それなりのメリークリスマス
寒くて指先が痛い。すりすりと擦り合わせて歩幅を広める。口からは当たり前のように白い息が出ている。
わたしは今、駅から徒歩十五分の場所にある我が家へ向かっている。とっくに日は落ちていて空は真っ暗だ。あいにくの天気で月も星も見えない。
夜道を女の子が一人で歩くのは危険だとバイト先の店長は言うが、ぽつぽつと外灯と家の明かりがある。特に人通りが少ないわけでもないから怖いと思うことはない。しかし中学の部活で帰りが遅くなったとき、いつもと違う様子の通学路に少しビクビクしながら自転車を漕いだ覚えがある。昔の話だ。 さっきよりほんの少し暖まった右手で鍵を持ち、ようやく帰ってきた我が家の玄関の鍵穴に差し込む。が、おかしい――。鍵が開いている。
両親は共働きだ。わたしは小学生のころから鍵っ子と呼ばれる部類だった。
なぜか鍵の閉まっていないドアを、なんとなく見当はつくものの不思議に思いながら開けて中に入る。体温が瞬間的に上がる。
玄関に脱ぎ散らかした靴があるのを確認して小さく息をついた。適当にローファーを脱いで、リビングへと続く冷たい廊下を走った。
「あんた靴くらい綺麗に脱げないの? それと、来るならメールくらいしなよ。びっくりするじゃん」
リビングに入るなりそう言うと、何食わぬ顔でカップラーメンを食べているバカがわたしを見つめ返してきた。
「寒い! ちょっと寒いって! 閉めて閉めて」
着古したジャージ姿のバカは合皮の黒いソファーに横になって、どこからか引っ張ってきた毛布を被り、眉を寄せている。
寒いと言うが、リビングは思った通り暖房で心地よい温度だ。この中にずっと居ると感覚がマヒするのだろうか。
「……起きて、ほら。どっから持ってきたのよ」
毛布を無理やり剥ぎ取ってたたむ。防寒具を奪われたことに文句を垂れながらもソファに座り、音を立てて麺をすする。汁が飛んでいるのが気になるが、後で拭かせればいいのだ。毛布に飛び散っていないか気になり、気休め程度に手で払ってみる。
「姉貴遅かったな。まさか夜遊びとかしてたんじゃ……ハレンチ!」
「バカか。夜遊びする暇なんてないよ。バイトだったの。アルバイト」
今日は週末というのも重なってか、非情なくらい客が多かった。漠然とした言い方ではあるがその一言しか出てこない。こういう日に限って――こういう日だからか――バイトの数が足りなくて裏は息つく暇もなかった。だから今夜は家に帰ったら早めに寝てしまおうと思って帰路を急いだのだ。
「ごちそうさまー」
そんなわたしの気も知らずカップをテーブルに置いたバカ、もとい弟は行儀よく手を合わしたあと伸びをした。
「なぁなぁ、今日が何の日か分かってる? もしかして、と思って来てやれば誰もいねぇし。父さんは? 母さんは? ……はぁ、俺まで寂しい奴みたいじゃん。みじめ、超みじめ」
「今日が何の日か。金曜日、平日、わたしは居酒屋でバイト、お父さんの夜勤――他に何かあるっけ?」
指を折りながら考える。弟を覗き込むと痛々しい物を見るかのような哀れみに溢れた目でわたしを見ていた。
弟に言われなくても今日が世間が浮き足立つクリスマスということくらい知っている。しかし彼氏もいないわたしがわざわざクリスマスを祝う必要はない。クリスチャンでもないし、ただ周りの雰囲気に流されるままにケーキを食べたり騒いだりするのはなんだか癪に触る。
「彼氏とラブラブ、みたいなのないわけ? 今どき中学生でもやってるよ。彼氏いなくてもクリスマスパーティーとか言って。それなのに姉貴はバイトって」
デリカシーの欠片もない弟の言葉に思わず顔が引きつる。クリスマスにバイトをして何が悪いのだ。当日いきなり「休ませてください」と常識はずれな電話を寄越す同い年のバイトが続出したせいでシフト外の時間まで働き、店長には泣いて喜ばれたというのに。
わざとらしく大きくため息をついてわたしはその場を離れた。毛布をベッドに戻してくると理由をつけて。
+++
「母さんは?」
「今日はちょっと遅くなるんだって」
「なんで?」
毛布を父の寝室に置き、ついでに堅苦しい制服から部屋着に着替えてリビングに戻ったわたしに弟が訊いてきた。朝の母との会話を思い出しながらテレビのチャンネルを変える。映画、お笑い番組、歌番組、特に興味がなかった。
「職場の友達と――みっちゃん知らないっけ、山崎みっちゃん。そういう仲良しで飲みに行くんだってさ」
「四十過ぎた母さんでもクリスマスパーティーしてるんだ。あーあー腹減ったなー」
わたしが睨んだ途端、肩をすくめて話題を変えた。あからさまではあるが、これ以上クリスマスの話はしたくない。ちょっとでも空気を読んだ弟を褒めてやりたい。
「さっきラーメン食べてたじゃん」
「あんなのちょこっとつまんだだけ。腹減った」
「こんな時間に食べたら太るよ」
「その分動くから問題なし」
足を叩いてニコッと笑った。小さいころからサッカーが大好きで、高校でも当たり前のようにサッカー部に入った弟の太ももは一年前よりガッシリしている。言葉通り弟の腹がぎゅるぎゅると音をたてた。
仕方なく立ち上がってキッチンへ入る。冷蔵庫の中を覗けば卵が二個と玉ねぎ、ベーコン。炊飯器には少し固くなったご飯があった。
「オムライスとか食べる?」
「喰う! うまく作ってよ。半熟のパカってやるやつがいいな」
目をキラキラと輝かせて、パッと見は純粋な少年のような弟に、わたしは弱い。
「すぐ作る。パカッとは無理だけど」
袖を捲りながら心躍らせている自分が少し悲しい。本当なら弟ではなく、彼氏に手料理を振る舞いたい。
居もしない彼氏という不思議な存在に思いを馳せながら、冷凍されていた鶏肉とラップに包まれた半分の玉ねぎと賞味期限ギリギリのベーコンを炒め、バターとケチャップで味付けしたご飯を混ぜてチキンライスを作る。フライパンを火にかけて温めている間に弟の様子をうかがうと見えていた頭が見えなくなっていて、ソファに横になったのだとわかった。やけにテレビの音量が大きくて、そのうえ耳障りだった。出来るだけ音をたてず近付く。テレビでは新人歌手が寒空の下で歌っている。画面の右上にはLIVEの文字、あまりにも音程が外れていて堪らずミュートにした。
ソファの上で寝息をたてる弟は寒そうに体を丸めていた。やっぱり毛布は置いておいたほうがよかったかもしれない。そこまで考えて、フライパンのことを思い出し、急いでキッチンに駆け込んだ。
多少フライパンは熱しすぎていたものの無事に卵を半熟に仕上げ、皿に盛っておいたチキンライスの上にそれを乗せることができた。お茶碗三杯弱のご飯では多すぎたのか卵とのバランスが悪い。そこにケチャップをかけようとして手を止める。右手にケチャップ、左手に皿を持つとリビングに向かった。
「起きて、出来たよオムライス」
少し声を張る。
数秒置いて弟はゆっくりと起き上がった。しかしその動作はわざとらしく、無言ながらも「なぜ起こした」という目をしていたが、リモコンに手を伸ばしかけて机に置かれた歪なオムライスを見た途端「うおっ」と声をあげた。
自分でも顔が紅潮するのがわかる。
口を開こうとして唾をのむ。言い訳がましくなるのは嫌だった。恥ずかしくて顔を背け、弟の隣に座る。我が家にしては奮発した値の張るソファ。本革ではないがなかなかの座り心地だ。
「いっただきます」
スプーンを手に取った弟は何も言わず半熟のふわふわ卵を崩してチキンライスともども口の中に掻き込んだ。猫舌なのに大丈夫なのかと思ったとき、弟は口を押さえて唸った。
「あっつ……あつい、痛ぇ、ヤケドしたかも」
「ヤケドは言い過ぎ」
「熱いって最初に言って。サイアク」
「見ればわかるじゃん。小学生でもわかるよ。バカじゃないの」
「痛い熱い」と文句を垂れながらオムライスを食べすすめる弟を見ているとフツフツと嫌な気持ちが沸き上がってきた。弟のことだから不味ければはっきり言う。休みなく食べているのはお腹が空いているからか、美味しいからかがわからない。
「美味いよ」
弟がこちらを向いている。視線が突き刺さる。あの円らな瞳でわたしを見ている。
どことなくわたしの目と似ている。女っぽい目元だ。
まるでわたしの気持ちを読んだようなタイミングでこんなことを言う弟が憎らしい。
「当たり前」
わたしはテレビに夢中なふりをして素っ気なく言った。ちゃんと素っ気なく聞こえただろうかと少し不安になる。
「なんでミュートになってんの?」
テレビを真っすぐ見ているわたしに横からのツッコミ。
弟がいつものようにガハガハと笑う。
いつもこうだ。頻繁に弟のために料理を作ってやるが、毎回出すときに緊張するのだ。そして例外なくあとから「大して気にする必要はなかった」と思う。弟も決まって笑い飛ばしてくれる。こういうところは嫌いでもない。
「ほんと料理上達しねぇよな」
「味は美味しいよ」
「自分で言うか? まあ見た目が悪いだけで味は十分食べられるけど。見た目で損するタイプ」
そう言う弟の皿の中のオムライスはほぼなくなっていて、端が焦げたぐちゃぐちゃの卵焼きは跡形もなく、みじん切りとは言えない大きな玉ねぎの入ったチキンライスが二口分ほどしか残っていなかった。
「もっとゆっくり食べなよ。そんなんじゃ味なんてわからないでしょ?」
「わかるっつーの。激ウマ」
最後の一口を口に入れ、飲み込むと満足そうに大きく息を吐いた。
ご飯粒ひとつも残っていない綺麗な皿にスプーンを置くと今度はニュアンスの違う息が漏れた。
「あーあ、クリスマスなのにカップラーメンと姉貴のオムライス……寂しいよなあ。せめてクリスマスらしくケーキとかあればよかったのに」
――そういえば
弟の放ったケーキという言葉に今の今まで忘れていたことに気付く。大事なことだ。
「コンビニにクリスマスケーキ頼んでるんだった。帰りに寄ってくつもりだったのに……」
「はあ? マジかよ。もう十一時だぞ」
「どうしよう……」
12月の頭に注文しておいた苺のショートケーキ。サイズは四号。ほどよい大きさ。
思いつきで頼んだこともあってすっかり忘れていた。
「今からでも取りに行けば? もったいないし、俺ケーキ食いたいし。店員さんも困るんじゃね? 予約したくせに取りに来ねえのかよって。ここでドタキャンしたら気まずくてしばらくそのコンビニ使えないよな」
取りに行けと言われても、こんな時間に、今まで存在を忘れていたケーキをわざわざ取りに行ってまで食べたいという思いはどこにもない。
「あ~! 喰いたい! ケーキ! クリスマスケーキ! 走ればそんなに時間かかんねえだろ」
どれだけ食べれば気がすむのだろうか。弟が食べたものを想像しただけで胸焼けがする。そのうえケーキまで食べようとするとは、食べ盛りの弟の胃袋は計り知れない。高校生にもなって姉に駄々をこねる弟はすごく残念だ。
「女の子ひとりで夜道を歩けってことね。寒い中、ひとりで。しかもクリスマス。ひどい弟にパシられるの? 笑える」
「な、なんだよそれ」
「そのまんまよ」
「なんかムカつく……俺もついてくから、早く行こ」
投げやりにそう言い放つと床に放置されていたダウンとネックウォーマーを引っ掴んでリビングを出て行った。
ひとりで取りに行ってくれればいいのにと思いながら重い腰を上げる。外へ出るのは少し勇気がいる。帰り道のあの寒さを考えただけで鳥肌が立つのだ。それに天気予報では今夜から朝にかけてさらに寒さは厳しくなると言っていた。帰宅時より一層気温が下がっているだろう。
テレビの電源と部屋の暖房を切る。
覚悟を決めて廊下へのドアを開ける。
廊下はひんやりとしていて思わず体が震える。部屋との温度差が激しい。こんなんじゃ老人が心筋梗塞で倒れるのも無理はない。わたしだって心臓が一瞬飛び跳ねた。
廊下から冷気が足に伝わり全身が鳥肌立つ。とにかく急ごう。じっとしていると足先から凍ってしまいそうだ。小走りに二階へ上がり自分の部屋に入る。中綿入りで温かいお気に入りのコートを着て、マフラーを巻きながら階段を駆け降りた。持ち物はケータイと財布だ。
玄関では弟が体全体を揺らしながら立っていた。わたしを目視すると無言でドアを開け、外へ出た。わたしも追いかけて外へ出る。
「……雪」
「……雪」
お互い顔を見合わせる。
「ハモんなよ」
弟が恥ずかしそうに睨む。
「そっちこそ」
鍵を閉め、俯いてコートのポケットに手を入れる。手袋も持ってくればよかった。
静かに静かに降る雪はいつから降っているのかわからないがうっすらと道路に積っていた。空を見上げてもそんなに顔に当たらない。もしかしたらピークは過ぎたのかもしれなかった。
前を行く弟が大きくくしゃみをした。よくそんな恰好で歩けるなと思う。見てるだけで体が冷える。
「クリスマスの夜、雪が降る中、弟と歩く――なにこれ」
「文句言うなよ」
「文句じゃない」
「別にいいじゃん。クリスマスに姉弟仲良くってのも悪くないと思うけど」
「わたしもう疲れた。眠たい」
「ネロ、死んじゃだめだワン!」
「……うざ」
+++
徒歩で二十分近くかけてコンビニに着いたわたしたちは、面倒くさそうな店員から無事クリスマスケーキを受け取り、再び冷えた夜道を歩いていた。
ぽつぽつと辛うじて言葉のキャッチボールをしながら冷え切った体を前へ進めていた。早く温かい部屋で寝たい。
数歩後ろを歩く弟を振り返る。ケーキの箱をちょくちょく覗きながら匂いを嗅いでいる。そんなことをせずにサッカーで鍛えた脚力でサッサと歩いてほしいものだ。
何回目かわからないため息をつく。前に向き直って歩き出したそのとき、ケータイが鳴った。
ポケットの中のケータイを握る。わたしのではなく、弟のケータイが鳴っている。そんなことはわかりきっているが取りだしてメールの問い合わせをしてみる。電波が悪いのか、それとも混雑しているのかなかなか結果が出ない。イライラしながら無意味にケータイを振る。――問い合わせ結果、ゼロゼロゼロ。電源ボタンを押してポケットに仕舞う。
「出ないの?」
弟のケータイは鳴り続けていた。弟が好きなバンドの曲。だいぶ古い曲だ。爆音というほどでもないがこの静かな中では引き立ってしまう。英語の歌詞で何を言ってるかちんぷんかんぷんでもところどころ「あいらびゅー」が聞きとれる。
「言われなくても――もしもし、こんな時間にどうした? お肌によくないぞ」
盗み聞きするつもりは毛の先ほどもなかったが相手の声が漏れ聞こえてくる。つい耳を傾けてしまう。
電話の相手は女の子。どうやら弟の彼女のようで、話の内容には驚いた。
彼女の家でクリスマスパーティーをしてそのうえ泊まる予定だったらしい。彼女は言う。「用が終わったなら今から会いたい」「ちょっとでいいから」と。
弟を見れば眉を寄せて俯いていた。
お互いの沈黙が続く。妙な緊張感が漂って固唾をのんで見守ることしかできない。風が吹き、鼻がむず痒くなる。我慢する間もなくくしゃみが出る。すかさず弟がこちらを見据えた。目で謝ったが弟はわたしに背中を向けて何やらボソボソと話をし始めた。
「はあ? 家まで来て……マジかよ」
唐突に弟の声のボリュームが上がった。が、「家まで来て……」のあとがわからない。来てくれ、なのだろうか。そんなわがままな彼女と付き合っているのか弟は。
「どうしたの?」
先が気になり小声で訊くと、シー! と物凄い顔で睨まれた。
間髪いれずに電話の向こうから彼女が「今の誰?」と声を震わせた。
しまったと思ったときには遅く、誤解を解こうとしながら空回りする弟は脂汗を滲ませていた。耳をすますと鼻をすする音が聞こえる。彼女は泣いていた。
「もうすぐ家に着くから……家の前に居てよ。そのまま待ってて、寒いけど、な」
電話を切った弟は大きく息を吐いて「姉貴のバカ」と吐き捨てると箱を大事そうに抱えて走り出した。
「ちょっと、走んの? 夏希、待ってって」
周りの家のことも考えてあまり大声は出せない。なにせすでに深夜0時を回っているのだ。
凍えて固まった足を必死に動かして弟を追うが、速い。二、三十メートル先を行く弟。街灯でどうにか見えてはいるものの暗く、背中がどんどん小さく遠くなっていく。急に背筋がひんやりとして、怖くなってきた。
早くしないと弟が曲がり角を曲がってしまう。こういうときに脚力を発揮しなくてもいいだろうに。
「待ってって言ってんじゃんクソガキ……」
小声で呟いて泣きそうになる。目の前は暗闇だ。ほぼ全速力で角を曲がる。曲がったその目先にデカイ物体があった。
「ひゃあ!」
「おおっ……」
危うくクソガキと衝突するところだった。バツが悪そうな顔をしているクソガキと。
「姉貴早く」
しかめっ面で弟が言った。
「早くじゃないよ。いきなり走らないでよ」
「……ごめん。もう走んないから。ちょっと早く歩いて、頼むわ」
わたしを放って走ったことを少しは悪いと思っているのか、その顔は本気で謝っているようだった。
目を逸らして目元を拭う。弟はそれを目で追った。もう一度小さく「ごめん」と呟いた。
+++
「あんた彼女いたの」
「……まあね、俺モテモテだから」
「クリスマスパーティー?」
「ナナちゃんのお母さんの手作り料理で。――最初から行きたくなかったけど言えなかったんだ」
「それで今日は行きませんって?」
曖昧な返事。
「用ができましたって」
「へえ、じゃあ行けませんだ」
「正直に言うのも悪い気がして」
「まあなんでもいいか。早く帰るよ、ナナちゃん風邪ひいちゃうじゃん」
「うん」
ほとんど駆け足で帰路を急ぐ。
家の前で待っているという弟の彼女はどんな子だろうと思いを巡らせた。夜も深まってこんなに寒いのに、当日予定をキャンセルするような弟に会いたいがために、わざわざ――不憫でしょうがない。
急いだ甲斐もあり、家に着くまで十分とかからなかった。
我が家のドアの前に立つ、モコモコニットに耳当て、マフラーを巻いた可愛らしい黒髪の女の子を見つけたときには、その姿だけで感化されて涙が出そうになった。彼女は先ほどの電話で彼氏が浮気しているかもしれないという思いがけない勘違いをしてしまっているのだ。その原因を作ってしまったのがわたしなだけに彼女の不安な気持ちを思うといたたまれない。
そんな彼女はうつむき加減でマフラーに顔を埋めていてわたしたちに気付いていない。
隣の弟を肘で小突く。
99パーセントあの子が弟の彼女・ナナちゃんであることは明らかだが訊かずにはいられない。
「あの子?」
「そう」
頷くとすぐに走りだした。ほんの少し近所に気を遣ってか抑え気味に彼女の名前を呼んだ。薄明かりの下でびくりと体を震わせて顔を上げたナナちゃんは、なんとなく予想はしていたがいかにも「泣いてます」って顔をしていた。目の前で立ち止まった弟を数秒見て、弟の後方に立ち尽くすわたしにゆっくりと視線を移した。そしてしかめっ面になり、潤んだ瞳から涙が大きくこぼれた。
「あの女の人、だれ? 用ってあの人と?」
「いや……違うって、違わなくはないけど、女の人っていうか」
「なんなの!もうやだ……」
ナナちゃんの張り上げた声が響いて急いで走り寄る。早く説明して誤解を解いてあげなければいけない。
「あの、わたし、こいつの姉です。姉弟、わたしたち」
弟と自分を指さす。なぜか焦ってしまう。寒いのに嫌な汗が出てくる。わざわざ自分のことを「姉」と言ったのも初めてでどこか不自然さがあった。
「そ、そう! 姉貴の小春!」
「おねえさん……居たの?」
「特に言う必要ないと思って、今紹介する。ジャジャーン! 俺の姉貴!」
弟のいつものような軽快さが逆に空回りしているようにナナちゃんには映っていることだろう。
わたしに疑いの目を向けているナナちゃんは「もし本当にお姉さんなら失礼になる、でもお姉さんじゃなかったら?」という狭間で揺れているのだろう。わたしが「はじめまして」と笑顔を向けると、戸惑いながら軽く口角を持ち上げ、会釈した。それから沈黙。弟はそっぽを向いて赤ちゃんでも抱いているのかとツッコミたくなるほど優しくケーキの箱を抱き締めていた。
ナナちゃんになんと声をかければいいかわからず、言葉を探すうちに二度、車が横を走り抜けていった。
「寒いね。とりあえず中、どうぞ」
動かない弟の肩をぽんと叩いて玄関に向かう。ドアを開けて二人に中へ入るよう促すがナナちゃんはうつむいてしまった。顎をしゃくって弟にどうにかするよう言っても困った顔をして動こうとしない。
ドアノブを掴む指先が冷たいを通り越して痛い。早く温かい部屋で体を休めたい。
しかしわたしの気持ちなど知る由もないこの高一カップルは、きっといつまででも寒空の下で棒立ちし続けるだろう。それは困る。散々なクリスマスだ。わたしにとっても、ナナちゃんにとっても。
ふと、ナナちゃんが持っている物に目が留まる。トートバッグの中には何が入っているのだろうか。ケーキの箱を宝物のように抱えている弟と同じくらい、大切そうに手にしている。もしかしたら弟へのプレゼントかもしれない。本当は家で料理を食べた後にでも渡すつもりだったが、予定が狂ってわざわざここまで渡しに来たと考えるのが妥当か。そうなると、わたしが居るというのはちょっと――いや、相当邪魔だ。
「とりあえず文句言わないで二人とも中入ってて。わたしはちょっとコンビニ行ってくるからね」
じゃ、と手を上げるとそそくさと二人に背を向けて大股で元来た道を辿る。
背後で支えを失ったドアが音をたてる。
数歩進んで、垂れてきた鼻水をすすった。これは無論この寒さのせいだ。そのうえ体温が無駄に上昇したせいでこんなことになるのだ。指を鼻の下に当てるとかすかに湿った。これくらいなら外から見て「鼻水垂れてる」と指をさされて笑われることはないだろうから問題ない。
弟とその彼女に気を遣って、ただコンビニに行くだけでは本当に無駄だ。何かを買おうとコンビニの店内を想像する。――シャンパンもどきの炭酸飲料でも買うか。小腹が空いたからピザマンでも食べようか。そんなことを考えていたら唐突に強い力で腕を引っ張られた。予想外の出来事に、鼻から豚のような「っふんが」というおかしな音が出てしまった。
「姉貴! 待てって」
「な、なによ。わたしは気を遣って」
掴んだままの腕を思い切り引き寄せられ、そこでようやく手が離れる。
「ひとりで行けないっていうからついてってやったのに。ていうか……夜なんだし危ないっつーの」
真面目な顔で、どうやら結構真剣に怒っているらしかった。
家の前で未だ動かないナナちゃんは唖然としながらこちらの様子をうかがっている。
「ナナちゃんはあんたに会いに来たんだよ。女心ちょっとは考えたら? ナナちゃん気遣っちゃうだろうし二人のほうがいいでしょ。それに、別にひとりで行けないわけじゃないから」
弟に背を向けたとき、今度はナナちゃんの少し鼻の詰まったような声が飛んできた。「待て」と言われて待つ悪者はいないが、生憎わたしは何も悪いことはしていないので待ったほうがいいだろう。振り返るとすぐ近くにナナちゃんが迫っていた。
「……お姉さん。気を遣わないでください。夏希くんのこと何も考えないでいきなり来ちゃったわたしが悪いんです。非常識でした。ちょっとでも夏希くんが浮気してるんじゃないかって思った自分が恥ずかしいです。あ、あの、帰ります。ごめんなさい」
髪の毛を振り乱す勢いで頭を下げ、間を置かず踵を返した。
しかし弟は肩を掴んで引きとめる。そう簡単に帰すわけがない。自分の姉にさえ「夜道は危ない」と言うんだから。
「絶対ダメ。帰るって、ナナちゃん歩きで来たの?」
「うん」
「マジかよ……二駅向こうだろ」
「二駅くらい大丈夫だよ」
「昼間ならいいけど今何時か考えろよ」
「やめなさい」
睨み上げると弟は押し黙った。
二人の間に体を割り込ませてナナちゃんの背中を押す。そのまま玄関前まで移動し、有無を言わさず家の中に招き入れた。
弟とナナちゃんをリビングのソファに座らせ、暖房の電源を入れる。一分しないうちにじわじわと室内の空気が温まっていくのを感じる。マフラーを外してキッチンの椅子にかける。
並んでソファに座っている二人のことを気にかけながら弟から奪った箱の中からケーキを取り出す。苺の甘酸っぱい香りと生クリームの甘ったるい匂いが混ざって自然と唾液が出てくる。さっきまではケーキなんて全く興味がなかったのに小腹が空いたというのもあって、このホールのままで丸かじりしたい衝動に駆られる。もちろんそんなことはせず、付属のプラスチックのナイフでショートケーキを三つに切り分ける。
「さすがに大きすぎるかなあ」
ひとり呟きながらひとつひとつお皿に移動させる。なんだか頬の弛みが抑えられない。
シンクの引き出しを漁ってフォークを探す。なぜか同じ種類の物がなくてひとつだけサイズの違う小さなフォークをお皿に添える。これで準備は完了した。しかしリビングからコソコソと二人の話し声が漏れ聞こえてくる。今ここでケーキを持って出て行けばわたしはすごく空気の読めない姉になってしまう。話が終われば弟が手伝いに来るだろう。それまで冷たいキッチンで待つことくらい何ら問題じゃない。
暇つぶしにケータイを開く。不在着信が一件という表示。
いったいこんな時間に誰だろうと考え、母からしかあり得ないと決めつける。ほろ酔いの母が家でひとり留守番をしている娘を気にかけて電話してきたのだ。
「え?」
しかしそれはあまりにも斜め45°からやってきた人だった。
「……店長」
お店に忘れ物でもしたのかもしれない。バイトに関する話かもしれない。何しろ今日は――日付が変わっているから昨日だが――本当に天と地がひっくり返ったかと思うほどの忙しさだったから話しそびれたことがあってもおかしくない。
かじかむ指先を動かして電話をかける。こんな時間に店長から連絡がくることは初めてだ。緊張する。ケータイを耳に当てる。心拍が少し早くなったのがわかる。
プルルルルと電子音が聞こえる。
三回、四回と続くが店長は出ない。
もしかしたら寝てしまったのだろうか。それなら仕方がない。明日の朝もう一度電話をかければいいだけのことだ。諦めて切ろうとした直前、電子音が止まる。
ワンコール分の時間を置いて『もしもし』と控えめな店長の声が届いた。
「すみませんでした電話気付かなくて……何ですか、どうかしましたか?」
『いや、こっちこそ夜中にごめんね』
「大丈夫です。起きてました。わたし忘れ物とかしてましたか?」
『そういうのじゃなくてね』
いつもより幾分声の調子が低い。具合でも悪いのだろうか。
『……今日はお疲れ』
突拍子もない話題だ。
「店長こそ。お疲れ様でした」
『小春ちゃんのおかげで乗り切れたよ。疲れただろ』
「そんなこと、小関さんにも無理言って来てもらったからですよ」
『うん。小関が居たから回ったもんだけど。小春ちゃんのほうがフットワーク軽いから、ほんと助かったよ』
「……それで電話を?」
電話の向こうで店長が言葉を詰まらせる。店長が何か話してくれないとわたしとしては物凄く困るのだが。ケータイを持った左手の肘を机につく。脳内でメラトニンがどばどば出ているような気がする。
「春ちゃん! ケーキ!」
「へっ……」
異常なほどに心臓が音を立てている。
ケータイに集中していたからだろうがキッチンに入ってきた弟に少しも気付かなかった。それに弟がわたしのことを「春ちゃん」と呼ぶのは偉く機嫌のいいときに限られる。いきなり前触れもなく呼ばれるとドキドキしてしまう。しかし機嫌がよくなったということはナナちゃんといい感じで話ができたのだろう。それは姉として喜ばしい。
「ごめん。電話? これ持ってくよ。ってかデカ!」
「おじゃましまあす。あ、持つ持つ。自分で持つよ。うん」
おずおずとキッチンに入ってきたナナちゃんはさっきとは打って変わって可愛らしい笑顔で頭を下げた。彼女はわたしの電話の相手が友達ではないことに気付いたのか小声で話し、「いただきます」と言うと早々にリビングへ戻っていった。バカな弟は「先に喰ってる」と言い残し、ドタバタと出ていった。
「てんちょー。あのー。……あれ?」
『…………メリークリスマス』
無反応だった機械から、不意にぼそりと放たれたメリークリスマスの一言。わけがわからず何も言葉が出ない。いきなり店長はどうしたというのだ。眠気でよく回らない頭を必死に働かせているとブツリと通話が切られた。
「は?」
そういえば店長は三十過ぎて未だ独身。それどころか彼女もいない。このクリスマスの雰囲気に毒されて寂しくなってしまったのだろうか。普通ならあんな電話を寄越す人ではない。酔っぱらって寂しくなって電話をかけてきた。そう考えるのが穏当だ。
重い腰を上げ、お皿を持つ。
リビングではすでに二人が仲睦まじく肩を並べてショートケーキを頬張っていた。
「あ、小春さん」
ソファはひとつ。二人掛けだ。ナナちゃんが立ち上がって横にずれた。
うっかり「わたし床に座ります」とか言うのかと思ってしまった。そうなれば「いやいやいいよ、わたしが床に」と言い返した。
少し窮屈ながらもナナちゃんの気遣いを嬉しく思い弟の隣に腰掛ける。
「美味しいです! このケーキ」
幸せそうに笑うナナちゃんにこちらもつられて笑顔になる。
ちなみに弟はとっくに完食していた。
「じゃあわたしも食べよっかな」
小さなフォークをショートケーキに突き刺し、ふわふわのスポンジを抉り、大きな塊を口に運ぶ。
「んんー! 美味しい! んふふふ」
「小春さん付いてます。付いてますよ」
「ガキかよ」
「うるさいなあ。いいじゃん。――あれ?」
ポケットのケータイが震えている。メールではない。着信だ。
ショートケーキの美味しさに気持ちが舞い上がったまま電話に出る。
出た瞬間、大きな声で名前を呼ばれてその気持ちも一気に冷静になる。
「な、なに」
『小春ちゃん。さっきはちょっとごめん』
「ああ店長ですか」
誰からの着信かすら見ていなかった。
店長の少し乾いた笑いが聞こえる。
『ほら、今日はクリスマスだろ。まあもう夜中だから日付は……でもいいよね』
いつになく早口だ。やはり酔っている。小関さんから聞いたことがある。店長は酒に強いが稀に激しく酔うことがあるらしく、その酔った症状のひとつが「早口」になるということだ。
『小春ちゃんにクリスマスプレゼント渡そうと思ってたんだけど、忙しかったから忘れちゃって、電話だけでもと思って』
「プレゼント? 店長から、ですか?」
『食べ物なんだ。日持ちしないから明日渡すわけにもいかなくて』
だからといって電話をされても困る。
『渡すときに話したいこともあったし。ああ……直接、話したいことが』
「大事な話ですか? あ、その話をするために電話を?」
『うん。あ、大した話じゃないんだ。ただ、好きだってことを伝えたくて……いや! メリークリスマスって言いたかったんだ。それだけだ。お疲れ』
声を発する暇もなく通話は一方的に切られてしまった。
呆然としていると隣から二つの強い視線を感じ、横を見ると興味津津な四つの瞳がわたしを凝視していた。
ナナちゃんはキラキラとしていて、弟は訝しむような、それでいてどこか楽しそうな目をしている。
誰も何も言わない。
堪らなく恥ずかしくなり、でもこの場を去るわけにもいかず、ショートケーキに逃げた。詰め込みすぎて口いっぱいに甘ったるさが充満する。吐き気がするほどに。
来年はもっと甘さ控えめの物にしよう。
いつまでもわたしから視線を逸らさない二人はくすくすと笑っている。何がそんなに面白いというのだ。
「メリークリスマス」
「メリークリスマス」
二人が声を揃わせた。
無視して空っぽになった口に再びケーキをかき込む。
「メリークリスマス!」
笑いが止まらない様子で肩を揺らす弟。
「メリークリスマス!」
その少し後に続いてナナちゃんは足をバタつかせながら笑って言った。
何がメリークリスマスだ。
何がお疲れだ。
大した話じゃないか。
「春ちゃん、メリークリスマス! こっち向いてよ」
からかうような言い方だ。本当に腹立たしい。意地でも二人のほうは見てやらない。
「ケーキ、わたしの分も食べてください」
「うん。食べてやる」
弟を挟んだ向こうからナナちゃんがお皿を滑らせてくる。
ちらりと二人を見ればなぜか真剣な顔をしていた。二人は顔を見合わせ「せーの」の後に続けてこう言った。
「メリークリスマス」
言ってから堪えられないといった様子で二人は噴き出す。弟に至ってはヒーヒー言って腹を押さえる始末だ。
もう見てられない。
テレビのリモコンに手を伸ばす。電源を入れると、そこでも芸人達が大笑いしていた。テレビから、隣から、笑い声が耳に突き刺さる。
「顔が赤いのはなんでだよ春ちゃん」
「うるさいよ」