4. 川崎日本語学校、経営体制混乱の収束 前半
神奈川県の川崎市にある川崎日本語学校の面々に降りかかった不思議な事件の記録です(日本語学校の学校名や登場人物、設定はフィクションです)。
川崎日本語学校の経営、運営が混乱から収束に向かっていく時期、時間を少し遡ることにする。
その年の夏から秋にかけて、川崎日本語学校の校長の福井は、ベトナムやタイ、ネパールに足を運び、翌年の4月の留学生の募集を行った。
ベテラン職員に同行してもらっていた前回のリクルートの観察と反省から、福井は思い切って募集の際に第三者の助力を得ることを決めていた。募集の1か月ほど前にベトナム、ネパール側に連絡を入れ、現地の留学会社とまったく関係を持たない信頼がおけそうな通訳者兼コーディネーターを探した。
両国ともに現地で通訳者兼コーディネーターを雇って、現地の案内をしてもらい、留学会社の面接や留学希望者の家庭訪問、留学会社が企画する食事会などにも同行してもらうことにする。
留学希望者や家族との面接の受け答えは、通訳者兼コーディネーターに適宜チェックしてもらい、先方の留学会社の通訳担当者の言うことを鵜呑みにしないように注意することを取り決める。
ベトナムでも、ネパールでも、福井が求める条件と予算に合致する通訳者兼コーディネーターを見つけることができた。ベトナムでは日本語通訳のベトナム人女性、ネパールではふだんは旅行ガイドをしているネパール人男性に仕事をお願いすることになった。
ベトナムでも、ネパールでも、留学会社によって、または、その留学会社の通訳担当者によって、留学希望者や家族が話していることが相当ひどくねじ曲げられていることが少なからずあったようだ。通訳者兼コーディネーターの指摘は福井が今まで比較的信用していた留学会社、通訳担当者にまで及ぶこともあった。福井は今さらながら驚いた。
通訳者兼コーディネーターには、当初は通訳のチェックとその場での資料のチェックをお願いしていたのだが、先方の留学会社の通訳担当者が話している内容が要領を得ないときや意味不明だったことも相当な頻度であり、留学会社と留学希望者の了解を取ったうえで、通訳者兼コーディネーターに最初から最後まで通訳をお願いすることになったこともあった。
校長自らが募集を行うことによって、筆記試験や面接を行ったすぐ後に受け入れ可能かどうかを判断することができ、遅くとも翌々日までに留学会社や留学希望者に受け入れ可否を伝えることができた。スピーディーな受け入れ可否の通知はベトナムの留学会社にはずいぶんと受けが良いようであった。
通訳者兼コーディネーターの尽力もあり、ベテラン職員に同行してもらっていた前回の募集より、はるかにスムーズに事が進んだ感があった。
ベトナムとネパールからは、他の日本語学校が募集しているのと比較して、それなり以上の学習意欲と学習能力を持っている留学希望者を相当の人数受け入れることができそうだった。
その一方、タイからの留学希望者は1人もいなかった。
前年4人の留学生を紹介してくれたタイの留学会社の社長と担当者の説明によると、社長や担当者が手を変え品を変え川崎日本語学校を勧めてくれたようだが、それでも、福井が校長を務める日本語学校を選んでくれた留学希望者はいなかったらしい。
社長や担当者が言うには、タイ人留学生はベトナム人留学生に対してあまり良いイメージを持っていないようであるとのことだった。
福井は中国に行く余裕がなかったのだが、教務主任である弓野がかつて日本語を教えていた元中国人留学生のつてなども活用し、中国の留学会社からも合わせて10人弱の留学希望者を受け入れられそうな見込みが出てきた。
中国の留学会社からは、川崎日本語学校が(法務省が課す一定の基準を満たさない)非適正校であることに関して相当の不安を持たれていたようで、留学会社の元社員を名乗る中国人がわざわざ学校に視察代行者として来訪、その後、福井と弓野が中国の留学会社の社長と2時間ほどオンラインで対談する等々のことがあった。
中国の留学会社からは、東日本大震災前のそちらの学校の実績も考慮した結果、信頼して留学生を送り出すことにするが、留学生の生活サポートとビザの手続きは学校の責任できちんと確実に行うよう数回念を押されるように要請され、学校としてしっかりと生活サポートとビザの手続きを行うことを確約させられた。
日本の日本語学校は、文部科学省(旧文部省)の管轄ではなく、法務省の管轄下にある。
日本で留学生を受け入れている日本語学校は、法務省の認可や学校の形態などにより、1年のうち4月、7月、10月、翌年1月の年4回、または、4月、10月の年2回留学生を受け入れることができる。
日本の日本語学校に留学生が在籍できる期間は原則として2年間以内とされている。
4月に留学した場合、留学生は翌々年の3月までの約2年間(日本語能力や学力が高い場合は翌年の3月までの約1年間というケースも有り)在籍できるのだが、他方、1月に留学した場合、4月に年度をまたいでしまうので、翌年の3月までの、約1年3か月しか在籍できない。
ちなみに、留学生が7月に留学した場合、翌年の3月までの9か月と1年間、つまり、翌々年の3月までの約1年9か月、日本語学校に在籍可能となる。また、留学生が10月に留学した場合、翌年の3月までの6か月と1年間、翌々年の3月まで、約1年6か月、1年半が留学生の在籍期間となる。
福井が校長を務める川崎日本語学校は、1年に4回、4月、7月、10月、翌年1月の年4回留学生を受け入れることができ、東日本大震災前は1月の留学生受け入れも行っていた。
その当時は、1月に留学したとしても、留学生のほぼ全員が大学や大学院に進学を希望する中国人留学生や韓国人留学生、台湾人留学生であることもあり、日本語能力の底上げと進学指導が両立できたのである。
それに加え、翌年4月に希望の大学や大学院に入学できなかった留学生は、滑り止めの大学や受験専門の専門学校などに入学しつつ、再度希望する大学や大学院に挑戦する剛の者さえいたものだ。
福井と弓野は、東日本大震災後の自校と情報交換しているいくつかの日本語学校の留学生の平均的な日本語能力を分析して、それほど優秀ではない中国人留学生、それなり以上のベトナム人留学生とネパール人留学生では、十分な日本語能力の引き上げも難しく、1年3か月の日本語学校在籍で留学生がレベルの高い大学やまともな専門学校に進学するのはほぼ無理ではないか、と判断した。
念のため、他の日本語教師も交えた全体ミーティングでも聞いてみたのだが、やはりほぼ同じ意見で、川崎日本語学校よりも充実した教師陣を擁する日本語学校でも、基礎学力か留学前の日本語能力が比較的高い留学生をある程度の人数まとまって受け入れられないかぎり、1月の留学生受け入れは非常に難しいだろう、という見解に落ち着いた。
少なくとも数年間(かそれ以上の年数)は、川崎日本語学校は1月期の留学生受け入れを止めることが決まった。
その後、書類の準備やチェックを担当しない日本語教師を除き、ほぼ全員総出で翌年4月に受け入れる留学希望者の書類の準備とチェックが行われた。
以前中西という日本語教師兼事務職員の審査書類チェックミスや数字ミスをカバーするために雇われたパートタイム職員は、常勤の学校職員として雇用されることになった。学校はさらに新たに2人のパートタイム日本語教師兼学校職員を雇い入れた。
前年も短期間パートタイムとして作業をお願いいしていたベトナム人留学生とネパール人留学生にも留学会社や留学希望者とのチャット、電話での連絡確認作業、申請書類のチェックを手伝ってもらう。以前留学生の世話を頼んだ中国出身で日本国籍を取得した「助け人」にも声をかけ、中国からの留学申請者の書類チェックや連絡確認作業を手伝ってもらうことにした。
横浜入管が知らせてきたその年の12月の期日当日、福井と学校職員は無事入管に用意しておいた留学希望者全員の申請書類を提出することができたのであった。
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