流せない髪の毛 ~心霊スポットから帰った夜、何も連れて帰っていないはずだった~
夏の夜。
午前零時を少し過ぎた頃、マリナは帰宅すると、そのまま風呂場へ向かった。
服を脱ぎ、洗面所の籠へ放り込む。
汗をかいていたから、ではない。
もちろん、それもある。
八月の夜は蒸し暑く、山から帰ってきた今も、Tシャツは背中へ張りついていた。
けれど本当は――
洗い流したかった。
今日、見たものを。
*
「夏なんだから、一回くらい肝試ししようよ」
そう言い出したのは友達の瑞希だった。
四人で向かったのは、山の中にある古い廃旅館。
十年以上前に閉館し、今では地元でも有名な心霊スポットになっているらしい。
ネットには、いくつもの噂が書かれていた。
誰もいない廊下から足音が聞こえる。
鏡に知らない女が映る。
帰宅してから体調を崩す。
そして――
《目の無い女と目が合うと、目を取られる》
馬鹿馬鹿しい。
そう笑っていた。
少なくとも、行くまでは。
結局、旅館にいたのは十分にも満たなかった。
玄関から入り、暗い廊下を少し歩いただけ。
それなのに、突然四人全員のスマホのライトが消えた。
真っ暗な廊下の奥から、
ぺたり。
ぺたり。
濡れた裸足で歩くような音が聞こえた。
誰かが悲鳴を上げた。
そこから先は、ほとんど覚えていない。
全員で走って逃げた。
それだけだ。
何も見ていない。
何も起きていない。
だから、大丈夫。
そう思いたかった。
*
風呂椅子に腰掛けて、シャワーをひねる。
勢いよく飛び出した湯が、肩へ落ちた。
「あったか……」
思わず息が漏れる。
冷房の効いた車に長時間乗っていたせいか、身体の芯は思った以上に冷えていた。
マリナは、頭からシャワーを浴びる。
髪を濡らし、シャンプーを手に取った。
泡立てる。
今日のことなんて忘れよう。
あんなもの、ただの思い込みだ。
暗い場所へ行ったから怖くなっただけ。
スマホのライトが消えたのだって、きっと何か理由がある。
ぺたり。
ぺたり。
あの音だって――
考えるな。
マリナは乱暴に髪を洗った。
全部、流してしまえばいい。
汗も。
山の埃も。
廃旅館のカビ臭い匂いも。
あそこで感じた、嫌な気配も。
全部。
水に流してしまえばいい。
シャワーを頭から浴びる。
白い泡が身体を伝い、足元へ落ちていく。
排水口へ、小さな渦を作りながら吸い込まれていく。
その様子を下を向いてぼんやりと眺めていて、マリナは気づいた。
黒いものが混じっている。
髪の毛だった。
「……抜けすぎじゃない?」
思わず苦笑する。
けれど。
すぐに笑えなくなった。
長い。
自分の髪より、明らかに長い。
腰まで届きそうな、真っ黒な髪。
一本ではない。
二本。
三本。
それどころか、次々と増えていく。
いや。
排水口へ吸い込まれているのではなかった。
逆だった。
排水口の奥から――
出てきている。
「……え?」
マリナはシャワーを止めた。
水音が消える。
途端に、風呂場が異様なほど静かになった。
ぽた。
ぽた。
蛇口から落ちる水滴だけが響く。
黒い髪は、排水口の周囲に絡みついたまま動かない。
マリナは息を止めた。
見間違いだと思いたかった。
けれど、触って確かめようとは思わない。
風呂椅子に腰掛けたまま、そっと両足を引く。
少しでも、その髪から離れたかった。
マリナはシャワーを手に取り、勢いを強くした。
黒い髪へ湯を浴びせる。
水圧に押され、髪はわずかに揺れた。
それでも、
流れていかない。
「……なんなの」
呟いた、そのとき。
目元へ残っていたシャンプーの泡が流れ込んだ。
「っ……」
目が染みる。
マリナは慌てて手で拭う。
何度も瞬きをした。
それでも視界はまだぼやけている。
正面の鏡も、湯気と細かな水滴で白く曇っていた。
その向こうに、自分の輪郭だけがぼんやりと映っている。
マリナは目を細めた。
――今、何か動いた?
鏡の中。
自分の後ろ。
浴室の奥にある白いタイルの壁。
そこに、黒い染みのようなものが浮かんでいた。
「……なに、あれ」
さっきまで、あんなものはなかった。
縦に細長い。
人ひとり分くらいの大きさ。
けれど、湯気でよく見えない。
泡がまだ睫毛に残っているのか。
それとも、鏡が曇っているだけなのか。
マリナは風呂椅子から立ち上がることもできないまま、恐る恐る手だけを伸ばした。
鏡の端を、
手のひらで一度拭う。
白い曇りが筋になって消える。
まず、自分の顔が見えた。
濡れた髪。
泡の残った額。
怯えて見開かれた目。
そして――
その後ろ。
白いタイルの壁に、
黒い染みがさっきよりも広がっていた。
マリナは動けなくなった。
染みは、人の形をしていた。
頭。
肩。
細い胴。
長く垂れた二本の腕。
まるで誰かが壁の向こう側に立ち、
その影だけがタイルへ染み出しているようだった。
「……いや……」
マリナが呟いた、そのとき。
黒い染みが、
ゆっくりと膨らんだ。
「……え?」
平らだったはずの壁から、
顔のようなものが浮き上がってくる。
額。
鼻。
頬。
続いて肩が、
タイルの表面を内側から押し出すように盛り上がった。
壁は割れない。
タイルも剥がれない。
ただ黒い染みだけが厚みを持ち、
少しずつ、人の形になっていく。
そして。
ずるり。
濡れた黒髪が、
壁の中から外へ垂れ落ちた。
張りついていた影が、
壁から身体を剥がすように。
ぬるりと、一歩、
タイルから足を踏み出した。
黒く濡れた長い髪。
青白い顔。
けれど、
その顔には目がなかった。
目のあるはずの場所には、
二つの黒い窪みだけが深く落ち込んでいる。
まるでそこだけ、
壁の向こうの暗闇が残っているようだった。
「……い……」
声が掠れた。
女は浴室の奥に立ったまま、動かない。
ただ、鏡の中からこちらを見ている。
目などないのに。
見られている。
そうとしか思えなかった。
マリナは振り返れなかった。
振り返ったら、
鏡の中だけではなく、
本当にそこにいることを認めてしまう。
女は、背後のタイル壁の前に立っている。
狭い浴室だ。
離れているといっても、ほんの数歩。
それでも――
女は立ったまま、動いていない。
マリナには、
どう考えても手が届かない。
その瞬間。
足首を、
何かに掴まれた。
「え……!」
冷たい。
さっきまで温かい湯を浴びていた皮膚に、そこだけ氷を押し当てられたような冷たさ。
次の瞬間。
五本の指が、
マリナの右足首へ食い込んだ。
「ひっ――!」
椅子の上で身体が跳ねる。
恐る恐る、視線を落とす。
黒ずんだ、
しわだらけの手だった。
細い指が、
逃がさないように足首へ巻きついている。
「いや……っ」
足を引こうとする。
動かない。
掴む力は強くない。
それなのに、
足そのものが床へ縫いつけられたように動かなかった。
おかしい。
後ろの女は離れている。
立ったままでは、
絶対に届かない。
この手は、
どこから伸びている?
マリナは震えながら鏡を見る。
女はまだ、
浴室の奥に立っていた。
動いていない。
なのに、
足首には手がある。
その事実を理解した瞬間。
浴室の灯が一瞬消えた。
次の瞬間。
女は――
マリナのすぐ後ろにいた。
「――っ」
女は前屈みになり、
マリナの左肩越しから顔を覗かせていた。
鏡の中で、
マリナの顔のすぐ横に、
女の顔が浮かんでいる。
女の冷たい黒髪が、
マリナの肩へかかった。
二つの黒い窪みが、
鏡の中からマリナの目を覗き込んでいる。
息ができない。
叫ぶこともできない。
女の口元だけが、
ゆっくりと歪んだ。
耳のすぐそばで。
しわがれた声がした。
「……ミ・ツ・ケ・タ」
*
リビング。
誰もいない部屋。
テーブルの上に置かれていたスマートフォンが、不意に震えた。
ブブッ。
暗かった画面が明るくなる。
メッセージ通知。
『助けて』
数秒後。
もう一度、
スマートフォンが震えた。
『目が……』
瑞希だった。
そこで、
メッセージは途切れた。
静かなリビングの奥。
閉じた浴室の扉の向こうから、
シャワーの水音だけが、
いつまでも流れ続けていた。
その浴室では――
マリナが、濡れた床にうつ伏せに倒れていた。
横を向いた顔。
張りついた濡れ髪の隙間から覗く目元には、
もう、
目がなかった。
その傍らでは、
彼女の濡れた黒髪が、
流れる湯に引かれるように、
排水口の奥へ、
ゆっくりと吸い込まれていた。
【了】




