11 船
幼くとも端正なルイの顔が、アリアに迫る。
手摺りの上で組んだ腕の上に顔を預けたまま、鼻を摘まれて動けないアリアの頬に、ルイはひんやりとした頬を寄せた。すり、と頬で撫でられる。
呆然としたまま反応できずにいると、そのまま耳元に息づかいを感じ、アリアの身体は反射的にびくりと震えた。耳元で「ふっ」と笑われる。
そして、柔らかい何かが頬に触れた。
鼻先がかすめ、慈しむような動きでもう一度頬を寄せられる。
「アリア」
囁くような声が、頭の芯に溶けていく。
次の瞬間、アリアはルイを激しく突き飛ばしていた。
真っ赤になったまま、肩で息をしながらルイを睨みつける。
ふらりと一歩後ろへ下がったルイは、顔を上げるとわざとらしく自分の唇を指で撫でた。
笑っている。
「何するの」
アリアが低く唸ると、ルイはさらに嬉しそうに顔を歪めた。
「ふうん。怒ってるんだ?」
「ルイ」
「俺はお前の内側じゃないの? 何をしても許してくれるんだろう?」
「そうだけど、でも」
アリアは少しだけ怯んだが、手を胸の前で強く握りしめた。
「していいことと、していけないことがあると思う」
「別に襲ってないだろ」
「お、おそうって」
「この身体じゃ無理だし。倫理的に」
「そういうことじゃないわ」
「チークキスしただけだろ。別にいかがわしい事じゃない」
「そうだけど」
「じゃあ何が問題なんだよ」
ルイに堂々と聞かれ、アリアはしどろもどろになりながら、しかし真っ赤な顔で怒り続ける。
「駄目」
「なにが」
「とにかくそういうのは駄目。駄目だから、駄目」
「子供かよ」
くすくすと笑うルイの方が今子供であるというのに、その笑みはずいぶんと余裕があって、憎らしい。
アリアは自分の感情があっちにこっちに大移動しているのを感じながら、恐ろしく早鐘を打つ心臓をどうにか落ち着けようとした。しかし、中々治まらない。こんなに感情が揺れ動くこと事態初めてなのだ。
「はいはい」
ひとしきり笑ったルイが、子供をあやすように言う。
ルイが一歩近づいてくると、アリアはその分一歩逃げる。
すると、ルイは苦笑して、すたすたとアリアが逃げる前に距離を詰めてきた。逃げ場がなくなり、手摺りを握ってきたルイの小さな腕の間に閉じこめられる。
カッと身体に血が一気に巡った。
「ル、ルイ!」
「おー」
「近くないかな?!」
「近いな」
「!」
ずっと無邪気に笑うルイに、アリアは眉をつり上げた。
「なんでそんなに嬉しそうなの」
「仕方ないだろ。嬉しいんだから」
「どうしてよ」
「お前の内側にいられるのは嬉しいけど」
ルイがぐっと身を寄せてくる。
身体が密着する寸前で止めた。
「何でも許されるのは腹が立つよ」
上目遣いで言われ、アリアは思わず言葉に詰まった。
顔は真っ赤なままだが、意味が分からず、一拍置いて首を傾げる。
「……なんで?」
試してきたのはルイだ。
安心してほしくて「特別だ」と「何をされても許せる」と伝えたはずなのに、どうしてそれが駄目なのか、アリアには全くわからない。
ルイはぱっと身体を離し、アリアを解放した。
「いいよ、別に。今は分からなくても」
達観したような笑みでアリアを見るその目に、またざわめく。
アリアは思った。
ルイの知らない部分はたくさんある。
「……ルイが、沢山の女の子を泣かせたことは分かったわ」
たとえば、アリアが触れてこなかった恋愛の経験値だとか。
「ふうん」
人を惑わせる視線の使い方とか。
「でも誰も俺の内側には入れなかったよ。お前と違って」
人を誑かす言葉の使い方とか。
「泣かせたのは認めるのね? 沢山の女の子を」
アリアは、ふと心が苛立つのを感じた。
「さあ。覚えてないな」
にこにことはぐらかして答えるルイに、アリアの苛立ちが波のように揺れ動くのを感じる。
何に苛立っているのかは、わからないし、わかるのが恐ろしいけど、それをぶつけたくて仕方ない。そう思った瞬間、感情が勝手に爆発した。
「もう知らない!!」
「……ぶっ」
「笑った?!」
「……悪い」
謝ったはずのルイは、顔をくしゃくしゃにして子供のように笑っていた。
そのまま大きな一歩で近づいてきて、あっという間に抱きすくめられる。アリアの肩の当たりでこつんとルイの額が当たっている。ちょっと、と口を開こうとしたが、声がのどの奥で引っかかって出てこない。
抱きしめてきたルイは、アリアが揺れるほど笑っていた。
「わ、笑わないでよ!」
「知らないって……もう知らないって……お前、アリアじゃないだろ。ふっ、ははは!」
「私は私よ!」
そう言いながらも、自分ではない自分が身体を乗っ取ったような感覚だった。右往左往している。自分の反応が、どこから湧いてでているのか全く分からない。コントロールできない。こんなことは初めてだった。
アリアはしばらく硬直していたが、自分を抱きしめて声を上げて笑っているルイの旋毛を見て、脱力した。さらさらと流れる黒髪がなんとも柔らかそうで、気持ち良さそうに見えたのだ。触れたくなり、ことんとその頭に自分の頭を預ける。頭がふらふらと揺れる。
海の波よりも、ずっと居心地がいいのが不思議だった。
そっと目を閉じてみる。
自分の知らない自分が、ルイの存在を確かめているのを静かに感じていた。




