10 船
「すごく綺麗で上品な人でね」
アリアは思い出すように語った。
継母と義妹を語ることなど、今まで一切なかったので、妙な心地だ。
潮風と波の音がほんの少しの沈黙を埋めてくれている。
「とても話しやすくて気さくな人。義妹もそんな感じだった。お互い死別同士で、長いこと一人者だったし、再婚に反対する人もいなかったわ」
「お前は反対しなかったの?」
「もう十四だったのよ。反対なんてしないわ。お母様が四つの時に亡くなって十年間、きちんと誠実だったもの。そもそも、私が反対しない相手を慎重に選んでいたと思う。もちろん、両家の利害もあったんでしょうけど、きちんと大事に想い合っていたんじゃないかな」
「じゃあ何が問題だったんだよ」
ルイが不思議そうに首を傾げる。
そうよね、とアリアは頷いた。
「私も最初はなんでこんなに苛立つのか分からなくて悩んだの。お父様をとられたなんて全く思っていないし、むしろ幸せそうにしていたのは嬉しかったのに、どうしてって。とてもいい人だし、私とうまくやろうとして気を使ってくれたし、可愛らしい義妹は姉と慕ってくれてたけど、こう、いい人だから……」
「なるほど。鬱陶しかったと」
ばっさりとルイが言う。
アリアは胸のつかえが取れたように、ふっと息を吐き出した。
「そう。ものすごく鬱陶しかった」
「短気が発動したな?」
「ふふ。駄目ね、私もうまくやろうとした。必要ないときは無駄に話しかけなかったし、それぞれの時間に口出ししなかったし、食事は一緒にして話に耳を傾けたわ」
「つまり、必要ないときに話しに来て、お前の時間を共有しようとして、食事ではお前が喋ることを強要してきたと。お前の気遣いと向こうの気遣いが一致してない。つまり相性が悪いな」
「端的に言うとね」
「お前は人を受け入れるのは容易くするけど、受け入れられようとはしないからそりゃストレスだっただろうな」
ルイの言葉に、アリアは目を丸くして隣を見た。
「そうなの?」
アリアが聞くと、ルイはアリアを見上げて目を細めた。
悪戯っぽく、それにしては肉食獣のような獰猛さが見え隠れする。
「そうだよ。お前はいつも両手を開いて相手を受け入れるけど、気に入らないとすぐに追い出すし、自分を理解されようとするのがすごく苦手だろう。だから十七の俺とは平気だった。お互い詮索しなかったからな。今はどうだ? 俺はお前を理解しようとしてる。追い出すか?」
挑戦的な目だった。
けれど、その獰猛さの奥に、アリアは別の何かを感じた。
アリアが愛おしく思うものだ。
「追い出さない」
アリアは手摺りの上に組んだ腕に顔を寄せ、ルイと同じ目線になりはっきりと告げる。
ルイは目を細めたまま、すっとアリアの顔に近づいた。
「なんで?」
息が鼻先に触れる。
アリアはふわりと笑った。
「ルイは特別。五十年前から、私の内側にいるから」
ルイの細められた目がぴたりと静止し、瞳孔がじわりと開く。
「お前の内側、ね。俺が?」
「そうよ。私は内側に入れた人には何をされても許すわ」
「短気なお前が? それは特別だな」
「ルイ」
アリアはその鼻先を指でつんと触れる。
「私を試さないで」
そう静かに言う。
ルイの顔が一瞬陰るが、それでもアリアは笑みのまま続けた。
「私はあなたを恐れないし、馬鹿だなんて思わないし、嫌いならないし、追い出したりもしない。それは、私にとって最初に得られた掛け替えのない友人だからではないわ。あなたに初めて会った瞬間は今でも思い出せるほど、特別だった。本当はすぐに退散するつもりだったけど、お喋りがとても楽しくて、あの半年間、毎日が特別だった。旅先で一年に一回会えるのだって、特別。旅をやめて、丘から城を眺めた十七年だって、特別だった」
アリアは、ああ、確かにそうだ、と思った。
人に理解されたいと思ってきたことはなかった。
なのに今、何度も美しい脆さをのぞかせるルイに「理解されたい」と思っている。
安心してほしいと思っている。
「試す必要なんてない。ルイ自身が、私にとって特別なの」
ルイから、目を逸らさない。
猜疑心のにじむ目がやわらいでいくのを見て、アリアは落ち着いた微笑みで見つめ返した。
ルイは、はあ、と乱暴なため息をついてから顔を逸らし、ぐしゃぐしゃと頭を掻く。
「初めて会った瞬間、ねえ」
「うん。覚えてる?」
「覚えてる覚えてる。お前、頭に葉っぱくっつけたまま、俺を見て呆然としてた。それで知らないふりして、こんにちは、だろ? すごい肝座ってるなって思ったわ」
「仕方ないでしょう。だって、ルイすごく間抜けな顔してたのよ」
「……間抜け」
「その間抜けな顔を見て、あなたは普通の人なんだって思えたわ」
「ふうん。じゃあ間抜けも悪くないな」
ルイは屈託なく笑うと、アリアの頭に手を乗せた。
ふと、初めて船に乗ったときに叔父に頭を撫でられた事を思い出す。同じような、慈愛の手だ。
アリアはふと聞きたくなった。
「我が儘だったと思う?」
「家を出ることが?」
「うん」
すぐに分かってくれることが、嬉しい。
「いいや。よくやった」
ルイは笑う。
そして、そのままアリアの頭を撫でた。
誰にも理由を話したことがなかった。父親にも「家を出たい」と「無理です」を繰り返し、それ以上のことは言及しなかったし、叔父は察してくれて聞かれもしなかった。
自分の心の内を言えるのは、なぜかルイだけだ。
アリアはぽろりとこぼす。
「どうしてルイには言えるんだろう。友人って偉大ね」
「……お前なあ」
心地よく頭を撫でてくれていた手が離れ、アリアの鼻をぎゅっと摘んだ。
「よく聞け。俺は男だからな」
「? しってるよ」
鼻を塞がれながら答えるアリアのきょとんとした顔に、ルイはあからさまに顔をしかめ、再び顔を近づけてきた。




