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流せない髪の毛 ~心霊スポットから帰った夜、何も連れて帰っていないはずだった~

作者: キュウリしか持ってないカッパくん。
掲載日:2026/08/24

夏の夜。


午前零時を少し過ぎた頃、マリナは帰宅すると、そのまま風呂場へ向かった。


服を脱ぎ、洗面所の籠へ放り込む。


汗をかいていたから、ではない。

もちろん、それもある。


八月の夜は蒸し暑く、山から帰ってきた今も、Tシャツは背中へ張りついていた。


けれど本当は――


洗い流したかった。


今日、見たものを。


*


「夏なんだから、一回くらい肝試ししようよ」


そう言い出したのは友達の瑞希(みずき)だった。


四人で向かったのは、山の中にある古い廃旅館。

十年以上前に閉館し、今では地元でも有名な心霊スポットになっているらしい。


ネットには、いくつもの噂が書かれていた。


誰もいない廊下から足音が聞こえる。

鏡に知らない女が映る。

帰宅してから体調を崩す。


そして――


《目の無い女と目が合うと、目を取られる》


馬鹿馬鹿しい。


そう笑っていた。

少なくとも、行くまでは。


結局、旅館にいたのは十分にも満たなかった。

玄関から入り、暗い廊下を少し歩いただけ。


それなのに、突然四人全員のスマホのライトが消えた。


真っ暗な廊下の奥から、


ぺたり。

ぺたり。


濡れた裸足で歩くような音が聞こえた。


誰かが悲鳴を上げた。

そこから先は、ほとんど覚えていない。


全員で走って逃げた。


それだけだ。


何も見ていない。

何も起きていない。


だから、大丈夫。

そう思いたかった。


*


風呂椅子に腰掛けて、シャワーをひねる。


勢いよく飛び出した湯が、肩へ落ちた。


「あったか……」


思わず息が漏れる。

冷房の効いた車に長時間乗っていたせいか、身体の芯は思った以上に冷えていた。


マリナは、頭からシャワーを浴びる。

髪を濡らし、シャンプーを手に取った。


泡立てる。


今日のことなんて忘れよう。

あんなもの、ただの思い込みだ。


暗い場所へ行ったから怖くなっただけ。

スマホのライトが消えたのだって、きっと何か理由がある。


ぺたり。

ぺたり。


あの音だって――

考えるな。


マリナは乱暴に髪を洗った。

全部、流してしまえばいい。


汗も。


山の埃も。


廃旅館のカビ臭い匂いも。


あそこで感じた、嫌な気配も。


全部。


水に流してしまえばいい。

シャワーを頭から浴びる。


白い泡が身体を伝い、足元へ落ちていく。

排水口へ、小さな渦を作りながら吸い込まれていく。


その様子を下を向いてぼんやりと眺めていて、マリナは気づいた。


黒いものが混じっている。


髪の毛だった。


「……抜けすぎじゃない?」


思わず苦笑する。


けれど。

すぐに笑えなくなった。


長い。


自分の髪より、明らかに長い。


腰まで届きそうな、真っ黒な髪。


一本ではない。


二本。


三本。


それどころか、次々と増えていく。


いや。


排水口へ吸い込まれているのではなかった。


逆だった。


排水口の奥から――


出てきている。


「……え?」


マリナはシャワーを止めた。


水音が消える。

途端に、風呂場が異様なほど静かになった。


ぽた。


ぽた。


蛇口から落ちる水滴だけが響く。


黒い髪は、排水口の周囲に絡みついたまま動かない。


マリナは息を止めた。

見間違いだと思いたかった。


けれど、触って確かめようとは思わない。

風呂椅子に腰掛けたまま、そっと両足を引く。


少しでも、その髪から離れたかった。

マリナはシャワーを手に取り、勢いを強くした。


黒い髪へ湯を浴びせる。

水圧に押され、髪はわずかに揺れた。


それでも、

流れていかない。


「……なんなの」


呟いた、そのとき。


目元へ残っていたシャンプーの泡が流れ込んだ。


「っ……」


目が染みる。


マリナは慌てて手で拭う。


何度も瞬きをした。

それでも視界はまだぼやけている。


正面の鏡も、湯気と細かな水滴で白く曇っていた。

その向こうに、自分の輪郭だけがぼんやりと映っている。


マリナは目を細めた。


――今、何か動いた?


鏡の中。

自分の後ろ。


浴室の奥にある白いタイルの壁。

そこに、黒い染みのようなものが浮かんでいた。


「……なに、あれ」


さっきまで、あんなものはなかった。


縦に細長い。

人ひとり分くらいの大きさ。


けれど、湯気でよく見えない。


泡がまだ睫毛に残っているのか。

それとも、鏡が曇っているだけなのか。


マリナは風呂椅子から立ち上がることもできないまま、恐る恐る手だけを伸ばした。


鏡の端を、

手のひらで一度拭う。


白い曇りが筋になって消える。


まず、自分の顔が見えた。


濡れた髪。

泡の残った額。


怯えて見開かれた目。


そして――

その後ろ。


白いタイルの壁に、

黒い染みがさっきよりも広がっていた。


マリナは動けなくなった。

染みは、人の形をしていた。


頭。

肩。

細い胴。

長く垂れた二本の腕。


まるで誰かが壁の向こう側に立ち、

その影だけがタイルへ染み出しているようだった。


「……いや……」


マリナが呟いた、そのとき。


黒い染みが、

ゆっくりと膨らんだ。


「……え?」


平らだったはずの壁から、

顔のようなものが浮き上がってくる。


額。

鼻。

頬。


続いて肩が、

タイルの表面を内側から押し出すように盛り上がった。


壁は割れない。

タイルも剥がれない。


ただ黒い染みだけが厚みを持ち、

少しずつ、人の形になっていく。


そして。

ずるり。


濡れた黒髪が、

壁の中から外へ垂れ落ちた。


張りついていた影が、

壁から身体を剥がすように。


ぬるりと、一歩、

タイルから足を踏み出した。


黒く濡れた長い髪。

青白い顔。


けれど、

その顔には目がなかった。


目のあるはずの場所には、

二つの黒い窪みだけが深く落ち込んでいる。


まるでそこだけ、

壁の向こうの暗闇が残っているようだった。


「……い……」


声が掠れた。


女は浴室の奥に立ったまま、動かない。

ただ、鏡の中からこちらを見ている。


目などないのに。

見られている。

そうとしか思えなかった。


マリナは振り返れなかった。


振り返ったら、

鏡の中だけではなく、

本当にそこにいることを認めてしまう。


女は、背後のタイル壁の前に立っている。


狭い浴室だ。

離れているといっても、ほんの数歩。


それでも――

女は立ったまま、動いていない。


マリナには、

どう考えても手が届かない。


その瞬間。


足首を、

何かに掴まれた。


「え……!」


冷たい。

さっきまで温かい湯を浴びていた皮膚に、そこだけ氷を押し当てられたような冷たさ。


次の瞬間。


五本の指が、

マリナの右足首へ食い込んだ。


「ひっ――!」


椅子の上で身体が跳ねる。


恐る恐る、視線を落とす。


黒ずんだ、

しわだらけの手だった。


細い指が、

逃がさないように足首へ巻きついている。


「いや……っ」


足を引こうとする。


動かない。

掴む力は強くない。


それなのに、

足そのものが床へ縫いつけられたように動かなかった。


おかしい。

後ろの女は離れている。


立ったままでは、

絶対に届かない。


この手は、

どこから伸びている?


マリナは震えながら鏡を見る。


女はまだ、

浴室の奥に立っていた。


動いていない。


なのに、

足首には手がある。


その事実を理解した瞬間。


浴室の灯が一瞬消えた。


次の瞬間。


女は――

マリナのすぐ後ろにいた。


「――っ」


女は前屈みになり、

マリナの左肩越しから顔を覗かせていた。


鏡の中で、

マリナの顔のすぐ横に、

女の顔が浮かんでいる。


女の冷たい黒髪が、

マリナの肩へかかった。


二つの黒い窪みが、

鏡の中からマリナの目を覗き込んでいる。


息ができない。

叫ぶこともできない。


女の口元だけが、

ゆっくりと歪んだ。


耳のすぐそばで。


しわがれた声がした。


「……ミ・ツ・ケ・タ」


*


リビング。

誰もいない部屋。


テーブルの上に置かれていたスマートフォンが、不意に震えた。


ブブッ。


暗かった画面が明るくなる。


メッセージ通知。


『助けて』


数秒後。


もう一度、

スマートフォンが震えた。


『目が……』


瑞希だった。


そこで、

メッセージは途切れた。


静かなリビングの奥。


閉じた浴室の扉の向こうから、

シャワーの水音だけが、

いつまでも流れ続けていた。


その浴室では――

マリナが、濡れた床にうつ伏せに倒れていた。


横を向いた顔。


張りついた濡れ髪の隙間から覗く目元には、


もう、


目がなかった。


その傍らでは、


彼女の濡れた黒髪が、


流れる湯に引かれるように、


排水口の奥へ、


ゆっくりと吸い込まれていた。


【了】

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