それから
あれから、あの事件から実に多くの時間が流れてしまった。
「またな」などと調子の良いことを真鍋に言いはしたのだが、私は結局、二度と「輝望の集い」とコンタクトを取ることはなかった。
色々と言い訳はあるのだが、とどのつまり、「アンロクドル」は私には広すぎる異世界だったということだ。
一応しっかりとこの東京の地に足をつけて生きている私にとっては遠すぎた世界だ。
いくら由美子と沙月に疎まれようが、会社でお荷物の置物として扱われようが、あの茫洋とした世界で新たな地図を作っていくような真似は私にはできなかった。
狭くて息苦しい東京でやっていくしかない。
そう決めた瞬間になぜだか生きるのが楽になったのは不思議だ。
妻の由美子とは怒らずによく話をするようにした。
娘の沙月とは頻繁な話はせずに、遠巻きに彼女の青春を見守った。
それらの変化は直ぐには何も起きなかったが、年月を重ねていくことで、それらは生活に和らぎを齎してくれた。
理想的な家庭からは程遠かったが、帰るべき安全地帯くらいにはなったのだ。
一時期の鬱状態も、心療内科のドアを開ける勇気を持ったことで快方に向かった。抗うつ薬を飲むことでここまで心持ちが違うのかと驚いたものだ。
そんなこんなで私はなんとかやってきた。
「お疲れさまでした」
妻の由美子が言う。
私の還暦と定年退職の日のことだ。
家から近くの瀟洒な洋食レストランで私たちは細やかな宴を開いていた。
あの異世界の日から実に24年もの月日が経っていた、定年退職と言っても嘱託社員として引き続き雇用予定だから形式的な定年退職にしか過ぎないのではあるが。
それでも由美子は節目だから、と祝ってくれたわけだ。
娘の沙月は結婚して久しい、今は孫の子育てで手一杯で顔を出している余裕はないそうだ。
「いや、まだまだ働かないとな…」
私は照れくさくなって言葉を濁す。
一時は険悪になっていた彼女とも、おっかなびっくりではあるものの冗談を言い合える程度の関係性は構築できていた。
ただ、いつどこで爆発するかわからない地雷原を歩いているような不安感は常にあったのだが。
「でも、取り敢えずは祝わないとね」
甲斐甲斐しい妻を演じる由美子。
謹厳実直な夫を演じる私。
ここらへんは結婚当初よりまったく変わっていない、これこそが私を取り巻く不安と苛立ちの正体なのは最近わかったことだ。
それでも私は此処に居続けるしかない。
「ああ、ありがとう」
杯を傾けて乾杯をし、私は幸せなふりをする。
──────────────────
私と妻はしばらく取り留めもない話をしてから店を出て帰路に着く。
家までは徒歩で10分程。
いい気持ちで酔いながら由美子と並んで歩く、悪くない気分だ。
あの時の失望に包まれた人生を歩んでいる時よりはもの凄くマシだ、という話である。
引き続き絶望の中にいるというのは変わりないのだが。
この数十年は甘く緩やかな地獄であり、真鍋の異世界への誘いの場面を思い出す時はずっと胸をの奥底がズンと痛む。
なぜ私はアンロクドルに留まらなかったんだろう。
厭なことがあれば、窓の外に目を移し一度しか行ったことない異世界に思いを馳せた。
嬉しいことがあれば、想像の中で仁王立ちする異世界の真鍋が「小せえなあ」と嘲笑した。
私の人生の隅々までが異世界・アンロクドルに支配されていたのだ。
その幸せな忌まわしさに比べれば、妻の愚鈍さや娘の不出来さ、勤め先の理不尽さなど些末なことでしかなかった。
自分には東京が性にあっているなどど言わないで、真鍋について行けば良かった。暴虐なモンスターに殺されるのも、奥深いダンジョンで迷うのも、大海原で溺れ死ぬのも喜んで受け入れられただろう。
このつまらない魯鈍な世界と比べるのならば!
私は異世界への扉を自分から完全に閉じてしまったことにずっと納得しながら、ずっと絶望し続けていた。
「あなた、どうしたの?」
由美子が気遣うように私に声を掛けてくる。
心の不整脈。いわゆる思い出し怒り、思い出し絶望に絡まれていた私を不審に思ったようだ。
「なんでもないよ」
いつも浮かべる貼り付いた笑顔を作り、由美子を安心させる。
そんな私も、もう還暦だ。
異世界で生きる真鍋も、もう死んだか、冒険者を引退しただろう。取り返しのつかないこと思い続けても仕方がない。
全ては過ぎ去った時の話だ。
「そうですか」
「そうですよ」
お互いに視線を交錯させてフフッと微笑む、ああ、こういうのも悪くない。
そう思った瞬間だった。
青白い閃光が地上から空へと向かい、巨大な柱のように顕現する。
数瞬おくれてゴオオオオオオオッという轟音が辺りに響く。
「なに!?」
「なんだ!?」
地面が揺れる。
私と由美子は同時によろめいてお互いに身体を支え合う。
見ると周囲にまばらにいた人間も同様に体勢を崩している。
「地震か、落雷の地響きかしら」
「なんだ、あれは!」
空を見上げると未だに青白い閃光が存在し続けている。
どうやら雷ではないようで、私が立っている場所から数十メートル先で非現実な光景が広がっている。
呆然と立って観察していると、その青白い光の中に黒い影が見えた。
流線型のフォルムを持つ美しい爬虫類が光の中から現れる。
ワイバーンだ!
かつて異世界・アンロクドルで一度だけ見たことある飛行用の騎竜だ。
もっとよく目を凝らすと、そのワイバーンには人が乗っている。
見間違いようもない、あれは、真鍋徹だ。
「おい! 真鍋!!真鍋!! …聞こえないか…。おーい、真鍋!!!」
彼の姿を認めると共に走り出して、叫ぶように呼びかける。
遠すぎて届かない…。
ああ、いつもこうじゃないか、私の人生は。
常に望む物には手が届かない、そこに見えているのに。
「真鍋ーーーーー!!」
由美子を置き去りにし、腹の底からあらん限りの大声を張り上げる。
届け、届け、届け、届け、届け!
ついに至誠は天に通じる。
空を疾駆するワイバーンが急旋回をして降りてきたのだ。
「その声は、我が友、山野ではないか?」
「いかにも。私は山野隆史だとも」
私は胸を張って答え、ワイバーンに近づき久闊を叙した。
24年ぶりにまみえる真鍋は、あの時とほとんど変わっていない。
「随分と老けたじゃないか」
「今は2044年だぞ、オマエと別れてから何年経ったと思っているんだよ!?」
「なんだと! 山野と会ったのはせいぜい2年半前の話だと思っていたんだが…」
「こちらとあちらでは時間の流れが違うのか! 道理で前にあった時も若いと思ったんだよ!」
なんということだ、私が老いぼれているのと共に年をとっているものと当然のように思っていたのに。
真鍋はズルい、本当にズルい。私だけが老醜を晒すことになろうとは。
「そうなのか! 奇妙なモノだな!!」
そして一瞬で適応するところもズルい。
「それにしても一体どうした、ワイバーンを連れてこっちにくるなんて正気の沙汰じゃないぞ?」
「ただのワイバーンじゃない。私の宝とも言えるレオナルドだぞ」
「オマエの飼っていた猫と同じ名前なのは呆れるばかりだが…違う! そんな些末な話をしているんじゃない。アンロクドルにいるはずだろうオマエは! 此処は東京だぞ!!」
「そう、そうなんだよ! 此処は地球だ!! おお、懐かしの故郷よ!」
「話を聞け、なんでオマエがワイバーン連れでいるのかを聞いているんだ!」
話が逸れて、どこに行き着ことするのかわからない。
この感覚が真鍋だ、なんだか懐かしい。
「山野、聞け。こことアンロクドル、2つの世界が融合をはじめているんだ!」
「なんだって!!」
そんな真鍋との懐かしさを感じさせる瞬間すら吹き飛ばす核爆弾級の衝撃情報が唐突に出される。
融合って。
「融合ってどういうことだ!? 異なる2つ世界が同一の存在になんてなるわけないだろう!!」
「あー、それがどうもあるみたいなんだよ。探し当てたあの世界の管理者を自称する連中が言ってたんだけど」
「 信用できる情報なのかよ!?」
「オレがここに居ることこそが、何よりの証拠だ」
そうだ。
こちらの世界の全てを捨てて向こうの世界に行ったのだ、彼が戻ることなどありえない。
その真鍋がワイバーン連れで現れたということは、この地球そのものが彼の方に近付いたということの証左なのだろう。
「そうか…」
「ああ、そうだ。融合そのものは最早止められないだろう。これから何が起こるか誰にも寸毫もわからない状態なのさ。そこで帝がこちらの出身であるオレに白羽の矢を立てたわけだ」
「で、ワイバーンで先駆けてきたというわけか」
「ああ、そうだ。未曾有の大災厄であるかもしれんが、ちょっとだけ楽しみなんだ。これから何が起きるかと、な」
「実にオマエらしい言い草だな…」
「さて、山野。一緒にくるか?」
真鍋は再び手を差し伸べてくる。
ああ、私はもう耄碌した爺だ。
そして、以前の誘いを断って詰まらない人生を歩んだ男だ。
そのうえ、後ろには置き去りにしてきた由美子もいる。
そんな恥知らずなことが出来るわけないじゃないか。
そう結論づけて、私は口を開いた。
「もちろんだ、老いたとは言え足手まといになるほど衰えちゃいないぞ」
「そうこなくちゃな! 」
真鍋は破顔して、私をワイバーンの背に乗せる。
私と真鍋は上空高くへと舞い上がる。
「どこへ行くんだ?」
「取り敢えずはこの世界の一番の権力者のところへ! 帝の親書を届けなければならない!!」
「王って…、合衆国大統領あたりか…?」
「そう、そこらへんだん。困った時は確りとネゴシエーションを頼むぞ! なにしろ30年ぶりの日本だからな」
「まったく、相変わらず勝手な男だ!」
私達は笑いながら彼方に向けて弾丸の如く加速していく。
少しだけ置いてきた由美子のことが気にかかったが、魔法障壁によって風を遮り矢のように流れていく景色を見るとそんなことはどうでも良くなってしまった。
なぜなら、ようやく冒険がはじまってくれたからだ。
(終)
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