マリーゴールドは賭けを持ちかける
目の前に置かれた手紙に、ヴァイオレットはちらと見るだけでそれ以降目も向けず、手にも取ろうとしなかった。その様子をマリーゴールドは深いため息とともに見つめる。アコニ王子殿下の衝撃的な誕生パーティーから一夜明けた昼下がり、屋敷に届いたアコニ王子殿下からヴァイオレット個人に対する手紙に誰もがきりきり舞をした。
王子の言った結婚したい相手は誰だろう、もしかしてヴィオラのことだろうかと噂話に花を咲かせていたメイドたちは全員言葉を失い、執事も大慌てで公爵家夫妻に報告をし、慌てた公爵家夫妻はヴァイオレットの部屋まで行く途中階段を踏み外し軽い捻挫を負ったという。ヴィオラとマリーゴールドだけが、思惑がうまくいった喜びを隠すため、平然を装っている。
ところが、ここで大きな問題が発生した。ヴァイオレットがその手紙を全く見ようとせず、黙秘を続けるからである。ヴィオラが甘えた声で姉に擦り寄っても、マリーゴールドが優しく問いかけても、ヴァイオレットは唇を結んだまま、頑なに王子と何があったのか話そうとしない。マリーゴールドがヴァイオレットの従者として手紙を読んだところ、ヴァイオレットに恋い焦がれているのは明らかで、ヴァイオレットの美しさや優しさを褒め称え、ぜひ一度ゆっくり話をしたいと切々と綴られていた。そのことをヴァイオレットに告げても、彼女は全く興味を示さない。
公爵家夫妻から手紙を読んで返事だけでもと伝えても、一言だけでも何か言葉をと懇願しても、ヴァイオレットは困ったように微笑を浮かべるだけである。
それは手紙が届いて三日経っても全く同じであった。先刻アコニ王子から公爵夫妻に、突然ご連絡を差し上げたお詫びとヴァイオレットの様子を尋ねる手紙が届き、とうとうマリーゴールドに対してヴァイオレットに返事を書かせるよう命が下された。当然そんな命令がなくとも、マリーゴールドは返事を書かせるつもりでいたが、さすがにここまで頑なヴァイオレットは初めてで、白旗を上げたい気分である。それはヴィオラも同じであった。
いつものように静かに本を読んでいるヴァイオレットに、マリーゴールドは声をかける。
「ヴァイオレット様、お茶でもいかがですか?」
「今はいいわ。ありがとう」
他のことであれば返事をしてくれるものの、こんな感じで今はいいを繰り返すので、何かで懐柔することもできない。
それでもこのままでは誰にとっても良くないと、マリーゴールドは意を決して口を開く。
「ヴァイオレット様、アコニ王子殿下のお手紙をお読みになってください。先ほど旦那様と奥様宛てにも、王子からヴァイオレット様をご心配なさった様子のお手紙が届いたと聞きましたわ」
両親宛てに手紙が来たとあって、ヴァイオレットはようやく本から顔を上げた。その瞳に表情がなく、ヴァイオレットの心情を読み取ることはできない。
「お手紙は何て?」
「突然何の前触れもなくご連絡をなさったことへの謝罪と、ヴァイオレット様のご様子を伺うような内容だったそうです」
「そう」
初めて聞く、素っ気ない返事であった。
「どうかお手紙をお読みになってください。ご自分でお返事差し上げるのが難しいとおっしゃるようなら、私が代筆いたしますので」
「それはやめて!」
初めてヴァイオレットが声を荒げるところを見て、マリーゴールドは思わず口を噤む。
「突然大声を出してごめんなさい。でもお返事は差し上げないで、お願い」
ヴァイオレットの瞳から、一筋の涙が溢れた。どんなに陰口を叩かれても決して泣いたりせずいつもにこにこ笑っていたヴァイオレットが、感情に任せて泣くところはマリーゴールドでさえこれまで目にしたことはなかった。そんなに王子が嫌だったのかと、マリーゴールドは罪悪感に苛まれる。そっとヴァイオレットのそばに跪き手を握った。
「申し訳ございませんヴァイオレット様。そんなにお辛いとは思わず……」
「違うの、ごめんなさい。誰かのせいとかではないのよ。ただ」
マリーゴールドは優しくヴァイオレットの腕をさする。少し気分が落ち着いたのか、ヴァイオレットは徐々に自分らしさを取り戻していた。
「ただ、私は静かに暮らしたかっただけなのに」
「えっ」
思わずマリーゴールドの口から素っ頓狂な声が漏れた。ヴァイオレットは気にせず続ける。
「こんな風に大騒ぎになって、そのうち世間にもこんなことが知られて、恥ずかしい思いをするんだわ。もうこんな思いはしたくないから、大人しく生きていたつもりだったのに! 山を賑わすだけの枯木の一部になりたい」
わっと感情的に泣き崩れたヴァイオレットの背中を撫でながら、マリーゴールドは別のところで必死に考えていた。
つまり、今目の前で泣きじゃくるこの主人は、自分は中心から外れたところで何にも巻き込まれず静かに暮らしたかったのに、思惑が外れどういうわけか王子に見初められて騒ぎ立てられているのが恥ずかしくて苦痛で堪らない、と。
「ヴァイオレット様」
普通の令嬢ならば、自分が何よりも一番であって、そうでないとわかると相手を蹴落とすためにどんな手段も辞さないような方もいると聞く。ところが目の前にいるこの主人は、誰よりも優れた容姿と頭脳を持ちながら、それによって目立つくらいなら平凡な人間として扱われたいと嘆いている。
今のローエンシュバルフ公爵当主の祖母に当たる方が、そのような方だったと耳にしたことがある。身分は多少劣っていたけれど、優れた容姿と頭脳で当時のローエンシュバルフ公爵嫡男に見初められた話は有名だ。もしかするとヴァイオレットはその方の生まれ変わりではないだろうかと、マリーゴールドはこの状況に馬鹿馬鹿しいことを考えてしまった。
しかし、ここははっきり言わないといけない。この少し子どもっぽさが過ぎる主人に、自覚させなくては。
「ヴァイオレット様、お聞きください。はっきり申し上げて、ヴァイオレット様が庶民のような生活をしようと思ってもそれは無理でございます」
涙で濡れた瞳をしっかり見つめ返し、マリーゴールドははっきり告げた。
「今をときめくローエンシュバルフ公爵家令嬢というだけでも大変なことでございますのに、ヴァイオレット様がどんなに隠そうとされても、その美しさも知性も、何よりお優しいお心も絶対に隠すことはできませんわ。ヴァイオレット様のような特別なお方は、隠しきれないのでございます」
「そんなこと、ない……」
「あります。アコニ王子殿下がヴァイオレットを見つけられたのが何よりの証拠でございます」
「でも、あのときは暗かったし、私も顔を隠していたわ。それにお言葉だって少ししか交わしていないもの」
そのとき、マリーゴールドにこれ以上ない妙案が思い浮かんだ。今の取り乱したヴァイオレットならうまく丸め込めることだろう。マリーゴールドは飛び切りの笑みを浮かべる。
「ならば私と秘密の賭け事をいたしましょう」
「秘密の、賭け?」
「ええそうです。アコニ王子殿下と明るいところでお会いになってお言葉を交わしてみて、殿下がヴァイオレット様に愛想を尽かしてしまわれたら、ヴァイオレット様のお望みを私がどんなことをしても叶えて差し上げます」
ヴァイオレットの瞳がその言葉に光を取り戻した。マリーゴールドは、よしと心の中で拳を握り締める。
「ただし、殿下がそれでもヴァイオレット様を婚約者にとおっしゃるようでしたら、どうかヴァイオレット様は殿下のお心のままになさってくださいますか?」
吸い込まれそうなエメラルドグリーンの瞳が大きく揺れた。それでもマリーゴールドは、長く仕えていたことによる勘から、きっとうまくいくだろうと確信していた。
「……わかったわ」
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その日、ヴァイオレット・ローエンシュバルフはアコニ・プルメリア王子殿下に手紙の返事を書いた。返事が遅くなったことへのお詫びと、自分もぜひ殿下にもう一度お目見えしたいというものである。ローエンシュバルフ公爵夫妻とヴィオラはマリーゴールドに深く感謝した。
一週間後、ヴァイオレットは再び王宮へと赴くことが決定したのであった。




