第二話 血の契約
二話できました。
奈落へと重力に従い、見知らぬ場所にて落ちていく。
まるで強大な力の濁流の中に身一つで放り出されて徐々に体が削られていくようだ。
思考が追いつかず、それに抗う術も思いつかず、只々状況に身を任せた。そうしている内に、身体の端からガラス細工のように少しづつ音を立てて崩れていく。その変化は混乱しかけていた脳に判断能力を与えた。
――このままでは『僕』が消えてしまう!
その恐怖に戦慄する僕は必死に念じた。
(死にたくない、死にたくない、死にたくないっ! 僕はまだ生きていたいんだ!)
願った、自分が自分であり続けることを…。
それでもなお、身体は少しずつ崩れていく。手足の先から始まった崩壊はついには胴体に達し、いよいよ本格的にまずい事になった。
「止まれよ、止まれってば、止まってえぇぇぇっ!!」
その時、言葉通り『止まった』。
身体の崩壊ばかりでなく、落下の感覚も、周りの景色も…。まるで時間そのものが停止したかのような不思議な現象が起きた。
いつの間にか目をつむっていたが、やけに静かすぎる様子にゆっくりと目を開き直して周囲を見渡した。
『それ』は現れた。
一本や二本じゃない、何十、何百本もの黒い手が四方八方と僕に向かって伸びてきたのだ。手は鋭い深紅の爪を生やし、指先から腕にかけては朽木のように細い灰色をしていて全長は数m以上はあるかもしれない。そんなものが沢山こちらへ爪を立てようと蠢いているが、見えない壁に遮られているかに見えて反発している様子が見れた。僕は顔が真っ青になりながらも、この事態を必死に理解しようとした。
[よこせ……]
[身体は手に入れた!]
[…後は、魂をよこせ!]
[よこせ…全てをよこせ…]
[妾の一部と化せ…]
[よこせ、よこせ、よこせ、よこせ、よこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせよこせ――っ!!]
子供か、大人か、老人か、はたまた男か女かも分からない声が一斉に響いた。どうやらこの手の主は僕という全てを奪い取ろうと必死になっているらしい。声が大きくなるにつれて手の動きも激しさを増し、僕を覆う見えない壁を破壊するべくギチギチと音を立てた。
――冗談じゃない! 見ず知らずの存在に好き勝手されてたまるか!
憤りを感じる僕は謎の手に向けて思いっきり叫んだ。
「そんなの絶対に嫌だっ! 死にたくないっ!」
拒絶という意思。厳しく言い聞かせるように、なりふり構わず叫んだ。不思議と喉が痛む事はなく、するすると声は通った。静かで音がほとんどないこの空間に僕の声は良く響いた。
「出てけよ! 僕の中から出て行けっ!」
不思議なことが起きた。次の一言が発された時、それが巨大な衝撃波に変化した。衝撃波は僕の周りを囲んでいた手を風船が割れるように消滅させていった。
断末魔がどこからともなく響いた。異様な光景に思わず恐怖を抱いた。
[そんな馬鹿な! 何故だ、何故だ何故だ何故だっ!]
[…侵り込めぬ!]
[なんだこの魂は!]
謎の声達は驚愕に満ち溢れたまま呻きを残しながら次々と消滅していく。数十秒後にはほとんどの手が僕の周りから消え去っていた。
身体にも再び異変が起きた。手が消滅するごとに、失った腕や手足が徐々に復元していく。いや、『取り戻している』と言った方がいいのかもしれない。
手が消え去った後には、落下していた状態ではなく、頭は上に向いて浮かんだ状態でその場に静かに佇んでいた。頭上に光が見える。きっとあそこがこの空間から脱出するための出口に違いない。僕は希望を託し、必死に元に戻った腕と手足を泳ぐようバタつかせた。
少しづつだが確実に近づいていった。希望となる光に手を伸ばし、僕はそのまま突っ込んだ。
視界が眩い光に包まれた時、僕は再び意識を失った。
どれほど気を失っていたのか分からない。唐突に僕は意識を取り戻し、徐々に視界の明暗が冴えていく。気だるさも、眠気もない驚く程にスッキリとした目覚めは行動を瞬時に可能とした。ひとまず立ち上がってみた。だけど、ここでおかしく感じられた。いや、感じたというより判断した。
身体の感覚が何も感じられないのだ。体幹も、重心も、冷たさも暑さも…。少し焦りながら手を自分の体に触れてみると、カツンと金属特有の音が響き渡った。手を見てみると、何故か僕は『あの』鎧を着込んでいたのだ。
「確か、この鎧を着て、いきなり声が聞こえて…」
〈そうだ人間、妾がお前を呼んだのよ〉
「わぁっ!?」
一瞬呆けていた所に突如と機械的だが綺麗な女性の声が響き渡った。突然の事に僕は尻餅を付き、周りをキョロキョロと見回すが、周りには誰も存在しない。
〈そんな無様な声を上げるでない。それと、そう簡単にこの鎧を傷つけんでおくれ。汚いのは嫌いなんじゃ〉
「誰っ、ど、どこから喋っているの!?」
〈分からぬか、お前の身体となったこの鎧から直接伝えておるのじゃ〉
「鎧、そこから、僕が付けている……」
謎の声からの言葉の意味を一つ一つ理解していく。三秒ほど一時停止した後、僕は再び爆発した。それも絶叫付きでさ。
「ひいぃぃぃっ! 鎧が喋ったあぁぁぁっ!!」
〈驚きすぎじゃ馬鹿者、あまり騒がしい声を聞かせるでない。キンキン喧しい事この上ないぞ!〉
騒ぐ僕を他所に謎の声は僕をいさめようと静かに言いつけた。それに反して、僕の狼狽は激しさを増すばかりだった。そればかりか、こんな気持ち悪い鎧などさっさと脱いでしまいたいと急いでヘルムに手をかけた。
すると、視界が『上がった』。
「ありっ?」
見間違いだろうか? 一旦ヘルムを下に戻し、再び持ち上げると、一緒に視界が上がった。試しにヘルムを回した。すると、自分の視界もまた回転した。身体の方へと向いた視界に言葉を無くしつつ、改めて自分の状態を調べてみた。
頭が見当たらないのだ。そればかりじゃない、喉を守るゴルゲットと呼ばれる部分にある首を通す穴から見える鎧の内側には何も存在しないのだ。
取り敢えず、視界を揺らしながらヘルムを元の位置にはめ直した。そして、二度目の爆発が起こった。やはり絶叫付きでだ。
「うわあぁぁぁっ! 僕の身体が無い、どこにも無いっ! どうなってんのこれえぇぇぇっ!!」
〈ええい、一々やかましいぞ人間! 少しは冷静になれんのかっ!!〉
「無理無理無理っ! ありえない、ありえなさ過ぎて僕も何が何だか訳わかんないよっ!」
地面に横たわってゴロゴロと激しく転がった。どうやら石床の為、金属製の鎧が不協和音を響かせるように衝突音を鳴らした。しばらくそのままにしていたけど、数分する頃には初めより断然と静かになれた。
〈まったく、こんなのにこの身体の主導権を奪われるとは…妾も耄碌したかのう〉
「そうだ、貴方は一体誰なんですかっ!? なんで僕はこうなっているんですかっ!? 教えてくださいよっ!!」
〈…少し黙っていろ『虫けら』 縊り殺すぞ?〉
「あ、はい。ごめんなさい」
謎の声からの恐怖を思わせる声に大人しく従うことにした。きっとこれ以上したらとんでもないことが起きる気がしたからだ。
〈本来ならこのような事態など想定してはおらんかったが致し方ない。妾の言うとおりにしろ、でねば行動すらままならんのでな〉
「どういうこと?」
〈よいか、よく聞け人間。今お前は妾の依代であった鎧に事もあろうに『血の契約』をし、見事果たし終えた〉
「契約…血…あっ!」
――あの時か!
確か、頬を切った時、血を流してしまった覚えがあった。それが全ての始まり、全ての元凶だというのか。
〈己の存在全てを委ね、抹消することにより、契約は完全となる。だがお前は肉体のみを差し出し、魂だけは事もあろうに妾の依代を乗っ取りおった!〉
「何なんだよそれ! 僕はそんな物騒な真似なんてするつもりなんてなかった」
〈だが現に契約は果たされてしまった。本来の仕様とは違った形でだ〉
「返してよ! 僕の身体を返してっ!」
〈無駄だ、一度果たされた契約は二度と解除することはできん。だが、良いではないか。おかげでお前は不死身の体を手に入れたのだからな〉
「そんなの、要らないよ。こんな事って…ないよ……」
膝をついて崩れ落ちた。ということは、僕は一生この姿で生き続けるしかないということなのか。そんな絶望感溢れる事実は確実に気力を奪っていく。伯父さんや伯母さん達にこんな姿になってしまって、どう会えっていうんだ! 友達の皆にも、知り合いの人達にも顔向け出来やしない。
だが、それは始まりに過ぎなかったんだ。
次の言葉で僕は心のより所は全て奪い去られた。
〈それに、ここはもはやお前が元居た世界ではない。契約時に空間移転を行わせてもらった〉
「えっ…それは、どういう――」
〈何、この鎧が『元あるべき場所』に戻ったに過ぎん〉
〈ようこそ、我が故郷『タヴレス』へ…妾はお前を歓迎しよう〉
もっと多くの人に作品を見てもらうコツって何でしょうかね?