1話「書を捨てよ、異世界へ行こう」
薄暗い部屋の片隅に、1人の少女が座っていた。
くたびれた白いTシャツに、長い黒髪が揺れている。
異常なほど集中している様子の彼女は、窓の外で鳴り響く雷の轟音も聞こえていないようだった。
蝋燭の火が揺れる度に、彼女の影が壁を這いずり回る。
彼女は大きく深呼吸し腰を上げると、満足気に床に描かれた魔法陣を眺めた。
「ついに……ついに完成した!」
丁度雷が止み、部屋が沈黙に包まれたその時、誰かがドアをノックする音が部屋に響いた。
「つかさ? 今日のプリント持ってきたよ」
心ここにあらずといった声がドア越しに聞こえて来る。
声の主は伊藤なつみ。
高校入学から一週間も持たずに不登校になったつかさを気にかけ、半年以上プリントを渡しに来る唯一の友達だった。
つかさは足早にドアに近寄ると、勢いよくドアを開けた。
「良いところに来たね。歴史的瞬間に立ち会えたなっちは幸せ者だよ」
半年ぶりの再会だった。
なつみは見ない間に髪を茶色に染め、耳にはピアスが光っている。
なつみは驚いたようにスマホをしまうと、下手な笑顔を浮かべて言った。
「違うの、これはその、丁度彼氏から連絡が来て。まさかドアを開けてくれるなんて思ってなかったから。久しぶりだね」
言い終わるか終わらないかのうちに、なつみは腕を掴まれ無理矢理部屋に引きずり込まれた。
「良いから入って。見せたいものがあるの」
「なに、なに、ちょっと痛いよつかさ!」
なつみは床に転がるゴミを必死に避けながら、なんとか転ばずに例の魔法陣の前までたどり着いた。
つかさを見ると、少年のように目を輝かせ、真っ直ぐにこちらを見ている。
「これは何?」
「見てわからない? 魔法陣だよ。これで異世界に行けるんだ!」
なつみは混乱した頭をフル回転させた。
短い人生で培ってきた語彙をかき集め、つかさを傷つけない言葉を慎重に選ぶ。
「……よくこんな綺麗な円がかけたね」
なつみは、もっと本を読んでおくべきだったと後悔した。
「信じてないね? でも本物だよ。これで映画みたいなファンタジーの世界に行けるんだ。なっちも行こう!」
優しいとはお世辞にも言えないなつみだったが、追い詰められた人間に正論を吐くほどの冷酷さを持ち合わせているわけでもなかった。
むしろ今、彼女は怯えきっており、まともに話したくないというのが本音だった。
「そう……あの、行きたいのは山々なんだけど、ママに相談しないと」
そう言いながらつかさと距離を取ると、答えも聞かずに部屋から出た。
このまま逃げ出してしまいたかった。
廊下に出ると、つかさの母親がふらふらと部屋から出てくるのが見えた。
彼女は目を充血させ、右手にワインの瓶を握っている。
なつみと目が合うと、耐えきれなくなったようにその場で泣き崩れた。
急いで駆け寄り抱き抱えると、鼻が曲がりそうなほどの酒の匂いが漂ってきた。
「あの子、最近どこかおかしいの。前から問題の多い子だったけど、こうやってなつみちゃんが来てくれてるおかげで、少しづつ良くなってきてると思ったのに。近頃、突然機嫌が良くなって、私に笑顔まで見せるようになって……」
「い、良いことじゃないですか」
「そんなわけないでしょ! 小さい頃から酒を飲んでは暴力を振るうこんな母親なのに! 元気になるなんてまともじゃないわ!」
なつみが何も言えずに背中をさすっていると、部屋からつかさが出てきた。
「あれ? なんで私のお母さんとお別れしてるの? もしかして私たち生き別れた姉妹とか? そういうのは物語の終盤にしてよね。さ、もういい? 早く行こうよ」
なつみは哀れむようにつかさの母親を見た。
大の大人が目の前で泣いているのを見るのは初めてだった。
なつみは心を決めて立ち上がった。
彼女は今まで、自分に関係のないことにはほとんど感情を動かされることがなかった。
だが、今は何故かひどく心が痛んでいる。
つかさの両肩に手を置き、涙の溜まった目で真っ直ぐに見つめて言った。
「あのねつかさ、私のいとこもあんたみたいなことを言い出したことがあったの。今その人は運送の仕事をして真面目に生きてる。ねえ、自分の殻に閉じこもっていても何も変わらないよ。現実を見よう?」
つかさは、なつみの一世一代の芝居がかったセリフに眉をひそめた。
「あー、なっちは私のお母さんとそんなに仲がよかったんだね。一緒に私を心配してくれてたみたいで感謝してる。えっと、もういい? なんか恥ずかしくなってきた。私恋愛ドラマとか見れなくて」
照れ笑いをしながらそう言うと、つかさは何も言えずにいるなつみの手を引っ張り、部屋に戻った。
大粒の雨が窓を叩く音と、廊下から聞こえる咽び泣きが部屋に響く。
地獄のようなこの状況を気にするそぶりも見せず、つかさは儀式の準備を始めた。
「ああ、本当に楽しみだよ。学校を休んでいる間、ずっと勉強してたんだ。参考資料が少なくて苦労したよ。学校のみんなはいいね、教科書が用意してあって」
そう言いながら魔法陣の角に蝋燭を置くと、不気味に光る液体を勉強机から取り出した。
「さあ、これを飲んで呪文を唱えれば向こうに行けるよ。はは、そう、なっちの分も作ってあったんだ。なっちは一緒に来てくれるって信じてたからね。やめてよ、私たちの仲じゃん」
なつみは黙って小瓶を受け取った。
もうどうでもよくなっていた。
薄暗い部屋で七色に変色しながら光るそれは、とても綺麗だった。
「ちなみに材料は……」
「もしかして効果を疑ってる? 大丈夫、この本9800円もしたんだから。もし詐欺なら騙されるようなバカが買える値段にするでしょ?」
そう言って、『異世界に行く方法〜神秘という名の狂想曲〜』という題名の薄い本を指差す。
表紙には、でかでかと『危険!』『悪用禁止』の文字が踊っている。
つかさは瓶の蓋を開けると、目を閉じて液体を一気に飲み干した。
おどけるように舌を出して美味しくはないことを伝えている。
なつみも覚悟を決めて飲み干し、二人で魔法陣の中心に立った。
雷が一際近くに落ち、家が微かに揺れる。
つかさは厳かな表情で本を開くと、聞いたことのない言葉で呪文を唱え始めた。
どこの言葉かわからないが、何故か流暢に聞こえる。
気が付くと、彼女の声はいつしか彼女の物とは思えない低い声に変貌し、魔法陣から淡い光が発せられてきた。
光は二人の体を包み、遂には部屋全体が眩い光に満たされた。
なつみは薄れゆく意識の中、思った。
「1万円もするなら本物か……」