ヴィオラ・ローエンシュバルフの寂しさは
鏡の前で髪を梳かしながら、こう考えた。
教養はひけらかすだけ品位を下げる。優しく穏やかでいようと心がけてもどうせ裏があるように思われる。意見が食い違えば口論になる恐れがあって煩わしい。だからこそ取るに足りない人間になりたかった。すみれのように、小さい人間として扱われたかった。
幼い頃、ヴァイオレットは両親に連れられて、父の祖父母――つまり、彼女にとっての曾祖父母の墓参りに行ったことがある。そのとき彼女は、過去の、生まれるずっと前のことを、神とのやり取りを、全て思い出したのだ。そして、教えられなくともさまざまなことができてしまうのは、決して自分の実力ではないということを思い知った。
「私はたまたま幸運だっただけなの」
ポツリと呟いた言葉に、マリーゴールドが首を傾げる。
「どうかなさいましたか、ヴァイオレット様」
「いいえ、何でもないの。そろそろ出かけるわ」
「……本当に、その格好で行かれるのですか?」
「ええそうよ」
目が隠れるほどの前髪もそのまま、服装も華美でないワンピース、化粧もアクセサリーもない。この姿で行くことがヴァイオレットからの条件でもあった。ありのままの自分を見てもらうこと、その上でないと王子のお心には従えない、と。さらにヴァイオレットは、付き添いに妹を指名した。自分よりも美しい妹のほうが王子にふさわしいと考えてのことである。そんなことを姉が考えていることは百も承知でヴィオラも姉の提案に頷いた。
王子が本当に噂通りの人物ならば恐れることは何もなかったし、もしもこれで姉の思惑通り心変わりをするようなら、最初からそんな人物に大切な姉を任せることなどどうしてできるだろう。
「お父様、お母様、行ってまいります」
ヴァイオレットは心配そうな両親に恭しくお辞儀をした。ヴィオラもそれに倣う。二人は馬車に乗り込み、見送りに出ていた人々に改めて会釈する。
「出発してちょうだい」
ヴィオラの声に、馬車が走り出す。それぞれの思惑を乗せて――。
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ローエンシュバルフ公爵家の馬車が到着したと聞いたアコニは、一目散に出迎えに出ようとして数人の従者に止められた。王族の人間が自分よりも身分の低い者を外で出迎えるなど本来は言語道断である。母の厳しい言葉にアコニは渋々椅子に座り直した。
あと少しで愛しい人に会える。アコニの心はいつになく晴れ渡っていた。ヴァイオレットに出会ってから世界が色付いて見え、母の小言も気にならない。憂鬱だった毎日が、ヴァイオレットに会えるというだけで一変した。
「ヴァイオレット様とヴィオラ様がお越しになりました」
自分で扉を開けたくなる衝動を必死に抑え、アコニはごくりと唾を飲み込む。従者が扉を開けると、二人の姉妹が部屋に足を踏み入れた。
「本日はお招きいただきありがとうございます、アコニ王子殿下」
背筋のピンと伸びた美女が、ドレスの裾を軽く持ち上げてお辞儀をした。
「まあ、あなたがレディ・ヴァイオレットですの?」
「違いますよ母上。彼女はヴァイオレットの妹君です」
母の言葉にすかさずアコニは笑って否定する。ヴィオラは驚きで目を丸くしたが、すぐに笑みを戻す。
「お目にかかれて光栄です、王妃様。ヴィオラ・ローエンシュバルフと申します。そしてこちらが――」
ヴィオラの背に隠れていた女に、アコニの母は全く気づいていなかった。と言うよりも、完全に従者だと思って気にも留めていなかった。
「王妃様、お初にお目にかかり光栄でございます。ヴァイオレット・ローエンシュバルフと申します」
お辞儀をする仕草、姿勢は確かに令嬢と言えなくもないが、あまりにも地味すぎる。服装もどこか貧乏くさい。王妃は思いきり顔をしかめた。
「あなたがレディ・ヴァイオレット? 見たこともないお召し物ですわね。ご両親は一体どういった教育をなさったの?」
「母上」
アコニの鋭い声が母を咎める。
「それ以上はおやめください。王族の品位が疑われます」
アコニはヴァイオレットに近づき、にこりと微笑んで跪いた。あの日の夜と同じように、左手の甲に口づける。
「この日を楽しみにしていました。また会えて嬉しいです、ヴァイオレット」
「そんな」
王子はヴァイオレットの手を放すことなく立ち上がり、ヴィオラにも挨拶をした。ヴィオラも丁寧にそれに応える。なんてお似合いの二人だろうと呑気に見惚れていると、王子に顔を覗き込まれ一気に現実に引き戻された。父以外の男性とここまで接近した経験がないヴァイオレットは、何をすべきかもわからないまま言葉もなく体を震わせるのみである。
「ヴァイオレット、さっそくで申し訳ありません。あなたをぜひお連れしたいところがあるのです」
「いえ、あの、私は」
ヴァイオレットの制止も母の制止も聞かず、アコニは強引にヴァイオレットの手を引き部屋を出る。護衛とヴィオラも慌てて二人を追いかけた。
長い廊下を歩きながら、アコニはにこにことヴァイオレットに話しかける。もちろん手は繋がれたままだ。王子がなぜこの見た目に何も言わないのかヴァイオレットには不思議で堪らなかった。
――美しい妹と地味な自分が並べば、絶対に妹に心惹かれると思っていたのに。
「ここです」
王子に案内されたのは王宮の図書室であった。ここには世界各国のさまざまな書物が保存されており、貴重なものも多いため、ごく限られた者しか閲覧できないようになっている。ヴァイオレットも幼い頃に数回両親に連れられて来たことはあったが、一冊も本を手にすることはできなかった。
「ヴァイオレットは読書が好きと聞いたので、ここなら楽しめるかと」
「あの、私、でも」
「普段はどんな本を読まれるのですか?」
「……小説が、好きです」
恥ずかしそうに答えたヴァイオレットをアコニは嬉しそうに見つめている。
ヴィオラはそんな王子を見て、やはり噂通りのお人だったと心の底から安心した。
「実は私も大好きなんです。母には害しかないから読むなと禁止されていたのですが」
図書室を歩いて回りながら、アコニは自分が読んだことのある小説についていろいろと話し始めた。先ほどまでほとんど話さなかったヴァイオレットも、趣味の話となると徐々に饒舌になり、ようやく会話らしい会話が成立し始める。話しながら、ヴァイオレットは王子と対面して初めて楽しいと感じている自分に気がついた。今まではただただ恐れ多く恥ずかしいだけであったけれど、王子の優しい心遣いを嬉しいと思っていた。
完全に二人だけの世界に入り込んでいるヴァイオレットとアコニを見て、ヴィオラは頬が緩むのを我慢することができなかった。あんなに重苦しい表情をしていた姉が、今は笑顔も見せ楽しそうに王子と話しをしている。王子も王子で、ヴァイオレットしか見えないといった感じだ。
その様子を心底喜びながら、ヴィオラはほんの少しだけ、姉を取られた寂しさを感じていた。いつかはこうなると理解していたし、むしろ積極的に自分でこうなるよう働きかけたわけだけれど。それでも寂しいと感じるのは仕方がない。しかし、それは決して不愉快なものではなく、胸の奥が温かくなるような寂しさであった。




