3話「乙女座の女」5/5
森は不気味なほど静まり返っていた。
虫の鳴き声一つ聞こえない。
風に木の葉が騒めく音も、どこかよそよそしく感じられた。
枯れ枝を踏む音が嫌に大きく響く。
「何もないじゃない。あのババア、やっぱりインチキね」
もう帰ろうかと思ったその時、不意に背後から声が聞こえた。
「何しに来たの?」
なつみが驚いて振り返ると、そこには小さな光が浮いていた。
よく見ると人の形をしており、大きな羽を細かく動かしている。
妖精だ。
なつみがあっけに取られ何も言えずにいると、妖精は怒ったように言った。
「みんな怖がってるの。用がないなら帰って」
訳がわからなかった。
動物の姿が全く見えないのは気になっていたが、その原因が自分にあるとは思い難かった。
なりより、初めて見る妖精の美しさに心を奪われ、何も考えられずにいた。
「な、なんの話?」
「あなたに強力な畏怖の魔法がかかっているわ。自分でやったんじゃないの?」
「ああ、あの時の」
なつみはイルゥにかけられた魔法を思い出した。
子供騙しと思っていたが、ちゃんと効果があったらしい。
「森に危害を加えるつもりなら、黙っておけないわよ」
「いや、そんなつもりはないよ。占い師に南東へ行けと言われたんだ。魔法の解き方もわからないし、すぐ帰るよ」
そう言って踵を返したその時、どこかから叫び声が聞こえた。
恐怖に満ちたその声は、静かな森に大きく響く。
「つかさだ」
なつみはそう確信した。
声は森の奥から聞こえていた。
木々が茂り見通しが悪かったが、そう遠くはないようだ。
「私の友達がこの近くにいる! あんたも来て!」
そう言ってなつみは声の方向に駆け出した。
妖精も困惑しながらも後をついてくる。
しばらく走っても、声はそれきり聞こえてこなかった。
嫌な予感が脳裏をよぎる。
辺りの木には動物が引っ掻いた巨大な爪痕があった。
つかさが危険な状況にあるのは明らかだった。
「この辺りのはずなんだけど……」
なつみは乱れた呼吸を整えながら、辺りを見回した。
人影はおろか、動物の姿も見当たらない。
すると、どこから弱々しい声が聞こえて来た。
「なっち……?」
声のする方を見ると、一匹の小さな亀が甲羅から少し顔を出している。
「え? つかさなの?」
なつみが駆け寄ると、亀は驚いたように顔を引っ込めた。酷く怯えている様子だった。
「こ、来ないで……」
「どうして? さっきの叫び声はなんだったの?」
なつみは状況をほとんど理解できていなかったが、ただ事ではない雰囲気を感じ取っていた。
「お願い……10分くらいで元に戻るから」
その亀はたしかにつかさのようだった。
辺りを見回しても、危険な動物の気配はない。
だが、いくらつかさに話しかけても、ただ黙って震えているばかりだった。
「動物の姿だと畏怖の魔法は驚異よ。黙って待っていなさい」
妖精が呆れたように言った。
しばらくすると、つかさの体が光に包まれ、元の姿に戻った。
つかさは疲れ切った様子で木にもたれかかり、大粒の涙を流している。
「だ、大丈夫?」
「もう……めちゃくちゃ怖かったんだから!」
「熊でも出たの?」
「出たけどそんなのどうでもよくなるくらいなつみが怖かったよ。ちょっと待ってて」
つかさはそういうと、ふらふらと近くの茂みに入った。
直後に思い切り嘔吐する音が聞こえてくる。
なつみは妖精に睨まれ苦笑いをすると、思い出したように言った。
「あ、あの薬……」
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二人は黙って街へ戻った。
馬車小屋には、老婆が一人座って茶をすすっているのみだった。
声をかけると、気怠そうに「次の馬車は1時間後だよ」と言った。
二人は諦めて近くの椅子に腰を下ろす。
つかさはぼんやりと空を見上げながら言った。
「それで、占いはどうだったの?」
「なんか胡散臭かったから早めに切り上げて来ちゃったけど、あの人本物だよ。あの森へ行けって言ったのも、畏怖の魔法をかけたのもあの人」
「そうだったんだ。助けられちゃったなあ」
空は夕日に赤く染まり、切り抜かれたように黒い木々が手を振るように揺れていた。
「そういえば」となつみは思い出したように言った。「つかさのラッキーカラーは青だって」
つかさは目を丸くすると、大きくため息をついて言った。
「やっぱり占い師は嫌いだよ。乱暴な馬車も、それを待つ時間も」
そう言うと、懐から飴の入った小瓶を取り出し、青い飴を口に入れた。
「それなに?」
「ケモノアメ。6つで5ゴールド。おすすめだよ」
そういって小瓶をなつみに手渡すと、白く美しい尾羽を持った燕になり、素早く空へと羽ばたいていった。