プロローグ③ 今、そこにある地獄
ここ数日、俺の意識をつなぎとめていたのは母親からの電話だった。
「くにちゃん、大丈夫かい?大丈夫だよ、何も心配することないよ、母さんは、くにちゃんは悪くないと思ってるし、これからちゃんと立派にやりなおせるよ」
同じことを何度も何度もいう母、自分も何度も何度も「うん」とうなずいた。
自分の不正が招いた結末であり、こういったケースでは自己破産も容易ではないようだ。
ただ、情状酌量の余地はないものか、支援団体や弁護士と相談しながら、少しずつ自分の人生を取り戻そうともがいていた。
どうしてこうなった。
直接的な原因は不正で物事を進めたからだ。
ただ、それをしたのは……それが、その時は正しいと思ったんだ。
自分がリスクを負うことで、自社や着工を待たせているパートナー会社が円滑に活動できると思ったからだ。
毛利がちゃんとしていれば……。
違う。
多分契約稟議は闇献金問題の影響で遅れていたに違いない。
誰がやっても稟議は通らなかった。
杉山……赤里……
あいつらが俺に責任を押し付けなければ……
逆に俺があいつらの立場だったら俺を守れたのか……
同じ考えがぐるぐるぐるぐる永遠にループをした。
さらに、数ヵ月がたった。
損害賠償の整理は一行に進まず、ニュース報道からワイドショーでのカジノに関する一連報道の真相を推測するような番組に移り変わり、問題は何も解決しないままだった。
そのような中、戻ってきなさいとの母の手紙があった。
やりなおしも効かない、がんじがらめな日々を一旦休むべく実家に帰った。
――
そこにあったのは母親の首つり死体だった。
吊られる為に足がかりにしたであろう、その机の上には一通の手紙があった。
「借金返済の足しにしなさい」
俺を常に勇気付けていた母親は、もうすでに壊れていたのだ。
生命保険の証書。
「母さん…自殺では保険金はおりないよ……おりたとしても……10分の1も返せないよ……」
一連の報道は母親の正常な思考を失わせた。
冷静に考える余地をじわじわと奪っていったのだ。
連鎖する悲しみ。
一気に人生を転落する中、感覚が麻痺していた。
これまで悲しみを感じる時間が無かったが、
今、それは決壊するダムのように俺に押し寄せた。
この時、俺の視界は完全に色を失い白黒の世界となった。
――
案の定、保険金が下りるわけでもなく、満足な葬儀もできず、借金返済の目途もつかず、何も進まなかった。、
相談先の弁護士先生の事務所をでて数分の日比谷公園のベンチに腰を下ろした。
思考はなかった。
往来する車の音をそのまま脳みそがその通りに再生している感じだ。
目の前は白黒の現実味の無い風景に妙にリアルな音の反響が脳の中を響いてひたすら気持ちが悪かった。
こんな中だった。
久々に聞き覚えのある声だった。
向かいのカフェから聞こえる……。
「亜子、聞いたわよ、すごいわねー、課長になるんですって」
「誰から聞いたのよ、相変わらず早いわねー」
「本当上手くやったわよねー会社の損失があってもそれを利用して出世しちゃうんだもん」
「うまくやったなんてもんじゃないわよ! こっちは賠償の後処理でかなり大変だったんだから……」
「でも、その後始末の手際を認められての昇格なんでしょ?なんでも会社史上最年少で」
「そんなにいいもでもないわよー、でも会社もこの件表沙汰にしたくないみたいだしさ、いわゆる口封じよね」
「亜子わる~~~~い! もしかして闇献金があったの最初から知ってたんじゃないの?」
「ふふ~~~だったらどうする?」
俺の中で何かが完全に切れた感覚を覚えた。
――
翌朝9時、アナミズ建設の営業部は朝礼から始まる。
「え~~~本日の朝礼担当は誰だったかな」
「はい、課長私がやります」
場が騒然となった。
いるはずのない俺が執務室にいるのだ。
「なんでお前が……」
「朝礼やりにきました」
このビルは物理的なセキュリティは完璧だ。
部外者は入れない。
というのは、建前だ。
元社員だったら侵入するのにはなんてことない。
搬入用の通用口から館内に入って、セキュリティエリアはほかの社員が扉を開けたタイミングで一緒に入ればいいだけだ。
「朝礼ってお前……」
「国……さき……君……?」
丁度うまい具合に杉山と赤里が並んでいた。
俺が彼らに向かって進むと、まるでモーゼのように他の社員は道を開けた。
「じゃあ今から二人殺しますね」
そういった瞬間にまず赤里の首を切った。
シャッ……
スーツが少しこすれる様な、そんな小さな音を立てた一瞬。
赤里の首から真っ黒い血がバケツでもぶちまけたかのように吹き出し、近くの事務机にかかった。
「あーPCにかかっちゃいましたね、これだと水没扱いで有償修理だなぁ……、課長、すいませーん、経費処理お願いしまーす」
シュパっ
次に杉山の首に綺麗にナイフが入った。
こんな経験全くないが、俺は暗殺者でもやっていたら相当な腕前だったのかもしれない。
どうせ取り押さえられて誰も殺せずに終わるだろうと思っていたのに周りの連中は誰も動かなかった。
このフロアには50名程度の営業員がいる。
中には体育会系のがっしりした奴だっている。
でも誰一人俺のやったことを止めなかった。
いや、国崎の一連の動きの鮮やかさと鮮烈さがその場の時を止めたのかもしれない。
また、彼らは知っているのだ。
俺が毎晩このフロアで杉山と赤里にいいように使われ、遅くまで残業して……。
そして今回の顛末も大体みんな知っている。
この恨みの理由を分かってるのだ。
そしてここで働き続けるとこうなるぞ、という、「明日は我が身」を鮮烈に焼き付けられて身動きが取れないのだ。
「ああ、皆さん、お時間とらせました、これで朝礼を終わります」
シュパッ
自分の首を切った。
目の前を赤と黒がぐしゃぐしゃに覆って行った。
ひたすら、くしゃくしゃに塗り重ねられ、うねる。
それは、今まで見た事のある景色のようなものを映し出しては消えた。
痛み、復習を遂げた達成感、どれも違った。
走馬灯……かな……。
母親に迷惑かけた事。
学校で委員長に選ばれて、頑張ったこと。
その中でも何故か、自分主導で古いウサギ小屋を建てなおしたことが思い出された。
みんなで協力したり、感謝したり、されたり、そういえば、そういうのが俺は好きだった。
好きだった、と思いだした瞬間やがて目の前は黒で落ち着き、ああ、今から俺は死ぬのだなと自覚した。