―Ⅳ―
日が沈み、ロンドンの街は夜の静寂に包まれた。遠くでは、中心部の光が煌々と輝いている。
今頃フェンリルとの戦闘が開始されたはずだ。はずだというのは、言うまでもなく二人がその場に居合わせることが出来ないからだ。
周辺警備という名目で、出現予定地区から数キロ離れた無人地区に配置されてしまった。「弱小は手を出さずに、雑魚の相手でもしていろ」という、遠回しに支部から言われたようなものだ。
ガツンと大きな音がした方を見ると、ジェシカが一匹の幻獣をサーベルで地面に縫い付けていた。音の正体はサーベルが舗装を突き破る音のようだ。
不機嫌なジェシカにつかまった哀れな幻獣に少し同情しながら、ウィルは次の標的が恐らく自分であることに憂鬱になった。
「ねぇ、ウィル。斬っていい?」
予想の斜め上だった。
「なんでそうなるんだよ」
「じゃあ、死んで」
「さっきより酷い!」
「痛くしないから問題ない」
「そこ問題じゃないから! その辺の幻獣でも探してろよ」
いって、幻獣の気配が全くないことに気づいた。ジェシカが一帯を片づけてしまったのだろう。暴れてないと落ち着けないのかこいつは。
「ここはもういい。次」
「はいはい」
言って、しまいっぱなしだったスマートフォンが震えていることに気が付いた。
ジェシカに少し待つよう伝えるとさっさと済ませろとでも言いたそうに睨まれる。若干含まれていた殺意には気付かないふりをしておいた。
「所長か。どうかしたのか」
「ウィル、今すぐそこから逃げろ」
アルフォンスの電話の裏で、喧騒も混ざっている。頻拍した状況であることがすぐ理解できた。
「何があったんだ」
「討伐隊が壊滅した」
「何やってんだか……」
聞き耳を立てていたジェシカが悪態をつく。それを視線で咎めウィルは電話に集中した。
アルフォンスによると、出現した『フェンリル』は十メートル近くの大きさだと言う。その時点で異常だが、魔力が格段に跳ね上がっているらしい。魔力に耐性の高いEPAの戦闘員でさえ、当てられて戦闘不能になったらしい。
了解とだけ伝え、スマホをしまう。
「どうする、ジェシカ」
「愚問ね。虚仮にされるのはウィルだけで良いの」
「……」
一応、抗議の視線を送っておいたが、見てないふりをされた。
「来た……」
ジェシカがふと思いついたように呟く。次の瞬間
――グワァァオォォォン!!
雷鳴のような音が大気を震わせ、背後の建造物が爆砕した。
地面を転がるように衝撃波を避けた二人は、土煙の中から黒い巨大な柱を見た。三人が両手いっぱいに広げて、ようやく一周できるかどうかといったほどだ。視線を徐々に上へ向け、ウィルは驚愕した。柱だと感じたものは獣の左前肢だった。
全長はゆうに二十メートルはある。アルフォンスの情報よりかなり異なっている。
「何だあれ」
「フェンリルよ」
いつの間にか横に来ていたジェシカが口を開いた。
「ま、どんな容姿になってようが、やることは変わらないわ」
言い終えると同時にジェシカはフェンリルに向けてサーベルを振り切った。
フェンリルは一瞬うめいたような声を上げたが、数瞬後、傷口の周辺が異様に盛り上がり、ボトリと落ちた。まるで、蜥蜴のしっぽ切りそのものだった。落ちた塊を見てウィルは戦慄した。
幻獣だ。
原形はほぼ保っていないが、恐らくCランクのウェアウルフ。よく見ると、フェンリルの身体を構成している一つ一つは全て幻獣のそれだった。
「チッ」
ジェシカが、後退するジェシカと入れ違うようにウィルは拳銃の引き金を引いた。
着弾した弾は文字の光を放ち、フェンリルの身体を穿つ。やはり威力不足だ。弾は傷口から吐き出されカラカラと地面に落ちていた。
遥か上にあるフェンリルの頭がこちらを向く。ぶるぶると体を震わせたかと思うと、フェンリルの一部と化していた幻獣が次々と解離する。あっという間に幻獣の一個小隊が出来上がった。
「こんな行動聞いてないぞ!」
幸いにも、本体から離れた幻獣は敵ではない。それでも、圧倒的に数が多すぎる。
早々に弾を撃ち尽くしたウィルは予備弾倉を叩き込見ながら悪態をつく。
「ウィル! 上」
ジェシカの声に頭ではなく体が反応し、地面を転がる。直後、先程まで居た場所に巨木を思わせるフェンリルの脚が下りてきた。それだけで、舗装ははがれ、地面が深くえぐられる。
冗談じゃない。このままでは、弾を使い切る前に踏みつぶされて終わりだ。
すぐに起き上がり、手近にいた幻獣に発砲する。僅かに出来た隙に、ウィルはベルトに下がっていた手榴弾のピンを引き抜き、フェンリルに投げつける。
「今だ!」
フェンリルの眼前で爆発が起こる。ダメージは殆ど加えられていないが、一瞬ではあるが五感を封じた。
その隙に、壁を駆け登っていたジェシカが一閃。真横に振り抜いたサーベルが、フェンリルの右目を割った。
ジェシカは暴れたフェンリルに距離を取り地面に降り立った。そこにウィルも合流する。
「大したことないじゃない。面倒だけど」
「確かにな」
それ故に、違和感を感じる。今のフェンリルは高く見積もってもAに届くか届かないかくらいだ。アリアの予知を大きく下回っている。幻獣の塊というイレギュラーはあったとしても、自分達よりはるかに強い事務所のメンバーが敗北するはずがない。
「まあ、さっさと倒しちゃえばいいのよ」
「まて、ジェシカ!」
グワァァオォォォン!!
フェンリルが吠える。空気がびりびりと悲鳴を上げ、回避不能の塊となって襲いかかる。
「――っ!」
自らが生み出した幻獣もろともジェシカを吹き飛ばし、建物の外壁が内側に潰れ、ジェシカの上に崩れ落ちた。
「ジェシカ!」
立ち上がろうとしたウィルは、そこで異常に気が付いた。体が動かなくなっている。強い魔力に当てられたのだ。耐性は強いと考えていたばかりに、油断していた。それに、フェンリル自体の魔力も上がってきている。
動けないウィルにフェンリルのアギトがせまる。
結局、自分はフェンリルに何か出来たのだろうか。悔しさに奥歯を砕けんばかりに噛みしめる。
今度こそ。
覚悟を決めたつもりで、目を閉じた。しかし、いつまでたっても死ぬ気配はない。
「なにやってるのよ」
薄らと目を開けると、赤く光る幾何学模様を纏い整然と立っているジェシカがいた。フェンリルはというと、巨体を建物に打ち付けそこから抜け出そうともがいている。見ているだけで、寒気が立つ光景だ。
「お前みたいに、魔力に強くないんだよ……」
「ウィルも、普通の人間ってことね」
赤い光を霧散させながらジェシカはため息を吐いた。
「ここまで出さないといけないとはね」
ジェシカはしゃがみ、ウィルと視線を合わせるとた。
「全部ウィルのせいだから」
ジェシカは、一瞬の迷いなくウィルの首筋に噛みついた。