第一話 蒼い月
「……シュウ。いえ、今は『守夜』と呼ぶべきかしら」
九条教授は、古い和紙に万年筆で数式を書きながら、顔も上げずにそう言った。
讃岐秀造は、その呼び名に一瞬だけ肩を揺らし、まだ自分のものとは思えない……夜の守り人としての返事を探した。
「……親父や親戚の前では、そっち(役職名)でお願いします。ややこしくなるんで」
秀造は、使い古された真鍮のネルドリッパーで丁寧に淹れたコーヒーを、彼女のデスクの端に置いた。
香ばしい香りが、古書とインクの匂いが充満する研究室にわずかな安らぎを運ぶ。
「大学では『シュウ』、僕らの間では『守夜』。……僕の名前に『造』の一字を継がせた先代たちも、まさか僕があなたのコーヒーを淹れるためにその手を使っているとは、思ってもみないでしょうね」
「そうね……」
都和は万年筆を置き、眼鏡を指先で直した。
彼女の瞳は、室内灯の光を吸い込みながらも、どこか遠い場所を映しているように澄んでいる。
「でも、少し不自由じゃない? たった数文字の名前に、人生のすべてを縛られるのは」
「慣れてますよ。讃岐の男は、代々 造の字を継いで、あなたの影になる。……秀造という本名だって、結局はあなたを支える……影武者として生きる約束をしたみたいなもんです」
秀造が自嘲気味に笑うと、机の上で剥製のように静止していた黒い塊が、不意に羽を広げた。
「カカッ! 硬いのう、二十五代目。先々代などは死ぬ間際まで、都和様に『おい、お前』としか呼ばれておらなんだぞ。シュウ、と呼んでもらえるだけ、お前は愛されておる」
「うるさいぞ、玄」
秀造はカラスを睨んだが、玄は意に介さず、鋭い嘴で毛繕いを始めた。
このカラス(生体記録端末)は、平安の世から都和の傍らで、数多の……守夜を記録し続けてきたのだ。秀造の青臭い悩みなど、彼にとっては何千回も繰り返された喜劇に過ぎない。
都和はコーヒーに口をつけ、ふと窓の外を仰ぐと……冬の澄んだ空に、白銀の月が浮かんでいた。
「ねえ、守夜。あなたは一日の二十四時間を、どう感じているかしら」
唐突な問いに、秀造は手を止めた。
「どうって……。レポートの締め切り前は短いし、退屈な講義の時は長い。そんなもんでしょう」
「そう。時間は誰にとっても平等に二十四時間与えられるけれど、その使い方は残酷なほど自由よ。早く感じたり、遅く感じたり……。けれど、その揺らぎこそが、この星の命が持つ最大の特権なの……」
都和は椅子を回し、両手を広げて月明かりをその身に浴びている。
「故郷では、時間を消費することしか知らないのよ。けれど私は、この一千年の、一分一秒を慈しんで……大切に重ねてきたの。それが罰として与えられた時間であったとしてもね。私の……大切に重ねた時間は、いつか結晶になって、命を輝かせる……そんな気がするの」
その言葉が秀造の耳に届いた瞬間……モニターの天体観測データが、電子音と共に不吉な数値を弾き出した。
「教授、これ……」
秀造が指差した先には、モニターに映る月のエッジが、一瞬だけゾッとするほど鮮やかな蒼色に染まっていた。
一千年に一度の……次元の重なりだ。
「……始まったわね」
都和の声は、静かだが決然としていた。
「私たちの夜が、あちら側の世界に……月の世界に見つかったわ」
秀造は無意識に、拳を握りしめた。
守夜としての本能が……隣に立つこの美しい女性が、自分たちの手の届かない場所へ連れ去られようとしていることを告げている……。




