―Ⅲ―
結局、事務所に帰ってきたのは昼を何時間か過ぎたころだった。
下の喫茶の店主に声をかけ、覚束ない足取りで階段をのぼる。よく事故を起こさずにここまでたどり着けたものだ。
さっさと寝なおそうと、ドアを押し開けた。
「遅い」
ハッキリとした怒りの声に、ウィルは硬直した。
そこには、仁王立ちしたジェシカがいた。ただ、若干目頭が赤くなっている気がするのは気のせいではないはずだ。
「……なんで、泣いてんだ?」
「はっ。なんで泣かないといけないのよ。ただ、起きてみたら誰もいなくて、捜してたら目にゴミが入っただけ」
「それは悪かったな」
自身で気付いているか分からないが、単に一人で寂しかった。と白状してしまっている。
ただ、追及すると、余計機嫌を悪くするのは明明白白。
「じゃあ、付き合って」
「は?」
「お詫びとして、買い物」
ビシッと、人差し指を突きつける。
ウィルは、それを何気なく下げると、気怠そうに言った。
「……俺は寝たいんだが」
「ダメ。寝たら、首に噛みついてやる」
「どんな脅しだよ……」
しばらく、不毛に睨み合っていたが、根負けするのはいつもウィルの方だ。
負けを認め、掌を上に向けた。
「準備してくる……」
そう言うと、着替えを取りに部屋に戻ろうとし、ふと、コーヒーがあったことを思い出した。
来客用としていたが、結局紅茶を出すので、誰も手を付けていない。
正直苦手だが、眠気覚ましの気休めにはなるかと考え、確か入っていた上段の戸棚を開けた。
「!!?」
と同時に手の甲に衝撃が走った。思わず屈みこみ、恨みがましい眼で見上げると、ゴムが垂れさがっている。戸棚を開けると同時に縮むよう、計画的な配置。
そして、微かに聞こえたジェシカの笑い声。
ウィルはそれを聞いてゆっくりと立ち上がった。遠くで見ていたジェシカの顔が若干引きつる。
お陰で目が覚めた。
ロンドンの中心部をほぼ網羅したところで、ウィルは、ハドソン川沿いに並べられたベンチで休んでいた。
ご機嫌のジェシカに対し、ウィルは疲れ切った様子で体を預けていた。
「つか、れた……」
ジェシカに聞こえないよう小声で呟くと、逆さまになった世界で、すぐ後ろに止めてあるサイドカーが見えた。これでもかというほどにジェシカが買った荷物が積まれ、今までの機嫌の悪さを物に変えたかのようだ。
「ウィル。パス」
視界の端に現れたジェシカが、何かを放り投げた。
綺麗な放物線を描いて飛ぶそれを、ウィルは危なげなくキャッチ。
「冷た」
手にしたそれをまじまじと見ると、今ではほとんど見られなくなってしまった、カップアイスだ。
「どうしたんだ。これ?」
「そこで売ってた」
ジェシカが指差す方を見ると、確かにアイスの絵を掲げたカートと、初老の男がいた。その時、その男と視線が合い、何を勘違いしたのか「頑張れ」とエールのようなものを送ってきている。
それを適当にあしらい、視線を前に戻した。
傾いた太陽が水面を赤く染め、金色のジェシカの髪を幻想的に浮かび上がらせる。
この光景を端から見たらどう見えているのだろうか。と馬鹿馬鹿しいことを考えてしまう。
「なに?」
「なんでもない」
急に恥ずかしくなり、貰ったアイスを平らげると、立ち上った。
「そろそろ戻らないと、夕食抜かされるぞ」
「! それは困る。ウィル、早く」
ジェシカもウィルに倣うと、行くぞと合図を送る。
ウィルもそれについて行こうとする。その時、ウィルのスマートフォンから、けたたましいアラームが鳴り響いた。同時にジェシカもハッとした顔で、外周区の方へ視線を向けた。
「ジェシカ、幻獣だ!」
言われる前にジェシカはバイクに跨っている。数瞬遅れて、ウィルもバイクに飛び乗ると、アクセルを全開に中心部から走り去った。
「居たか?」
「だめ、見つからないし、気配もない」
「討伐の報もない。クソッ。どこ行ったんだ」
出現地に到着してから、かれこれ一時間近く探している。それでも、幻獣の痕跡すら見つけられていなかった。
さらに他の事務所の連中も見当たらない。自分たちだけで、近隣住民の避難まで手は回せない。
「とにかく、急ぐぞ」
そう、歩き出したウィルだが、すぐに歩みを止めた。
ジェシカが視線の先の正体に気づくとそれを睨みつける。
男が立っていた。
まるで中世の絵画から出てきたような青い衣装を纏い、薄笑いを浮かべている。
「人間か……」
中性的な声で男が呟いた。
「誰だ。見た感じ、この辺の住民じゃなさそうだな」
「人間に話す義理は無いな」
決して大柄ではない。どちらかと言えば線は細く弱弱しくすら見える。
だからこそ、足元の物体に目が行った。
そこには、黒い塊が無造作に転がっている。
「……幻獣?」
その呟きを聞いて、男は合点がいったという顔で言った。
「お前たちはこれを探しに来たのか」
男は、無造作にそれを掴み上げると、無造作に放り投げる。それは、バラバラと、黒い破片を撒き散らしながら、風化している。見たこともない死に方だ。
それを見てジェシカが叫んだ。
「ウィル、逃げて! そいつは――」
次の瞬間、ウィルは男に接近を許してしまった。
何処からか取り出した、小型のナイフがウィルを狙う。反射的に銃のグリップで受け止める。
間髪入れずに繰り出した男の蹴りで、後ろに跳び距離をとる。合せたようにジェシカが間に跳び入り、男に肉薄する。
「用は澄んださ。無用な力を使う気はないんでね」
ジェシカのサーベルを軽々避け、闇に消えた。
ウィルは、放心したように立ち尽くしているジェシカに駆け寄った。
「ガブリエル……」
消えるような声でジェシカが呟いた。
「あいつは、『絶望の淵を廻る者』。ヨーロッパで四体だけ確認されている、最高ランクXの中の一体よ」