プロローグ
その日、王都は華々しい一日を迎えていた。
齢二十五の若き新国王の戴冠式を終え、街中に祝福の花びらが舞っている。新国王の麗しい姿や凛とした佇まい、聴衆を鷲掴みにした素晴らしいスピーチに、民は皆太陽の下で新たな賢王の誕生に沸いていた。
その街の騒がしさが微かに聞こえる長閑な小高い丘に、一軒だけ小さな家がある。古い家だが、手入れの行き届いた庭や、小さな傷でも丁寧に修理した跡、玄関にはフルーツや卵のかごがあり、この家の住人が、離れた街の人々から愛されてきたことがわかる家だった。しかし、昼を過ぎているのに受け取っている様子がないことに今日という日だけは誰も気づけない。庭のローズマリーが、風でさわさわと静かに揺れている。
アリアはベッドの上にいた。
昨夜から体調がよくない。とてつもない眠気に襲われているのだ。絶えず眠気が襲いかかるので、今日は一度しか起きていない。玄関に、国旗を飾っただけ。
ようやく、前国王が椅子を下りて、この国に本当の春がやってくることになったのだ。
アリアは丘の風景の向かいにある城に向かって、ひっそりと手を振った。その手を見て、ああ、皺だらけになったわね、と今更のことのように思う。かさつく白髪を一筋持ち、その昔は美しかったブロンドを思いだそうとして、やめた。杖をついてゆっくりとベッドへ戻ってまた眠り、時折起きて窓を見て、また眠った。風に乗って運ばれるローズマリーの香りと喧噪が心地よかった。
ふと、ああ、私は死ぬのだ、とアリアは悟った。
身体の真ん中が、心、と呼ばれるであろう部分が、誰かに優しく撫でられているように温まる。
悪くない。アリアは思う。こんな風にお迎えが来るのも、悪くはない。父親の再婚で家を出たのが十六の頃だった。預け先の家では、うまくできていただろうか。あの家の優しい人たちを不快にしなかっただろうか。ああ、でも仕事についていけたのは嬉しかった。色々な国に行くと、そこに住む人々の人生のかけらに触れられた気がして、自分は一人ではないのだと感じられたのだ。どの国の料理も美味しかった。とうとう独身を貫いてしまって、こうして誰にも看取られることはないが、自分の人生は誇らしい。私は私の心に素直だった。
思い残すことはない。
…………。
………………。
おかしい。
アリアは目を瞑ったまま、段々と思考が冴えていくことに違和感を覚えた。
死ぬと覚悟をして、心の中も整理して待っているのに眠気が嘘のように消えていく。
あんなに身体が重かったというのに、なぜか軽く感じるほどだ。さっきまでなかった渇きも感じる。無性に水が飲みたい。一度気になると、もうそれしか考えられなかった。水、水……
「み、ず」
アリアはぱちりと目を開いた。
先ほどまで力が入らなかったはずの目がカッと開いたのは、自分の声があまりにも若々しかったからだった。一瞬、家に誰かやってきたのかと思ったが、頭は自分の声だとすぐに認識していた。
驚きのあまり、勢いよくがばりと起きあがる。
いつもは腰が痛くてゆっくりしか動けないはずの身体が、恐ろしく軽い。そして視界には、ゆらゆらと揺れる懐かしい金糸と、干からびたはずの腕の代わりに、しっとりしたハリのある白い腕。恐る恐る、腕を動かすと、自分の思うように動いた。そのまま、手を顔に。頬をなぞると、ふっくらとしている。皺だらけだった目尻はピンとしているし、額から頭へと手をやり、髪を梳いてみると金糸が揺れた。昔のように腰まであるブロンドの髪のやわらかい手触りに、アリアは何度も髪をなでた。
髪を集めて顔の前でぎゅうっと抱き寄せる。
母譲りだったブロンドがひどく懐かしい。
ひとしきり髪を抱きしめたあと、どうなっているんだ、とようやく現実が追いかけてきた。
ふと、髪の隙間から何かが動いた気配がして、びしりと固まる。
そろりとベッドサイドを見ると、少年が一人、静かに立っていた。
肩まで伸びた黒々とした髪に利発そうな不思議な色合いのヘーゼル色の目。見覚えがある。
アリアの知っている姿よりももっと幼い気はするが、この美しさは間違いない。間違えようがなかった。
「……ルイ?」
呆然としたアリアが呼ぶと、少年は微笑んだ。
「久しぶりだな、アリア」
アリアの記憶の記憶が、急速に巻き戻されていく。
→ → →【15】
その日の午後はよく晴れていて、アリアはいつものように王立学園の裏庭を目指して歩いていた。
他の生徒はガーデンルームで優雅な昼食会をしているので、アリア以外に廊下を歩いている者はいない。誰ともすれ違わずに無事に図書室へつき、誰も近寄らない自主学習スペースの一番奥の窓を開け、淑女とは思えない身のこなしで窓から出る。深緑色の制服のドレスの裾がふわりと揺れた。
そこからまた裏手に回り、行き当たりの植木をかき分けると、偶然できたであろう秘密の裏庭へとたどり着く。
そこは、学園一大きな木だけがぽつんとあって、芝生の上に座り、寄りかかって空を見上げるのがアリアの一日の中で唯一色々なものから解き放たれる瞬間だった。
けれど、その日、そこには初めての先客がいた。
ブーツを脱ぎ、漆黒の上着を芝生の上に脱ぎ捨て、寝転がって組んだ足をぶらぶらと揺らしながら、その青年は随分間抜けな顔でアリアを見て、持っていたクッキーを落とした。
対するアリアも、頭に植木の葉をつけたまま止まる。
二人の間の一瞬の硬直を解いたのはアリアだった。
「こんにちは」
本来ならば、淑女の礼をして「ごきげんよう」と言う場面だったが、アリアは青年を知らないふりをした。そうでなければ、非常にマズい場面に出くわしてしまっているからだ。
軽く挨拶だけをして、知らぬ存ぜぬで逃げよう。
そう決心し、にこやかでフレンドリーな態度を続ける。
「ごめんなさい。おじゃまして。どうぞゆっくりしてください。私はこれで」
「名前は?」
青年は起きあがり、アリアを見ていた。
先ほどの表情とは違う。
黒い前髪の隙間から見える美しい切れ長の目や、通った鼻筋に薄い唇。笑っているはずなのに、無表情に見える。
アリアはふっと力を抜いて、朗らかに笑って返した。
「アリアよ」
家の名前を出したらダメだ、と直感が訴えている。
青年はアリアの態度を注視していたが、やがてどさりと再び寝転がった。
「そうか」
笑っている。肩を揺らし、ひとしきり笑うと、青年はアリアに向けて先ほどが嘘のような柔らかい眼差しを向けて口を開いた。
「……俺はルイ。初めまして、アリア」
逃げるべきだと分かっていたのに、アリアは手招きをされるがまま近づいてしまい、そのまま二人で木の下で「相手の素性を探らず、自分の素性を語らない」他愛ないおしゃべりをしながらその日を終えた。無事解散の運びとなったときは心から安堵したが、どうしてルイと名乗った青年が一人きりでそこにいて、無事に帰してくれたのか不思議で仕方なかった。
だというのに、翌日も裏庭へと足を向けたのは「自分を知らず、自分も知らない相手」とのおしゃべりが気楽で、最高に楽しかったからだろう。アリアはそういう友人を求めていたことに初めて気づいた。
社会の縮図である王立学園の中で友人はできなかったし、家へ帰っても気まずいまま。
形式ばった話し方も、本当はすごく苦手だったのだ。
心地のいいものが大好きで、苦手なものは全力で逃げたいアリアにとって、彼とのおしゃべりは前者に収まってしまっていた。もちろん、下心など一切ない。
「よお、アリア」
「こんにちは、ルイ」
もう初めてここで偶然会ってから二週間になる。
お互いに菓子を持ち寄って、木の下で適当な会話をする。
あの日が初めて会ったのが嘘のように、ルイは毎日、アリアが来る前にはそこにいて、寝転がってぶらぶらと足を揺らしていた。アリアが植木を揺らすと、気づいたように顔だけを向けてにっと笑う。決まって、先に名前を呼んでくれる。
「お前いくつだっけ」
おや、めずらしい。
ルイが差し入れしてくれる絶品のりんごのジャムクッキーを頬張りながら、寝ころんだルイを見下ろす。
肩胛骨まで伸びている黒髪が芝生に散らばって綺麗だ。
「えーと、十五よ」
「老けてるな」
「失礼な」
「俺は十七」
「へー。じゃああとすこしで卒業ね」
いつもなら天気とか、今読んでいる詩集についてとか、べらべらと中身のない話をして、お互いを探ったりはしない。アリア自身のことを聞かれてることは本当に珍しいが、きっともうすぐ卒業だということを伝えてくれたのだろう。
アリアは足を伸ばして木により掛かり、木漏れ日がちらちらと揺れるルイの顔をひっそりと見た。
目を瞑っていると、人を寄りつかせない剣呑な雰囲気が薄らいでいて、ただただ綺麗だ。
「俺さあ」
ルイがぽつりと呟く。
「一つ目標ができて」
「ふんふん」
「俺に課せられた使命を誰にも文句言わせないほどきちんと終えた後は、若返って今度はふつうに過ごすんだ」
真面目だなあ、とアリアは思った。
確かにルイの環境からしてみれば逃げることはできないだろうが、楽をすることは可能なような気がする。ルイは自分の立場に対して、とても誇りを持っているのだろう。彼がそうするというのなら、きっと貫き通すような気がした。どうやるのかは知らないが。
「ふうん、いいんじゃない。若返りってなんかできそうだし、頑張った人生へのボーナスステージっていうか、ご褒美よね。お金貯めておけばそのまま使えて旅に出るのもいいし」
「お前って本当に楽観的だよな」
ルイはくすくすと笑って、目を開けた。
アリアをじっと見上げる。アリアはその目に自然と笑いかけていた。
「ルイは若返ったらなにするの?」
「旅に出る」
「ふふ。楽しそう」
「一緒に行くか」
「そのとき暇だったらね」
「じゃあ、旅費貯めとかないとな」
長閑な午後だった。
風が心地よかったし、ルイの持ってきたクッキーを食べ終えてアリアが先に出るのを、ルイは手を軽く振って見送ってくれていた。
あれから、ルイが卒業する半年後まで毎日午後を共にする友人だった。
特別な、ただ一人の友人。
←
アリアはハッとした。
懐かしい思い出に浸っている間に、ルイはどこからか丸椅子を持ってきてベッドサイドに座ってりんごを剥いていた。ウサギの形をしたりんごが皿の上に乗っている。
「食べな」
少年が皿とフォークを差し出す。
伸びた髪や、その不思議なヘーゼルの瞳、顔の造形は間違いなくルイだ。
どこか憂いのある鋭い眼差しと、一歩下がって相手を観察しているような読めない表情。あんなに深かった声だけが、聞いたことのない声で奇妙な感じがする。
「ルイ」
アリアは呆然としたままもう一度呼ぶ。
なぜかルイは表情を和らげて、あの裏庭にいたときと同じような気の抜けた顔をした。
ようやく知っている顔を見て、アリアは安堵する。
皿を受け取り、りんごにフォークを刺すと小さくかじり付いた。
「おいしい」
「そりゃよかったな」
「私まで若返らせなくてもよかったのに」
アリアはしゃりしゃりとりんごを口にする。
ルイが、ナイフで刺したリンゴを自分の口に運ぶ途中でぴたりと動きを止めた。
りんごが皿へ戻される。
「理解が早いな」
「ルイの目標を覚えてたもの」
「五十年前の話だぞ」
「そんなに前だっけ。なんにせよ、達成おめでとう。お疲れさまでした」
アリアはルイを見て、真面目に言ったつもりだったが、何故か笑われてしまった。
少年の笑顔は随分破壊力がある。
幼い顔で可愛らしく笑われては、どうしようもない。
本当ならば少し怒りたかったが、アリアはルイがどれだけの努力をして「使命を終えた」のかを知っていたので、彼が自由に生きられることが純粋に嬉しかった。
この五十年、長い戦いだったことだろう。
「なあ、アリア」
「ん?」
「……あー。懐かしいな。お前の適当な返事」
「そう?」
ルイが頷く。
そして、懐から黒い袋を取り出した。
「旅費。貯めといた」
ベルベット生地の片手で収まる袋はずっしりと重そうで、じゃらりと音が聞こえた気もする。その袋の中身を聞くのが恐ろしい、とアリアは思ったが、旅というワードにはめっぽう弱かった。それもこれも、十七歳のルイが「旅をしたい」と言っていた影響で、アリアの唯一の趣味が旅になっていたからだ。一人で旅をする限界を五十代目前で感じたので、もう十年と少し、どこへも行っていない。
「……どうしよう。私、いきなり勝手に若返らされて、今とてつもなく暇よ。ちなみに貯蓄もばっちりなの」
「じゃあ行くか」
ルイが立ち上がり、ベッドに座ったままのアリアに手を差し出した。裏庭ではごろごろと寝ているばかりだったので、紳士的な態度にそわそわする。
「ところでルイはいくつに若返ったの?」
手を取りながら言うと、ルイの表情が消えた。
「……」
「ルイ?」
ベッドから降りると、その無言の理由がわかった。
アリアは自分がいくつになっているのかは分からなかったが、ルイは明らかに自分より小さかった。アリアの肩のあたりにルイの頭がある。年の頃は十二くらいだろうか。幼く見えて当たり前だった。ルイの旋毛を見下ろしながら、しかしアリアは別のことにとてつもなく驚いていた。
「ねえ、腰が痛くないわ」
「……わかる。膝も痛くねえだろ」
「本当ね。若いって何て素晴らしいの!」
こうして、若返った二人は豊富な人生経験と貯めに貯めまくった旅費を持って戴冠式の騒ぎに乗じて王都を出ることになったのだった。
行った先々で面倒に巻き込まれるとは知らずに。
読んでいただき、ありがとうございます。