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ローズ=アイシス・ライラントは亡くなった

転生前のお話です。ザル設定です……。

 国境付近の緑に囲まれた小さな村の小さな教会で、年老いた修道女は今日も熱心に祈っている。


 ――神様どうか、父と母が安らかに眠っていますように。


 彼女の両親は、もうずっと昔に亡くなっていた。しかしその頃すでにこの小さな教会にいた彼女がその訃報を知ったのは、亡くなって数ヶ月も経ってからである。屋敷の従者だと名乗る目つきの悪い痩せ男が持ってきたボロボロの紙切れに、見たことのある筆跡でそっけなく一言こう書いてあった。


『夏に父が亡くなり、その二ヶ月後、母も亡くなりました』


 両親の死に目にも会うことができなかった悔しさと悲しさと、自らの罪深さに、修道女は静かに泣くことしかできなかった。風に乗ってふわりと届くすみれの香りだけが、彼女の心を慰めてくれたのだった。

 また、年老いた修道女はこうも祈っている。


 ――神様どうか、妹や弟たちが幸せで暮らしていますように。


 彼女には妹と弟が一人ずついた。この教会に来てから、両親の訃報を受け取った以外、何の交流もなく、生きているのか死んでいるのかもよくわからない。それでも、祈る。

きっと妹は立派な貴族に嫁入りし、子だくさんで幸せに暮らしているだろう。きっと弟は立派に家督を継ぎ、素敵な奥方をおもらいになって子宝にも恵まれ、ますます一族が繁栄し幸せに暮らしているだろう。そういうふうに考える時間が、年老いた修道女の唯一の楽しみである。

 彼女は最後に、こう祈る。


 ――神様どうか、あの人たちが幸せで暮らしていますように。


 彼女には、8歳の頃からの婚約者がいた。この教会に来ることが決まる以前に、婚約者とはすでに連絡が途絶えているが、きっとあのかわいらしいお方と幸せに暮らしているだろう。それだけは不思議と確信を持っていた。

 そして、再び涙する。

 あのかわいらしいお方を、どうして疎んじて軽んじて、口にするのも憚られるような扱いをしてしまったのだろうと。

 あの頃の彼女にとって、世界は自分中心に回っていた。ほしいものは全て手に入れないと気が済まなかった。また、自分の所有物に気軽に触れられるだけで、腹の底から怒りが湧き上がった。名家の令嬢という立場を利用し、あの手この手で相手を傷つけ貶めた。

 修道女は祈りを終え、静かに左胸に手を当てる。祈りの時間はいつでも心が痛むが、最近ますますその痛みが強くなっている気がする。自分はもう長くはない――彼女は悟っていた。

 誰もいない教会で、誰にも看取られず、誰にも悲しまれず、ひっそりと死んでいく。考えただけで腹の底が冷える思いだ。


「でもこれが、私への罰なんだわ」


 そう、年老いた修道女は自身に言い聞かせる。どんなに祈っても雪がれることは永遠にない。自分の魂が天国に行くことはない。もしかしたら永遠にさまよい続けるかもしれない。

 彼女は静かにその時を待っている。

 祈りが終わる頃には、日はすっかり西に傾いていた。教会の中にある自室に戻り、一切れのパンと具の入っていないスープで夕食をとる。開け放った窓から、すみれの香りが届く。それだけで、心も空腹も不思議と満たされるのだ。

 この教会の近くにはすみれが一面に咲き誇る平地があって、彼女がここに来たときから変わらぬ香りで癒してくれていた。このすみれの香りに満たされているときだけは、苦しみも悲しみも不安も雑念も胸の痛みも、全てが消え、頭が空っぽになる。何も考えなくていいということは最も幸いなことなのだと、彼女はここに来て初めて知った。

 魅惑的な香りに心を奪われていると、あっという間に夜の帳が下りる。ろうそくに火を灯し、手すりのない急な階段をゆっくり上がる。そろそろこの階段も、上るのがつらくなってきた。もちろん、最初の頃もとてもつらかったのだけれど。

 机とベッドと小さな本棚があるだけの何もない部屋。人生の半世紀近くをこの部屋で過ごした。木造なので床はところどころ腐りかけているし、かび臭さもある。

教会に来たばかりの頃は、ベッドの硬さと不衛生さで毎日眠ることができなかった。天蓋付きの高級ベッド。毎日替えられるシーツ。ふかふかの布団。隙間風など到底縁のない部屋。それらを思い出しては硬いベッドの上で毎日泣いていた。今では昔の部屋など朧気にしか思い出すことができない。


「神様。今日も一日、神様から賜った平和の中で過ごすことができました」


 ――平和などではない。ただ、何もないだけだ。


「明日も神様が下された平和の道を歩むことができますように」


 ――明日など来なくていい。でも、死ぬのが怖い。


「神様に感謝し、今夜も眠りにつかせていただきます」


 ろうそくの灯りを吹き消し、布団に入って目を閉じる。なんだか今日はいつもと違って穏やかな心持ちがした。久々に、いい夢を見られるかもしれない。

 両親に愛され、妹や弟と笑い合い、悲しみや苦しみや妬みや嫉みなど知らなかったあの頃の夢を。




******




 その日、ローズ=アイシス・ライラントは静かに息を引き取った。誰もいない教会で、誰にも看取られず、誰にも悲しまれず、ひっそりと死んでいった。すみれが咲き誇る、初夏の夜のことである。


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