ヴァイオレット・ローエンシュバルフは日常を失った
ヴァイオレットは視線を泳がせ、どうすべきか逡巡していた。まさか、気分転換に庭をウロウロしていただけなのに、本来会場にいるべきはずの王子殿下に遭遇してしまうとは、全く想像もしていなかったのである。目の前のアコニ王子は、背も高く目鼻立ちも整っていて、噂通りの人物であった。令嬢たちが見初められたいと躍起になるはずだ。ヴァイオレットにとっては、ただただ恐れ多く畏怖の対象でしかなかったけれど。
王子に請われ、ついつい名乗ってしまったことを心から後悔した。王子ならば、自分の噂も耳にしていることだろう。そんな分不相応で、本来言葉を交わすことも許されないような自分自身の立場に顔から火が出るほど恥ずかしくなった。この今をときめく殿下が自分のことをどう思っているか想像するだけで穴があったら入りたい気分である。
ヴァイオレットは自身の迂闊さを呪った。これも前世の罪なのだろうか。
「ヴァイオレット、今度二人でゆっくりお話しをしませんか」
きっと心優しい王子は、ヴァイオレットの噂を聞き同情しているのだろう。先ほどからこんな調子で、ヴァイオレットに話しかけてくることも彼女にとってはただただ恥ずかしいという気持ちしか起こらなかった。何よりこの王子とご一緒しているという噂まで立ってしまったら、自分の平穏な生活は確実に乱される。そして、王子の評判まで落としてしまうかもしれない。
「……大変ありがたいお申し出ですが、お忙しい殿下を煩わせてしまいます」
「先ほどから冷たいことばっかりおっしゃるんですね。そんなに私がお嫌いですか?」
「そんな……恐れ多いです」
こういったときの上手な躱しかたを学んでくればよかったと、ヴァイオレットは激しく後悔した。
「アコニ王子、こちらでしたか」
音もなく現れたのは、鎧をまとった顔も体も岩のように大きな男だった。どうやらアコニの従者のようである。ヴァイオレットは心からホッとして、思わずその場に崩れ落ちそうになった。
「早くお戻りください。皆様お探しです」
アコニはじろりと従者を睨んだが、全く意に介した様子もなく男はぴくりとも動かない。アコニを連れ帰るまではここを離れまいという強い意志を汲み取ったのか、アコニは深いため息を吐く。
助かった、とヴァイオレットは完全に油断していた。
アコニはそれまで保っていたヴァイオレットとの距離をいとも簡単に縮め、彼女の左手を取り地面に膝をつく。あまりにスマートに、かつ、自然に行われたそれにヴァイオレットは何一つ抵抗することができなった。アコニはヴァイオレットの手の甲に唇を落とし、彼女の瞳を見つめて微笑む。
「またお会いしましょう、ヴァイオレット」
「あの……」
あまりのことに顔から血の気が引いた。従者に斬り殺されたらどうしようと慌てて大男に視線を向けたが、彼は無表情でどこか別のところに視線を向けている。
アコニはヴァイオレットから手を離し立ち上がる。もう一度ヴァイオレットに微笑みかけると、従者を従え会場へと戻っていった。
王子がいなくなった途端、ヴァイオレットは今度こそ膝から崩れ落ちた。何が起こったのか理解ができず、頭がぐるぐると混乱している。左手の甲を見つめ、「ありえないわ」と小さく呟いた。きっと悪い魔物に幻覚を見せられたのだと思い込もうとした。彼女はしばらくそこにへたりこんだまま、呆然としていたのだった。
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その日、アコニ・プルメリアは自身の誕生パーティーにおいて、素晴らしい女性を見つけたと発表をした。名前は明かさなかったものの、彼女以外との結婚はあり得ないと堂々と宣言したのである。騒然となった会場では泣き崩れる者、誰のことだと怒りで我を忘れる者など阿鼻叫喚の嵐だったらしい。彼の母は、あまりのことにその場で気を失ったという。あまりにも騒ぎが大きくなったため、誕生パーティーは波乱のまま幕を下ろした。
翌日、ローエンシュバルフ公爵家に届いた一通の手紙に、今度は屋敷全体が大騒ぎになったのは言うまでもない。