっさと港を後にして消えていった。弾む足取りを見送るルイの大きなため息を聞いて、アリアはルイの面倒見の良さに、感心を通り越して同情すら覚えた。
まあ、あの兄がいたのなら仕方がないのかもしれないが。
アリアはふと、ウルトイルで暢気にハンモックに揺られていたルイの愚兄を思い起こした。
本当に迷惑な人だった。きょうだいとはなんて厄介なものかしら。
アリアはルイの肩をとんとんと叩く。
何も言わずとも伝わったらしい。さっさと退散すべし。と、二人で頷き合ったそのとき、港に可憐な声が響き渡った。
「お兄様!」
四人が同時に声の主を振り返る。
馬車から降りてきたその少女は、控えめらしいドレスを身にまとい、美しいプラチナブロンドの長い髪を揺らしてゼノを見る。が、その側にいるルイに気づいた途端、顔を赤らめたかと思うと、華奢な手で口元を覆った。イアンが、わあ、と気の抜けた声を出してゼノを肘でつつく。
「……これはもしや」
「面倒なことになったかもしれない。ルイ、悪いが妹から全力で逃げてくれ」
やはり、きょうだいは厄介だ。
アリアは再び何かに巻き込まれた気がしてならないが、こればかりは全力で逃げさせてもらおう、と心に決めたのだった。




