神は全てを見ている
何でもできることと何をしてもいいは別次元ですよね。
神は大きな鏡に映し出された地上の様子を見て、思わず椅子から転げ落ちそうになった。
[暗っ!? みんなして暗すぎやろ!]
厭世家の王子にとにかく平凡に生きようと努力する令嬢。最近の人間はどうしてこうも暗いのか。
[もっと人生楽しめばいいのに、マジメな子が多いねんなあ。あーもー、もどかしい! でも茶々入れたらあの子らの運命狂わすし……]
神はたった一度だけ、他人の運命を狂わせたことがある。とある貧乏貴族の信心深い令嬢と、公爵家嫡男を出会わせてしまった。これであの信心深い彼女が幸せになるならと思ってのことであった。ところがそのせいで、その公爵家嫡男のもともとの婚約者だった令嬢の運命を狂わせ、不幸にしてしまった。自分が安易なことをしたばかりに、彼女の心が悪魔を宿すことになり、さらに信心深いあの子にまで余計な試練を与えてしまったのである。
[はあ……。神なんて、見守ることしかできひんねんもん。全然万能じゃないわあ]
[にゃーお]
白猫が神の膝に乗り、気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
[ふふ。……そうやね、愚痴ったらあかんね]
神は微笑みを浮かべ、鏡に目線を戻す。
[どんなときでも笑顔でこの子らを見守るのが、うちの大切な役目なんやから]
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ヴァイオレットは鏡に映る自分の姿に思わず言葉を失った。体のラインをきれいに見せるために計算し尽くされたドレス、シャンデリアの光を受けきらきらと輝く宝石があしらわれたアクセサリー、普段はほとんどしない化粧。どこからどう見ても立派な公爵家令嬢である。
「はあ……。すごいのねえ」
「ヴァイオレット様がもともとお美しいからです。化粧なんてほとんどしていませんもの!」
とても誇らしげにマリーゴールドが言う。
「でも私なんかで参考になるのかしら。心配だわ」
「またお姉様はそんなことをおっしゃって」
ヴィオラはうっとりとした視線を慌てて隠し、ヴァイオレットに近づく。
「やっぱりこのネックレスのほうがこのドレスには合うかしら」
テーブルの上に並べられた数々のアクセサリーに、ヴァイオレットは唾を飲み込んだ。公爵家令嬢ならばこれくらい当然のことなのだが、ヴァイオレットは今までそういう社会を徹底的に断絶してきたのでなんとなく落ち着かない。
普段ならば絶対にこのような格好を良しとしない彼女がこのように着飾っているのは、目の前で真剣にアクセサリーを眺めている妹のためである。今夜行われるアコニ王子殿下の誕生パーティーに出席するためにつけていくアクセサリーが決められないと姉に泣きついてきたのだ。最初はヴァイオレットも口頭のみで答えていたのだが、いつの間にか実際にアクセサリーをつけてみてほしい、ドレスを着たところでアクセサリーをつけたところが見たい、ドレスを着るならお化粧も、と妹の要求はだんだんとエスカレートしていった。
もちろんヴァイオレットは全力で拒否したのだが、マリーゴールドといつの間にかメイド長のナンシーまで現れ、三人がかりでこんなことになってしまったのである。
「ねえ、ヴィオラ。もういいでしょう? それにあなたも準備があるのだし」
「あら、もうそんな時間? ではお姉様、私も準備をしてまいりますわ」
にこやかに部屋を出ようとするヴィオラをヴァイオレットは慌てて呼び止める。
「待ってヴィオラ。ドレスを返さなくては」
「嫌だわお姉様ったら。そのドレスは私のではありませんのよ?」
「え……?」
「お姉様のものに決まっているじゃありませんか」
「でも私はパーティーには行かないわ」
「あら? そうだったかしら?」
いたずらっぽく笑うヴィオラに、ヴァイオレットはようやくその企みを察した。さっと顔が青ざめる。
「ヴィオラ? どういうこと?」
「お姉様、それではまたあとで」
逃げるが勝ちと言わんばかりにヴィオラは笑顔のまま部屋を出て行く。ヴァイオレットは思わずマリーゴールドの顔を見るが、従順なメイドは澄ました顔をして明後日の方向を見ていた。
「……私、行かないわよ」
「何のことでしょう? 私存じ上げませんで」
「マリーゴールドだけは私の味方だと思っていたのに」
目を潤ませるヴァイオレットに、マリーゴールドの良心が痛む。しかしここで自分が負けてはせっかくの計画が台無しだ。マリーゴールドは心を鬼にして、真っ直ぐ主人を見返した。
「ヴァイオレット様、いつまでも子どもじみたことはお止めください」
「どういうこと?」
「社交の場には出ない、結婚もしない。まるで子どもの我が儘でございます」
ヴァイオレットは言葉に詰まった。そんなことはもちろん、聡明な彼女は理解している。貴族の令嬢として生まれた以上、家のことを考えて行動しなくてはならない。いつまでもこの生活を続けていいわけがない。
「でも私なんか……」
もしかしたら、また誰かを傷つけてしまうかもしれない。不幸にさせてしまうかもしれない。それが堪らなく恐ろしいのである。
「私は、ヴァイオレット様に救われました」
マリーゴールドがそっとヴァイオレットの手を包み込む。
「ヴァイオレット様はどんな方よりも素晴らしいお方です。だからどうか、そんなことおっしゃらないでください」
ヴァイオレットはしばし考え、諦めたように息を吐く。
「……わかったわ。今回はあなたのために行くわ」
取るに足りない自分が王子殿下の目に留まるとは思えないし、マリーゴールドやヴィオラ、それに両親のことを思えば仕方がない。少なくとも何もせず大人しくしていれば、やり過ごせるはずだ。
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ヴァイオレットの見違えた姿に使用人は感嘆の息を漏らし、両親は泣いて喜んだ。その様子を見ながら、神は一人微笑む。
これまで頑なに止まっていたヴァイオレットの時間がようやく動き出したことは、この神のみしか知らないことである。