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第六話 執着と契約



 屋敷の喧騒が遠のき、周囲は鬱蒼とした森の静寂に包まれ始めた。

 

 次元食(月食)は刻一刻と進み、天を仰げば、月の半分が赤銅色と腐食した銀のように蒼い闇に侵食されている。

 

 森の最奥、湿った土の匂いと古い石の冷気が混じり合う場所に、その……祠はあった。

 

「……ここまで来れば、大丈夫よ」

 

 都和の声が、奇妙に反響する。祠の周囲だけは、空気の密度が違うようだった。

 

 秀造が持つスマホの画面はノイズで埋まり、デジタル時計の数字は意味をなさず高速で逆回転を始めている。


 ここは一千年前から、現代の物理法則が届かない……隔離された特別な場所なのだ。


  

 だが、その聖なる場所の静寂を、背後から近づく乾いた靴音が踏み躙った。

 

「……やはりここか。一千年前の迷信を信じて、逃げ込む先が石の箱とはね。実に非合理的だとは思わないか、九条教授」

 

 暗がりの向こうから現れたのは、皇だった。

 

 彼は護衛も連れず、ただ一台の奇妙な多面体デバイスを浮遊させていた。


 そのデバイスから放たれる蒼白いレーザーが祠の石壁をなぞり、都和の姿をスキャンしていく。

 

「皇さん……。もう、あなたに渡すデータなんて、どこにもないわ」

 

「データなら、あなたの脳内にまだ沢山残っている。一千年の純粋な観測記録……。それは人類の歴史を一気に書き換えるダイヤモンドだ。それをこの若造と一緒に、土の下で腐らせるなど……文明に対する冒涜だよ」

 

 皇がデバイスを操作すると、祠の周囲に無数のホログラムが展開された。

 

 そこに映し出されたのは、都和の過去だった。



  

 平安の御簾越しに見た月、

 大正の雪道を歩く彼女、

 そして……

 若かりし日の秀造の祖父と語り合う都和。

 

 映像は現実よりも鮮明で、ノイズ一つない。皇が構築した……完璧な記憶の鏡像だった。

 

「見なさい、九条教授。私のサーバー内であれば、あなたは劣化することなく、この美しさを保ったまま永遠になれる。汚れた肉体も、忘れ去られる恐怖も、不確かな感情も必要ない。私という鏡の中で、あなたは完璧な『かぐや姫』として完成するんだ」

 

 都和の瞳が、そのあまりにも美しい……鏡像に吸い寄せられる。

 

 記憶が混濁している彼女にとって、皇が提示する……完璧な記録は、甘美な誘惑だったのだろう。

 

「永遠に……美しいまま……」

 

「そうだ。その汚れたノートなんて捨てなさい。コーヒーのシミや子供の落書きなど、真実を濁らせるだけのゴミだ」

 

 皇の手が、都和に差し伸べられる。

 

 だが、その手を遮るように、秀造が都和の前に立ち塞がった。

 

「……鏡の中が綺麗だって? 笑わせるな。あんたが見ているのは、教授の抜け殻だけだ!」

 

 秀造は、懐のノートを強く握りしめた。

 

「このノートにあるシミや汚れは、教授がこの世界で……生きた証なんだよ。苦いものを飲んだり、誰かのために泣いたり、無駄な時間を過ごしたり……。あんたが言う……完璧には、そういう温かさが一ミリも入ってないよな!」

 

「愚か者めが……温かさなどという不確定な反応こそが、記録を損なう毒なんだよ」

 

 皇の瞳に冷徹な光が宿り、デバイスから高周波の干渉波が放たれる。

 

 都和が耳を押さえてうずくまり、秀造の視界が歪む。

 


 その時、秀造が反対側の手に握っていた……竹の筒が、皇の干渉波に呼応するように激しく震え出した。

 

「……なんだ、これは?いつの間に……(蔵で咄嗟に掴んだのか?)」

 

 筒の隙間から、ドロリとした黒い輝きが漏れ出す。

 

 それを見た皇が、狂気に満ちた笑みを浮かべた。

 

「ははは! 素晴らしい。讃岐君、君は自分が何を持っているのか、本当に理解していないようだな。……君が守っているのは、姫ではない。月への貢ぎ物を新鮮に保つための、厳重な梱包材なのさ」

 

「……何を……」

 

「君の一族は、彼女の……味方などではない。彼女を不純物から遠ざけ、リセットの瞬間まで閉じ込めておくための……看守なんだよ。その筒に記されているのは、一千年前の……引き渡し契約だ」


 皇の言葉と同時に、祠の天井の裂け目から、針のように鋭い……一筋の蒼白い月光が降り注いだ。

 

 その光は皇が作り出したホログラムの鏡像を無慈悲に切り裂き、秀造の手にある竹の筒を真っ直ぐに射抜く。

 

 物理法則を超えた真実の光に耐えきれず、竹の筒が粉々に砕け散った。

 

 ……中から一千年前の始祖の意志が、冷たい風となって祠に吹き荒れた。

 

 空を見上げれば、月は今、完全に地球の影に覆われようとしていた。

 

 月食まで、残り十分……。

 

 周囲を包むのは、絶望を孕んだ、真実の沈黙だった。


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