第5球 走れ!
放課後。
雄馬はうららを連れず、一人で2年2組に向かった。
丁度教室から出てきた宗谷を見つけ、声をかける。
「宗谷先輩」
「……またお前か。進藤だっけ、もう一度言うようだが、俺はもう運動はしないんだ。いい加減諦めてくれないか」
「怪我をしたからですか?」
「――ッ!?」
そう雄馬が聞くと、宗谷は目を見開いて驚く。
「……その話をどこで」
「大山先輩から聞きました」
「あいつ……いらんことを」
右手で顔を覆う宗谷は、大きなため息をつくと、
「場所を移そうか。ここで話すような内容じゃないしな」
「わかりました」
学校から出た雄馬と宗谷は、帰り路を歩きながら話し合う。
「俺さ、中学では結構速いほうだったんだ。これでも短距離で全国3位になったこともあるんだぜ」
「それはすごいっすね」
「中3の時にはもう、推薦で高校も決まってたんだ。けど、大事な夏の大会前に膝の靭帯をやっちまってな。全治八か月。医者にはもう走れないって言われたよ。大会は棄権し、推薦も消えちまった」
「……」
「手術しなくても、日常生活に支障はない。手術をしてもきついリハビリのうえ、元通りに走れるかはわからないって言われた」
「手術はしなかったんですか」
そう尋ねる雄馬に、宗谷は「したよ」と即答する。
「もう一度走りたかったからな。いやぁ、今思い出しても本当にリハビリはきつかった。多分、これから先の人生でもあのリハビリ以上にきついことは無いと断言できるよ。それほど過酷だった」
「完治したんなら、また走ればいいじゃないですか」
「“身体的”にはな」
意味深に言う宗谷に、雄馬は首を傾げる。
「どういうことっすか」
「イップスってやつなんだろう。いざ走ろうとすると、体が動かなくなってしまうんだ。急に冷たくなって、汗がだらだら流れて、心臓の鼓動が早くなって、体が動かなくなる。精神科の医師によると、また怪我をしてしまう恐れからくるものらしい。それを聞いた時、俺は悟ったよ。ああ、俺はもう二度と走れないんだってな」
「……」
何も言わず静かになる雄馬に、宗谷はもう一度言う。
「そういうことだから進藤、俺が野球部に入れないって納得してもらったか?」
寂しそうに笑う宗谷に、雄馬は睨みながら答える。
「いーや、できないね」
「……何?」
「それって、ようするにビビってるってことだろ?もう足は治って走れるのに、怪我が怖くて走れないってだけじゃねぇか」
気持ちを汲まず容赦なく告げてくる雄馬に、宗谷は顔を怒りに染めて、
「お前、俺を怒らせたいのか?いいか、イップスってのはお前が考えてるほど甘いもんじゃないぞ」
「知ってるよ。イップスの怖さは」
そう告げる雄馬に、宗谷は戸惑いながら問いかける。
「……お前もイップスだったのか?」
「いや、俺じゃない。俺のチームメイトが、対戦相手の頭にデッドボールをしちまったんだ。それからそいつは、キャッチボールどころかボールを投げることもできなくなっちまった」
「……」
「でもそいつは、また投げれるようになった。時間はかかったし、凄く大変だったと思う。見てるこっちが苦しくなるくらいに、必死にイップスと戦ってた。けどそいつは、自分の恐怖に打ち克ったんだ。どうしてだと思う?」
「……」
押し黙ってしまう宗谷の顔を真っ直ぐ見つめながら、雄馬は答えた。
「野球が好きだったからだ。大好きな野球を諦めることを絶対したくなかったら、あいつは死ぬほど努力したんだ。そしてそれは、あんたもそうだろう?」
「……」
「また走りたいから、走るのが好きだから、あんたは迷いなく手術をしたんじゃないのか?きついリハビリをしたんじゃないのか?そこまで必死にやって完治して、最後の最後で自分に負けちまってどうすんだよ」
そう言ってくる雄馬に、宗谷は「……るさい」と身体を震わせながら叫んだ。
「うるさい!!お前に何が分かる!?俺の何が分かるんだ!!知ったような口を聞くなよ!!」
「あんたの苦しみはあんたにしかわからねぇよ。それはあんただけのもんだからな」
「だったら放っておいてくれ!俺が走ろうと走らなかろうと、お前に関係ないだろう!!」
「あるね、大有りだ。話を聞いて決めた。あんたは絶対野球部に入れてやる」
「お前、何を言って……」
「ちょっとついてきてください」
そう言って、雄馬は階段を下りる。
いつの間にか、二人は元野球部のグラウンドに辿り着いていた。
宗谷は仕方なく付いていきながら、多少マシになったグラウンドを眺め、
「ここは……」
「あれ、知らなかったんですか?うちのグラウンドですよ。野球部が廃部になる前は、ここを使ってたそうです。一週間前からずっと雑草抜いてるんですけど、まだ内野ぐらいしか終わってないんよね」
雄馬が言ったように、グラウンド手前から内野の部分は雑草が抜かれ、まともに動けるぐらいは綺麗になっていた。
「ちょっと見ててください」と言って、雄馬は軽く準備体操をした後、ダイヤモンド――各ベースを結んだラインのこと――を走り出す。
(こいつ……速い)
宗谷から見ても、雄馬の足は速かった。
背も高く、足も長く、走り方も綺麗だから速いのだろう。
それに、ダイヤモンドの弧を描く走り方がとても美しかった。
雄馬はあっという間にホームベースまで帰ってくると、呆然とする宗谷に説明する。
「野球って、足は速いだけ速いほうが有利なんです」
そう言って、宗谷の顔を見つめた。
「内安打、盗塁、タッチアップ、守備範囲。どれにおいても重要な要素です。それに、足を使ったセーフティーバントや盗塁は奥が深くて難しい。だから全国までいった先輩の足は、喉から手が出るほど欲しいっす」
「……足が速いからってなんだよ。俺は野球なんかやったことがないんだぞ。そんなやつが今から始めたって出来るわけ――」
「やらない理由を探してんじゃねえよ!!」
「――!!?」
突然大声で叫ぶ雄馬に図星を突かれた表情を浮かべる宗谷。
情けない顔をしている先輩に、雄馬は宗谷の胸倉をガッと掴んで、
「ぐちぐちと言い訳ばっか言いやがってムカついてくるぜ、そんな捻くれてるからビビッて走れねーんだろ!!」
「お前……」
「今俺が走ったのを見て、少しでも自分も走りたいと思わなかったのか!?」
「……」
「思っただろ。うずうずしただろ。走りたいと思っただろ!?あんたが走れない体だったら俺も諦めてたさ。でももう完治していて、本人も心の中ではまだ走りたいと思ってる。走らないのは自分に言い訳をしているだけだ。だったら俺は絶対に諦めない。あんたをダイヤモンドの上で絶対走らせてやる!!」
「……っ」
その時、ポツポツと雨が降ってきた。
「雨か、今日は雑草抜きは無理そうだな」
スポーツバッグを肩にかける雄馬。
「また明日、声かけますんで。俺、諦めませんから」
そう言って、雄馬はグラウンドを去る。
徐々に強くなっていく雨に打たれながら、宗谷は一歩も動けずその場所に立っていた。
「何が絶対走らせてやる、だ。お前は何様だよ……」
宗谷は中学3年生の頃を思い出す。
最後の夏の大会に向けて日々奮闘していた、あの頃を。
『宗谷、お前マジで調子最近調子良いな。中学新とか狙えるんじゃね?』
『宗谷、お前には期待している』
三年生に上がり、宗谷はぐんぐん記録を伸ばしていた。
顧問の先生や部活の仲間からの期待も大きかった。
宗谷自身も手応えを感じていて、やれるという確信もあった。
万全の調子で夏の大会に挑む。
そう意気込んでいた時、悲劇が起こったのだ
『あああああああああああああああああああああああ!!!』
走っている最中に突然右足に強い痛みを感じた宗谷は、悲鳴を上げながら倒れる。
『宗谷!?誰か来てくれ!先生!宗谷が!?』
チームメイトと顧問が駆けつけ、すぐに病院に連れて行った。
病院の医師の口から、宗谷にとって残酷な言葉が放たれる。
『膝の靭帯が酷く損傷しています。全治八か月ですね。日常生活に支障はありませんが、もう走ることは不可能でしょう。手術という道もありますが、走れるかはわかりません。手術する手もありますが、手術後のリハビリに中学生が耐えられるかどうか……』
『やります、手術します……』
宗谷は手術する決断をした。
『手術は成功した。早く直して、また走るんだ』
それからきついリハビリが数ヶ月続いた。
何度諦めたか分からない。
死のうと思ってしまったことすらある。
それでも諦めなかったのは、走るのが好きだったからだ。
もう一度全力で走りたいと、願ったからだ。
辛いリハビリを終え、宗谷の足はようやく完治する。
『辛いリハビリをよく頑張ったね。これで君はまた、走れるよ』
『(完治した。これで思う存分走れる!)』
運動上にやってきた宗谷は、十分に準備運動をして走り出そうとする。
しかし、どうしてか一歩目が踏み出せなかった。
『あれ、何で……なんでだ、足が前に出ない!』
何度試そうとしても、身体が固まってしまう。
それどころか、怪我をした日をフラッシュバックし、尋常じゃない量の冷や汗が流れる。
『はぁ……はぁ……そんな、嘘だろ?こんなことあるのかよ。折角手術して、辛いリハビリを乗り越えて、やっと走れるっていうのにっ、俺はもう走れないのか!?』
その後精神科の医師に相談すると、イップスと診断されてしまう。
それを聞いた宗谷の心は折れ、絶望してしまった。
『なんで、何で俺ばっかり!くそ……くそ……くそぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!』
走ることを完全に諦めてしまった日を思い出していた宗谷は、ダイヤモンドを見つめる。
「あいつ、速かったな」
雄馬の走りを思いだす。
「俺も、あんな風に……」
一歩、足を前に出す。
たったそれだけで、体がいうことを聞かず硬直してしまう。
『やらない理由を探してんじゃねぇよ!』
それでも一歩、足を前に出す。
胃液が喉まで逆流してきて、吐きそうになる。
『自分も走りたいと思わなかったのか!!』
思ったさ。
全力で、おもいっきり、無我夢中で。
どこまでも走りたいと思った。
でも走れないんだ、心と身体が走るなと叫んでくるんだ。
『だったら俺は諦めない。あんたを絶対ダイヤモンドの上で走らせてやる』
「くそ」
踏み出す。
「くそ、くそ!」
一歩、一歩と、少しずつ、少しずつ。
そして――、
「くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
走った。
縛られた鎖から解き放たれたように、宗谷は走った。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
獣のように吠え、不格好で、涙を流しながら、心臓が口から出てしまいそうだけど。
全身全霊で走った。
「はあ、はあ、はあ」
ダイヤモンドを走りきり、そのまま転んで大の字に寝転ぶ。
久しぶりに走ったせいか、ちょっと走っただけで息が切れてしまった。
けど、凄く気持ちいい。
肺が酸素を欲しがっているこの感覚が、酷く懐かしい。
そして凄く楽しかった。思わず涙が出てしまうくらいに。
「なんだ、やっぱり走れるじゃないですか」
そんな彼に、帰ったはずの雄馬が見下ろしながら声をかけてくる。
「お前……帰ってなかったのか」
「まあはい、上で見てました」
「バカ野郎。恥ずかしいところ見られた。とんだ黒歴史だよ」
「黒歴史?何言ってんすか、俺はかっこいい男の生きざまを見てだけですよ」
笑いながらそう告げ、雄馬は手を差し出す。
「……」
宗谷はその手を掴み、ぐっと起き上がった。
「傘も持ってないのに何で帰らなかったんだよ」
「先輩なら絶対走る。そう信じてましたから」
自信満々に言ってのける宗谷は一瞬ハッと目を開くが、呆れたようにため息を吐いた。
「……負けだ。お前の勝ちだよ。野球部に入ってやる。いや、入らせくれ」
「勿論大歓迎です。これからよろしくお願いしますね」
「ああ、こっちこそ」
握手する二人は大きなくしゃみをして、風邪を引く前に急いで帰宅したのだった。
雨も上がり、雲一つない晴れた次の日の昼休み。
校舎内のグラウンド階段で昨日のように雄馬とうらら、それに大山も加えて昼ご飯を食べていると、ふと宗谷がやってきた。
「よう」
「ちわっす」
「あれ宗谷、どうしたんだよ」
「どうしたも何も、お前の仕業だろ」
「てへ、ばれちったか」
半眼で睨む宗谷とおどける大山のやり取りに、うららが困惑する。
「え?え?どういうことなの進藤君!?」
「春野さんだったよね。俺は宗谷博之。今日から野球部に入るからよろしく頼むよ、マネージャー」
宗谷がうららに告げると、彼女はどひゃー!と驚いて、
「ええ!!?本当ですか!?え、あ、はい!よろしくお願いします!!やったね進藤君!凄いよ!!」
「うお!?」
嬉しさのあまり、雄馬に飛びつくうらら。
仲睦まじい一年生を優しい表情で見ながら、大山が宗谷に問いかける。
「走れるようにはなったのか?」
「ああ、お蔭さまでな」
「やっぱり俺の予感は当たってたか」
「何を予感してたんだよ」
尋ねると、大山は「へへっ」と笑顔を浮かべて、
「いや、進藤ならきっと、お前をその気にさせてくれると思ったんだよ」
「ふ……かなり強引だったがな。先輩の俺にキレるは説教するわで……何なんだこいつはって思ったよ。ただ、感謝している」
「ピッチャーって種族はみんなワガママで強引で自分勝手だからな。だが、そこがいいところもある。たまに」
「大山、俺に野球を教えてくれるか?」
そう頼む宗谷に、大山は指を三本立てながら、
「購買の焼きそばパン三つで許してやろう」
と言う大山に、宗谷は「ははっ」と微笑んで、
「それくらい、お安いごようだ」
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