日常
全編15,000字、4話構成くらいで終わる短編小説です。
お気軽にお読みください。
不快だ、なんだか解らないがとてもとても不快で仕方ない。
そんなことを考えながら山野隆史は帰路を急いでいた。
仕事から帰り道、1時間30分という普通ではあるもののそこそこに長い通勤時間が身体の疲れを喚起させている。
20時過ぎの下りの電車。
吊り革に捉まってぼうっとしていると、幸運にも目の前の座席が空いたので背中のリュックを降ろして席に座る。
少しくつろいだ姿勢になると、どっと疲れが押し寄せてくる。
なんでこんなに疲れているのだろうか。
今日の仕事は順調だった、普段は意地悪で何かと横槍を入れてくる上司の谷田も、よくトラブルを起こす部下の佐藤も静かだったせいか、非常にスムーズに済ますことができたし、残業もそこそこに帰路につくことができた。
それなのに、この疲れ様はなんだろう。
なんとなくはわかっている、家に帰りたくないという簡単な動機が私の心にはある。
家にいる由美子の顔を見たくない、それだけの話なのだが、そこにいたるまでの複雑で曲がりくねった道を考えると頭を抱えるしかない。
「どうしたもんかねえ…」
誰にも聞こえないくらいの声音で一人呟く。
なんとも形容し難い不快感と倦怠感、それが合わさって身体に重くのしかかってくる。
次の秋葉原駅で降りなければならないのだが、立つ気力すら失われているような気がする。
とは言え、降りないというわけにもいかない。
「家に帰りたくねえなあ」と心の内で毒づきながら山野は席を立つ。
プシュッと静かで心地良い音をたてて扉が開いて何人かの人間が降りていくのを横目に足を早めて駅のホームに降り立つ。
「もしかして、山野君じゃない?」
「はい…?」
突然に声を掛けられる。
振り返ると見覚えのない女性がそこには立っていた。
「どちらさまで…、しょうか?」
年の頃はアラフォーくらいであろうか、スーツ姿でキャリアウーマン風の女性だ。
見覚えは…あるような、ないような。
「やっぱり山野隆史君。忘れちゃったかしらね、私よ、河田美津子」
「河田美津子…さん…?」
朧気な記憶が立ち上がってくる。
学生時代。
崩れてきそうな程にボロボロのアパートの一室。
くわえタバコの親友の笑顔。
久しく忘れていた過去が乱暴に掘り返されていく感覚が襲ってくる。
ああ、思い出した。
「河田さんじゃないか! もちろん覚えているよ!!」
大学時代の親友、真鍋の恋人だった女性だ。
何度となく顔を合わせていたのに思い出すまでに相当の時間がかかってしまった。
「名前出すまで忘れてたでしょ」
笑いながら責める言葉を口にする河田、私たちは人の流れから少し外れたホーム隅に場所を移す。
挨拶だけで離れることも考えたが、真鍋と彼女がどうなっていたのかはとんと聞かなかったことを思い出し、暫しの井戸端会議に望むことにした。
「いや、変わらないねえ。昔と変わらず実に若くてお美しい」
「山野君は変わったねえ。昔はそんな御世辞みたいなことは言わなかったわ」
「いやいや、正直な感想でしかないよ。私はおっさんになっちまったから本当に羨ましい。で、真鍋とはどうなったの」
真鍋徹。
大学時代の親友の名前だ。
長らく忘れていたが、彼女と面と向かうと自然と名前が口から出てきてしまっていた。
大学文学部の腐れ縁。
オンボロアパートの一室で授業をサボりテレビゲームをして時を過ごしたことを今更のように思い出す。
どうしてあんな大切な記憶を今の今まで忘却の彼方に置いてきてしまっていたのだろうか。
自分で口に出した名前に自分自身がちょっと驚いた。
「真鍋…くん? ああ、真鍋くんか!」
彼女も記憶の底から真鍋のことを掘り返している感覚のようだ。
そんなに忘れられやすい男だっただろうか?
そもそも私と河田美津子は真鍋を介して知り合ったはずだから理不尽な話である。
「ちょっとちょっと、昔の彼氏のことを忘れてたのかよ」
「もう大昔の話でしょ。今は別の人と結婚しちゃったから、元カレのことを思い出すことなんて、こんなことでもない限りないからね」
真鍋徹と河田美津子は大学時代、というと15年ほど前に交際していた間柄だった。
最後に会ったのは卒業して2年くらい経った時だったか、その時はまだ付き合っていたと思ったが…。
「いつ真鍋と別れたんんだよ? てっきり結婚するもんだと思ってたよ? と言うか、真鍋とは随分と連絡とってないなあ」
「彼が警察官を辞めてから、なんとなく疎遠になっちゃったのよね…」
そうそう、彼は大学を卒業後に警察官となったのだった。
警察学校にいくのが面倒くさい、と愚痴を零していたのを覚えている。
なんでこんな重要なことを忘れているのか、本当に不思議に思えてしまう。
「ああ、真鍋は警察を辞めたのか。それで今なにをやっているんだ」
「さあ? もう10年以上は連絡とってないのよ、わかるわけないじゃない。働かなくなってもちょこちょこ会ってはいたと思う。最後がいつだったかは覚えてないわねえ…」
真鍋と彼女は強い繋がりだと思っていたのだが、人間とはわからないものだ。
「そうか、もう遥かに遠い話になっちまったんだなあ。私も大学の人間とは全然関わりのないところで結婚しているし。人生ってのはこんなもんか」
「寂しいことを言わないでよ。ねえ、久しぶりに大学の同期で集まりたくない?」
「ああ、たしかにそうだなあ。真鍋にも連絡をとってみたくなったわ」
突然の提案に何故か激しく心が動かされる。
他はともかく、親友だったはずの男とこんなに疎遠だったことに後悔にも似たものを覚えたのだ。
再び連絡を取ることには何の異存もない、むしろ率先してやりたいくらいだ。
「本当? 社交辞令じゃないでしょうね」
「疑り深いね、ほら名刺。今の連絡先が書いてある」
「あら、悪いわね。じゃ私のも」
彼女も名刺入れから名刺を取り出して、渡してくる。
大手商社の名前と係長という肩書きにちょっと驚くが、顔には出さずに済む。
「へー、新卒の時と会社が違うし、課長って順調に出世しているじゃない」
「ああ、まあ」
定型的な御世辞は聞き流すことにした。
「それじゃあ、私は時間もあるんで失礼するよ。あと、真鍋とは会いたくない、というわけじゃないんだろうな?」
「大丈夫、大丈夫。最後は自然消滅みたいなもんだし。むしろ、生きているかどうかの方が心配なくらいよ。連絡ついたら心配していた、って伝えといてよ」
「わかったよ、期待しないで待っていてくれ」
「はいはい、それじゃあ」
少しぞんざいな挨拶をして、その場を離れて総武線へのホームへと向かう。
足取りは少しだけ軽くなっていた。
現実の厭なことから目を逸らすことが出来たからだろう。
────────
「ただいま」
一応の帰宅の挨拶を家の中に放り込む。
もちろん返事はない。
暗い玄関の電灯を点けて、足音をなるべく立てないように廊下を歩く。時刻は21時30分過ぎ、由美子は既に寝ているようだし、沙月は自分の部屋に籠もっているだろう。
私は駅前の牛丼屋で夕食は済ませている。
自分の家のいつもの状況だ。
自室でスーツを脱いで溜め息をつく、ほとんど会話もないどころか顔すら滅多に合わせない家族。
いつからこんなことになったのか、今では思い出すことすら煩わしい。
「真鍋か……」
自室でスーツを脱ぎながら一人で呟く。
なぜ忘れていたのだろう?
大学時代には毎日のように一緒にいたのだ、警察学校に入学して連絡が取りづらくなかったのが原因だったんだろうか、よく思い出せない。
携帯電話を取り出して電話帳を漁っていく。
「真鍋徹 090-××××-××××」といとも簡単に出てくる項目。
ここ10年くらい彼の名前を思い出した記憶がないのに、機種変更を続けていたはずの携帯電話の中ではひっそりと健在なことにちょっと戸惑う。
少しの躊躇い。
それでも私は通話ボタンを押して携帯電話を耳に当てる。
ちょっとの間。
「こちらはNTTドコモです。おかけになった電話番号は現在つかわれておりません。番号をお確かめになっておかけ直しください」
真鍋徹とは似ても似つかない機械的な音声が無情にも流れ込んできた。