ヴァイオレット・ローエンシュバルフの心は、
最初のうちはすみれの女と世間から嘲笑されてはいたものの、人の噂も四十五日、最近ではローエンシュバルフ公爵家令嬢と言えばヴィオラのことばかりで、これからもすみれのような小さい人間として目立たず、どこにでもいるただの某として生きていこうと決めていたのに、意に反して今をときめくアコニ王子殿下から突拍子もない告白を受け、再び世間の笑い者になってしまったのはやっぱり前世からの罪がそうさせるのだろうかとヴァイオレットはしとしと降る雨を眺めながら深いため息を吐いた。
ここ数日、喉に魚の骨が引っかかったときような心持ちがして落ち着かない。原因はわかっている。妹が連れてきた友人の言葉が重石のようにヴァイオレットの胸にのしかかっているからだ。
アコニから届く手紙は、回数を重ねるたびに熱に浮かされた子どものような、ヴァイオレットにとってはただただ恐れ多く恥ずかしいとしか思えない言葉が並べられていく。どうにか冷静になってもらおうと返事を書くがあまり効果はない。かと言って無視することもできなければ、誰かに相談することもできない。
そうして王子との手紙のやり取りが増えていくと、今度は名前しか知らぬ令嬢たちからお茶会の誘いが届くようになった。丁寧で細やかな言葉が綴られているが、だからこそ逆に機械的で恐ろしい印象だ。目的はよくわかっている。かつての自分も、お茶会に誘う側の人間であった。その心理がわからないはずがない。
少しでもいい家柄の相手と結婚すること。それが貴族令嬢の幸福とされる一つのゴールであり、使命でもある。自分の一生だけでなく、生家をも左右しかねないのだから必死になるのは当然だ。過去の自分がそうであったように。
ヴァイオレットの気持ち次第――ガーベラの言葉を噛みしめるように舌の上で転がす。アコニの心だけを頼りにして生きることは、確かに魅力的である。その心が簡単に離れることにいだろうということも徐々に理解もできてきた。また、きっとそれが賢い生き方なのだろうとも、聡明なヴァイオレットは感じている。
それでも素直に従うことができないのは、怖いからだ。
物語であれば、愛する二人が結ばれてそれで終わりである。ところが人間の営みはそこからが始まりだ。いつまでも幸福でいられる保証はどこにもない。ヴァイオレットの過去の記憶は、幸福の終わりの辛苦を鮮明に残している。もし幸福を手に入れたとしてもそれがいつ終わるのか、彼女は必ずそのことを強く意識せざるを得ない自分に気がついた。
――だったら、幸せになる必要はない。何もない自分のほうがいい。
いつしかヴァイオレットは、幸せになることを放棄するようになったのである。
「私は……一体何者なのかしら」
この疑問は、彼女が過去の記憶を思い出してから、ずっと付き纏っている問題であった。もちろん世間的にはヴァイオレット・ローエンシュバルフであるが、彼女の心には、ずっとローズ=アイシス・ライラントが棲んでいる。そしてこれから先も、棲み続けていく。
自分の心がどこにあるのか、ヴァイオレットなのかローズなのかも判然としないのに、どうして「気持ち次第」で行動することができようか。
窓の外の雨は止む気配がない。ヴァイオレットはもう一度深いため息を吐き、数々届く招待状への返事を書き始めた。
両親からも、ヴィオラやマリーゴールドからも、「行きたくなければ行かなくていい」と言われている。それは彼らもヴァイオレット同様、令嬢たちの企みを理解しているからだ。もちろん、ヴァイオレットも行きたいはずがない。どんな仕打ちを受けるか考えただけで、恥ずかしさと恐怖で体が震える。
しかし、彼女は全ての招待状に参加の意を表明していた。
彼女の心に棲むもう一人の彼女が、行くべきだと言っている。自身の罪を見直せと言っている。これは、過去と向き合うことでもあるのだと。
「私の心は、どこにあるのかしら」
自嘲気味に小さく吐き捨て、ヴァイオレットはペンを置く。何度も読み返し推敲を重ねた手紙をマリーゴールドに手渡し、返事を出すよう指示をした。
「ヴァイオレット様、これは優雅なお茶会ではございません。参加はお控えになられたほうが」
「いいの。これでいいの」
ヴィオラからも両親からも同じように反対されたが、ヴァイオレットは頑として首を縦に振らなかった。これでいい、を繰り返し、あとは貝のように押し黙る。こうなっては仕方がないと、ヴィオラとマリーゴールドが付き添いをすることを条件に、両親は令嬢たちの招待を受けることを許した。
かくして、アコニを巡る冷戦の火蓋が切って落とされたのである。




