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第五話 静寂と光



 讃岐家の地下蔵。外の世界から切り離された静寂は、まるで深い海底にいるかのようだった。

 

 ランプの灯りが、積み上げられた膨大な和紙やノートと、都和の青白い横顔を照らしている。

 

 だが、その静寂が今は、都和を苦しめていた。

 

 次元食が近づくにつれ、彼女の脳内では一千年の記憶が急速に意味を失い、断片的な映像へと変わり始めていたからだ。

 

 

「……守夜。私、わからなくなってきたわ。このノートに書いてあることは本当なの? それとも、私が長い眠りの中で見ていた、ただの夢?」

 

 都和の瞳は虚ろだった。


 平安の紅葉も、

 明治の馬車の響きも、

 戦火の煙も。


 すべてが自分とは無関係な物語に感じられ、存在の輪郭が霧のように溶け出している。

 

「夢なんかじゃない! 教授、見てください。このノートの角にある汚れは、あなたが昭和の冬に、僕の祖父と一緒に飲んだココアをこぼした跡だ。……ほら、ここには、僕が子供の頃にいたずらで描いた、下手な落書きもある!」

 

 秀造は必死に、物理的な証拠を突きつける。

 

 皇が求めるデータでも、

 月が説く清らかな永遠でもない。

 

 汚れて、インクが滲んだこの紙の束こそが、彼女が地球で生きた真実なのだ。

 

 都和の指先が、秀造が指し示した歪な似顔絵に触れた。


 その横には、覚えたての文字で『いつも ありがとう』と書かれている。


 その瞬間、混濁していた夢の海に、一条の光が差し込んだ。

 

「……思い出したわ。私、この落書きを見て初めて『このまま時間が止まればいいのに』って思ったんだわ。守るべきは月じゃなく、この子の成長を見守る毎日なんだって……」

 

 都和の瞳に、強い琥珀色の輝きが戻った。彼女は、秀造のノートを強く胸に抱きしめた。

 

「守夜。私、決めたわ。皇さんのサーバーに預ければ、私は劣化しない『知』になれるでしょう。月へ帰れば、私は『純白』に戻れる。……でも、私はこの『(よご)れ』が愛おしいの。このシミも、苦いコーヒーも、あなたがくれた一分一秒も。全部、私だけのもの。……誰にも、触れさせないわ!」

 

 立ち上がった彼女の足取りには、もう迷いはない。その直後だった。


 

 ドゴォォォォォン!!


 

 凄まじい衝撃と共に、蔵の天井が轟音を立てて崩落した。

 

 土煙の中から巨大な重機のバケットと、眩いサーチライトの光が差し込んでくる。

 

「見つけたぞ、教授。さあ、そのガラクタを置いて、私のサーバーの元へ……」

 

 拡声器を通した皇の冷徹な声に、都和は凛とした声で言い放った。

 

「いいえ。私の居場所は、サーバーの中でも、月の中でもないわ」

 

 秀造は都和の手を取り、崩れたガレキを蹴り上げた。

 

「あんたには一生かかっても理解できない……無駄や汚れが、ここには詰まってるんだ!」

 

 空を見上げれば、月が蒼い影に飲まれようとしていた。

 

 次元食のピーク。すべてを白紙に戻そうとする蒼い月光が、森の木々を冷たく照らし出す。

 

「教授! どこへ!?」

 

「祠よ! 讃岐の家が、一千年前から私のために守ってくれた、あの小さな祠に!」

 

 都和は夜の庭へと走り出した。


  

 屋敷の裏手、鬱蒼とした森の奥にある、古びた石の祠。

 

 そこは、家出をしたかぐや姫が最初に隠れ、守夜の始祖と約束を交わした原点の場所。


  

「守夜、来て! 月が重なる前に、あの場所で、この一千年を……本当の結末にしなければならないの!」

 

 背後からは重機の咆哮。


 頭上からは、蒼い月光。


  

 二人は死に物狂いで駆け出した。


 月食まで、残り一時間……。


 


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