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「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/11

「セレスティーヌ。君との婚約は、今日をもって破棄する」


 夕暮れの謁見の間に、第二王子オーギュストの声が響いた。

 背後に控える新しい令嬢——子爵令嬢リゼットが、不安そうに彼の袖を掴んでいる。


 わたくしは、手元の羊皮紙から顔を上げた。


「……承知いたしました」


 たったそれだけ。

 怒鳴りもしない。涙も見せない。

 オーギュスト殿下はむしろ拍子抜けしたような顔をした。


「……それだけか? 五年も婚約していたのに」

「ええ。五年も、でございますね」


 わたくしは静かに微笑んだ。

 五年。その月日の重さを、あなたは知らないでしょう。


「では殿下。引き継ぎの件ですが」

「は?」

「わたくしが管理しております王宮書庫の記録文書、外交条約の原本写し、財務帳簿の索引、過去二十年分の議事録の分類体系——すべて、三日以内に正式な引き継ぎ書類とともにお返しいたします」


 オーギュスト殿下は、まるで異国の言葉を聞いたような顔をした。


「……何の話だ?」

「わたくしの仕事の話でございます」


 あら。ご存じなかったのですか。


 ——わたくし、セレスティーヌ・フォルセットの魔法は【記録】。

 見たもの、聞いたもの、読んだものを、一字一句違わず記録し、整理し、検索できる魔法。

 派手な炎も出なければ、美しい氷の花も咲かない。

 ただ、記録するだけ。


 オーギュスト殿下は、かつてこうおっしゃいました。

 ——地味な魔法だな。パーティーの席では何の役にも立たない。


 ええ、そうですね。

 でも、この国の外交記録と財務帳簿と条約原本を、たった一人で完璧に管理できる人間が他にいるかどうかは、また別の話です。


「引き継ぎ先はどなたになさいますか?」

「……そんなものは後でいい。それよりセレスティーヌ、泣いたりしないのか」

「泣く理由がございません」


 わたくしは羽根ペンを置き、丁寧に一礼した。


「五年間、お世話になりました。殿下とリゼット様のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」


 振り返らなかった。

 リゼット嬢の安堵の息が聞こえたけれど、聞こえないふりをした。


 (……ようやく、終わった)


 回廊を歩きながら、わたくしはそっと息をついた。

 泣かなかったのは、強がりではない。

 本当に、泣く理由がなかったのだ。


 五年前、十八歳で王宮に上がったとき、わたくしは夢を見ていた。

 殿下のお役に立ちたい。この国のために働きたい。

 記録魔法しか持たないわたくしにできることは少ないけれど、それでも。


 最初の一年は、必死だった。

 王宮書庫には二百年分の文書が無秩序に積み上げられ、重要な条約の原本と使用人の買い出し伝票が同じ棚に突っ込まれていた。

 わたくしは毎日夜明け前から書庫に入り、一枚ずつ記録し、分類し、索引をつけた。


 二年目、隣国との領土交渉で百年前の条約が必要になった。

 誰もその条約の存在すら知らなかった。わたくしの索引だけが、それを見つけ出した。

 外務卿は「助かった」と言ってくださった。

 殿下は何もおっしゃらなかった。


 三年目、四年目、五年目。

 わたくしの仕事は増え続けた。外交文書の翻訳補助、財務帳簿の照合、議会議事録の速記と整理。

 すべてを完璧にこなした。

 すべてを、当たり前のように求められた。


 殿下はいつも夜会やパーティーにお忙しかった。

 わたくしを連れていくことは、一度もなかった。

 「地味な婚約者を連れて歩くのは恥ずかしい」——そう言っているのを、廊下で聞いたことがある。


 リゼット嬢のことは知っていた。

 子爵家の令嬢で、【炎華】の魔法の持ち主。手のひらから美しい炎の花を咲かせる。

 パーティーの席で殿下の隣に立ち、華やかな炎の花束を咲かせるリゼット嬢は、確かに絵になった。

 貴族たちの拍手と歓声。殿下の誇らしげな笑顔。


 わたくしの【記録】では、あんなふうに人を魅了することはできない。

 けれど——リゼット嬢の炎の花で、条約の原本を探し出すことも、できないのですよ。殿下。


 わたくしは記録魔法で、その言葉も正確に記録してしまった。

 消したかったけれど、わたくしの魔法は一度記録したものを消せない。


 だから。

 婚約を破棄されたとき、わたくしの心はとっくに凪いでいた。

 悲しみでも怒りでもなく、ただ——疲れていたのだと思う。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 三日後、わたくしは約束通りすべての引き継ぎを完了した。


 引き継ぎ書類は全七十二巻。

 書庫の分類体系、索引の使い方、各文書の保管場所、更新頻度、関連文書への相互参照——すべてを、後任者が理解できるように丁寧に記した。


 問題は、後任者が誰もいなかったことだ。


「セレスティーヌ嬢。この引き継ぎ書類、誰に渡せばよいのかね」


 書庫管理官のベルトラン老が、困惑した顔で引き継ぎ書類の山を見つめている。


「殿下に確認したのですが、『後で決める』とのことでした」

「……それは困る。今日から索引はどうなるのだ」

「申し訳ございません。わたくしの管轄外となりましたので」


 ベルトラン老の顔がさっと青ざめた。

 この方は知っているのだ。わたくしがいなければ、この書庫がどうなるか。


「嬢、せめてもう一月だけ……」

「お気持ちはありがたいのですが」


 わたくしは微笑んで、首を横に振った。


「わたくしはもう、ここにいる理由がございませんので」


 荷物は小さな旅行鞄ひとつ。

 五年分の暮らしが、こんなにも軽い。

 本当に、わたくしはここに何も残さなかったのだなと思った。


 正門を出るとき、馬車が一台待っていた。

 父——フォルセット伯爵が手配してくれたものだ。


「セレスティーヌ。戻ってきなさい」


 父の手紙は短かった。

 けれど、わたくしは戻る気はなかった。

 実家に戻れば、また別の政略結婚の駒にされるだけだ。


 代わりに、わたくしは新聞の求人欄を見た。

 出発の前夜、一件だけ目に留まった求人があった。


 ——『ヴァイスガルト辺境公爵領 古文書整理係 募集。識字能力と根気のある者を求む。身分不問』


 辺境。

 王都から馬車で八日。

 遠い。とても遠い。


 わたくしは迷わなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ヴァイスガルト領は、想像していたよりもずっと美しい場所だった。


 深い森に囲まれた城塞都市。清らかな川が領地を縦断し、石造りの橋が点在している。

 王都の喧騒とは別世界だ。空気が澄んでいて、夜は星が近い。


 (……きれい)


 馬車を降りたわたくしの前に、城の執事が現れた。


「セレスティーヌ・フォルセット嬢ですね。お待ちしておりました。面接は閣下が直接行います」

「閣下が直接? 古文書整理係の面接を?」

「はい。閣下は……その、本に関することには、大変こだわりがおありで」


 執事の微妙な言い回しが気になったが、わたくしは案内されるままに城の奥へと進んだ。


 書庫——いや、これは書庫というより迷宮だ。


 天井まで積み上げられた本、巻物、石板、羊皮紙。

 三百年分の記録が、まるで雪崩のように棚から溢れている。

 王宮書庫の比ではない。これは——


「……ひどいだろう」


 低い声が降ってきた。


 振り向くと、書架の影に一人の男が立っていた。

 銀灰色の髪に、深い紺色の瞳。長身で、どこか疲れた表情をしている。

 年はわたくしとそう変わらないだろう。

 しかしその佇まいには、若さに似つかわしくない静けさがあった。


「ヴァイスガルト辺境公爵、レオンハルト・フォン・ヴァイスガルトだ」

「セレスティーヌ・フォルセットと申します。古文書整理係に応募いたしました」


 レオンハルト閣下はわたくしをじっと見た。

 値踏みするような視線ではない。何かを確かめるような、真剣な目だ。


「経歴は読んだ。王宮書庫を五年間管理していたと」

「はい」

「なぜ辞めた」


 わたくしは一瞬だけ迷い、正直に答えた。


「婚約を破棄されまして」

「……書庫とは関係ない理由だな」

「はい。書庫とは関係ございません」


 レオンハルト閣下の口元が、ほんのわずかに動いた。

 笑った——のだろうか。一瞬すぎて分からなかった。

 ただ、どこか——安堵しているようにも見えた。

 不思議な反応だと思ったが、深くは考えなかった。


「この書庫には、三百年分の文書がある。初代領主の日記から、隣国との休戦協定の原本まで。だが整理されたことがない」

「拝見いたしました。分類体系が存在しないのですね」

「ああ。前任者は三日で逃げた。その前は一週間。さらにその前は——」

「——初日ですか」

「半日だ」


 わたくしは書庫を見回した。

 崩れかけた巻物の山。黴びた羊皮紙。虫食いの帳簿。

 確かに、普通の人なら逃げ出すだろう。


 けれど。


 わたくしの目には、別のものが見えていた。

 記録魔法が自動的に起動し、視界に入った文書の情報を拾い上げている。

 あの巻物は百二十年前の地図。この羊皮紙は初代領主の領地裁定記録。あの帳簿は——


「……素晴らしい」


 思わず声が出た。


「何?」


 レオンハルト閣下が怪訝な顔をした。


「この書庫は宝の山です。三百年分の記録が途切れることなく残っている——これがどれほど貴重なことか。王宮書庫でさえ、二百年以前の記録は散逸していました」


 わたくしの声は、自分でも驚くほど弾んでいた。

 五年ぶりだ。仕事を前にして、心が躍るのは。


「閣下。わたくしに、この書庫を任せていただけませんか」


 レオンハルト閣下は、少し目を見開いた。

 それから、今度ははっきりと——微笑んだ。


「……採用だ」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ヴァイスガルト領での日々は、穏やかだった。


 朝は鳥の声で目覚める。窓を開けると、森の匂いがする。

 王宮では排気と馬糞の匂いしかしなかったから、毎朝小さな幸福を感じた。

 朝食を済ませてから書庫に入る。

 昼食は厨房の賄いをいただく。温かいスープと焼きたてのパン。

 王宮ではいつも書庫で干し肉をかじっていたから、温かい食事が出るだけで感動する。

 (前世——いえ、前の職場がブラックすぎたのかもしれません)

 夕方になると、レオンハルト閣下がふらりと書庫を訪れる。


「進み具合はどうだ」

「今日は初代領主時代の徴税記録を分類しました。面白いことに、三代目の時期だけ記録様式が変わっていまして——」


 わたくしが夢中で語り始めると、閣下はいつも黙って聞いている。

 退屈そうにはしない。むしろ——


「それは興味深い。三代目は改革派として知られているが、徴税制度にまで手を入れていたとは」

「はい。こちらの帳簿にその詳細が——」


 閣下は博識だった。

 歴史に精通し、古い文献を読み解く力がある。わたくしの発見を、正確に理解してくださる。

 それだけで、どれほど嬉しかったか。


 王宮では、誰もわたくしの仕事に興味を持たなかった。

 「記録が整理された」と報告しても、殿下は「ああ、そう」と一言で終わりだった。


 ここでは違う。

 閣下はわたくしの話を聞き、質問をし、時には自分の書斎から関連する資料を持ってきてくださる。


 (……なんて、贅沢な時間だろう)


 一ヶ月が過ぎた頃、わたくしは気づいた。

 閣下が書庫を訪れる回数が増えている。

 最初は夕方だけだったのが、昼にも顔を出すようになり、朝も「ついでに」と言って覗きに来る。


 そして必ず、温かい飲み物を持ってきてくださる。


「……閣下。お茶を淹れるのはわたくしの仕事では」

「君は文書を扱っている。手が塞がっているだろう」

「そうですが、閣下が自らお茶をお持ちになるのは——」

「気にするな」


 ぶっきらぼうだけれど、カップを置く手は丁寧だ。

 しかも、日に日にお茶の種類が変わっている。


 最初はただの紅茶だった。

 次の日はミルクティー。その次はハーブティー。さらに蜂蜜入りのカモミール。


 (……もしかして、わたくしの好みを探っていらっしゃる?)


 記録魔法は正直だ。

 閣下がお茶を置くとき、わたくしの表情をちらりと確認していることも、しっかり記録されている。


 わたくしがカモミールティーを飲んだとき、小さく「おいしい」と言ったこと。

 翌日から、カモミールティーがずっと続いていること。


 ——気づいていないと思っているのだろうか、この方は。


 湯気の向こうに見える閣下の横顔は、いつも少しだけ——耳が赤い気がした。


 ある日、閣下が珍しく早朝に書庫に来た。

 手には二冊の古い本を抱えている。


「これは……?」

「昨夜、自室の書棚を整理していたら出てきた。百年前の辺境植物図鑑だ。書庫の目録に入っていないだろうから、持ってきた」

「わざわざ朝早くに?」

「……朝の方が、君がいるから」


 言ってから、閣下は自分の言葉に気づいたように固まった。


「——朝の方が書庫が静かだから、という意味だ」

「ええ、もちろんそうですよね」


 わたくしは微笑んだ。記録魔法は今の会話も一字一句記録している。

 消せないのだから仕方がない。

 消したくもないけれど。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 転機が訪れたのは、二ヶ月目のことだった。


 わたくしが古文書の分類作業をしていると、執事のロイドが血相を変えて飛び込んできた。


「セレスティーヌ嬢! 王都から使者が参りました!」

「使者?」

「王宮書庫管理官ベルトラン殿です!」


 ベルトラン老はわたくしの顔を見るなり、泣き崩れた。


「セレスティーヌ嬢……! お願いだ、戻ってきてくれ……!」

「ベルトラン様、まずは落ち着いてください。何があったのです」


 ベルトラン老の話を要約すると、こうだった。


 わたくしが去った後、王宮書庫は二週間で機能を停止した。

 引き継ぎ書類は七十二巻もあったが、誰もそれを読み解けなかった。

 ——正確には、引き継ぎ書類自体は完璧だった。問題は、書庫の分類体系そのものが高度すぎて、記録魔法なしでは運用できなかったのだ。


 最初に起きたのは、隣国ベルトリア王国との通商条約の更新期限切れだ。

 条約の原本がどこにあるか誰にも分からず、期限内に更新手続きができなかった。

 結果、国境の関税が白紙に戻り、商人たちが大混乱に陥った。


 次に、財務帳簿の照合ができなくなった。

 わたくしが毎月行っていた帳簿の突合がなくなり、不正経理がまかり通るようになった。

 二ヶ月で国庫から消えた金額は、小さな領地がひとつ買えるほどだという。


 そして極めつけは——


「三国間同盟の更新交渉で、過去の協定内容を参照できず、相手国に足元を見られました。結果、不利な条件での再締結を余儀なくされ……外務卿が更迭されたのです」


 外務卿——あの方は、わたくしの仕事を評価してくださった数少ない人だった。

 胸が痛んだ。


「それだけではありません。殿下の新しい婚約者であるリゼット嬢が、書庫管理を引き受けると名乗り出たのですが……」


 ベルトラン老は苦い顔をした。


「一日で音を上げました。『こんな地味な仕事、私には無理です。私の炎華は書庫で使えませんもの』と」


 あら。

 パーティーで花を咲かせる魔法では、書庫は守れない。

 やはり、そうでしょうね。

 ただ、少しだけ——胸の奥が軋んだ。


 あの書庫は、わたくしの五年間そのものだった。

 一枚一枚、丁寧に記録し、分類し、守ってきた。

 それが今、崩れていく。


「……セレスティーヌ嬢。殿下もご後悔なさっています。どうか——」

「お断りいたします」


 声は、自分でも驚くほど静かだった。


「わたくしはもう、王宮の人間ではございません。引き継ぎは規定通りに完了しております。それ以上の責任は、わたくしにはございません」

「しかし……!」

「ベルトラン様」


 わたくしは老人の手を取った。


「あの引き継ぎ書類の第一巻に、書庫運用の基本指針を書いてあります。まずはそちらをお読みください。記録魔法がなくても、時間をかければ運用できるように設計してあります」

「……そこまで考えてくれていたのか」

「当然です。引き継ぎとは、後任者のためにあるものですから」


 ベルトラン老は、老いた目に涙を浮かべて頭を下げた。


「……すまなかった。嬢の仕事を、もっと評価すべきだった」

「いいえ。ベルトラン様はいつも、ありがとうと言ってくださいました。それだけで十分でした」


 ベルトラン老を見送ったあと、わたくしはしばらく城門に立っていた。

 夕焼けが、遠い王都の方角を染めている。


「……戻らないのか」


 背後から、低い声がした。

 振り向くと、レオンハルト閣下が壁にもたれて立っていた。

 どこか緊張した表情に見えた。


「戻りません」

「……そうか」


 閣下の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「あの老人が言っていた、引き継ぎ書類の件。聞いていた」

「盗み聞きですか」

「書庫の隣の部屋で執務をしていただけだ。……壁が薄い」


 言い訳が下手だ。

 わたくしは少しだけ笑ってしまった。


「セレスティーヌ」


 閣下がわたくしの名を呼んだ。

 いつもの「嬢」ではなく、名前で。


「君の記録魔法は、地味などではない」


 夕焼けの光の中で、閣下の紺色の瞳がまっすぐにわたくしを見ていた。


「三百年の記録を読み解き、分類し、この領地の歴史に命を吹き込む。——それは、この世で最も美しい魔法だ」


 胸の奥で、何かが音を立てた。


 五年間。

 ずっと聞きたかった言葉だ。

 わたくしの魔法を。わたくしの仕事を。美しいと言ってくれる人。


「……閣下」

「レオンハルトでいい」

「……レオンハルト様」

「様もいらない」


 わがままな人だ。

 でも、目を逸らさない。

 わたくしも、逸らせなかった。


「——ありがとう、ございます」


 声が震えた。

 泣かないと決めていたのに。

 婚約破棄のときも、王宮を去るときも、一滴も流さなかったのに。


 たった一言の「美しい」で、涙が溢れた。


 レオンハルトは何も言わず、ただ自分の外套をわたくしの肩にかけた。

 大きくて、温かくて、少しだけ古書の匂いがした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 さらに一ヶ月後。


 その日、わたくしは書庫で百五十年前の領主日記を解読していた。

 初代公爵が辺境の森で発見した古代遺跡の記録——これは学術的に非常に貴重な発見だ。


「セレスティーヌ嬢!!」


 執事のロイドが、今度は前回以上の勢いで飛び込んできた。


「第二王子オーギュスト殿下が、直々にいらっしゃいました!!」


 わたくしの手が、一瞬だけ止まった。

 それから、静かに羊皮紙を置いた。


「……お通ししてください」


 謁見の間に現れたオーギュスト殿下は、三ヶ月前とは別人のようだった。

 頬がこけ、目の下に隈ができている。かつての余裕に満ちた笑顔はどこにもない。


「セレスティーヌ。迎えに来た」

「迎え、ですか」

「婚約破棄は撤回する。戻ってきてくれ。君がいないと、王宮が——」


 ああ。

 やはり、そういうことですか。


「殿下。一つお聞きしてもよろしいですか」

「何だ」

「わたくしに戻ってきてほしいのは、わたくし自身のためですか。それとも、わたくしの記録魔法のためですか」


 殿下は口ごもった。

 それが答えだった。


「殿下。わたくしの魔法を便利な道具だとお思いなら、それは間違いです。わたくしの魔法はわたくし自身です。わたくしを人として見てくださらない方のために、使うつもりはございません」


 声は穏やかだった。怒りはもう、ない。


「お引き取りください」


「待て! セレスティーヌ、頼む。もう一度——」


「殿下」


 凛とした声が、わたくしの背後から響いた。

 レオンハルトだ。

 いつの間にか、謁見の間の入り口に立っていた。


「彼女は断ると言った。それ以上は、辺境公爵の客人への非礼だ」

「客人だと? 彼女はただの——」

「ただの?」


 レオンハルトの声が、一段低くなった。

 空気が、変わった。


「セレスティーヌは、この領地の三百年の歴史を蘇らせてくれた。初代領主の功績を記録から証明し、我が領地の正統性を揺るぎないものにしてくれた。——それを『ただの』と呼ぶのか」


 オーギュスト殿下の顔が強張った。


「それに殿下。一つお伝えしておく」


 レオンハルトは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「セレスティーヌが整理した古文書の中に、百二十年前の王家とヴァイスガルト家の盟約書が見つかった。これによると、辺境防衛の功績に対し、王家はヴァイスガルト家に永代の自治権を保障している」

「な——」

「つまり、この領地において王家の命令権は制限される。客人を連れ去ることも含めて」


 殿下の顔が、見る見るうちに青ざめていった。


「セレスティーヌの記録魔法がなければ、この盟約書は永遠に埋もれたままだった。彼女の魔法が地味だと? ——彼女の魔法は、この国の歴史そのものだ」


 レオンハルトは殿下に背を向けた。


「執事。殿下をお見送りしろ。丁重にな」

「かしこまりました」


 オーギュスト殿下は、何か言いたそうに口を開きかけた。

 けれど、何も言えないまま、肩を落として去っていった。


 ——もう、遅いのです。殿下。


 わたくしは心の中でだけ、そう呟いた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「……すまない」


 オーギュスト殿下が去った後、レオンハルトは気まずそうに言った。


「出すぎた真似をした」

「いいえ。助かりました」

「あの盟約書の件は本当だ。君が発見してくれた」

「ええ、存じております。わたくしが分類しましたので」


 レオンハルトが黙った。

 何か言いたそうに口を開きかけ、閉じ、また開く。


「……一つ、打ち明けなければならないことがある」

「何でしょう」

「あの求人。古文書整理係の募集」


 わたくしは首を傾げた。


「あれは、君が王宮を辞めた後に出したものだ」


 ——え?


「去年、辺境防衛の報告で王都を訪れた際、外務卿と話す機会があった。あの方が言ったのだ。『書庫にとんでもない逸材がいる。記録魔法で、二百年分の文書を一人で整理した』と」


 わたくしは息を呑んだ。

 外務卿が、そんなことを。


「正直、気になっていた。うちの書庫を何とかできる人間がいるなら、ぜひ会いたいと。——だが王太子の婚約者を引き抜くわけにはいかなかった」


 レオンハルトの視線が、わずかに逸れた。


「婚約破棄の噂が辺境まで届いたとき、すぐに求人を出した。識字能力と根気のある者、身分不問。……君が来てくれることを、賭けていた」


 胸の奥が、じわりと熱くなった。

 あの求人は、偶然ではなかったのだ。


「……それは、ずいぶんと回りくどい求人ですね」

「……自覚はある」


 レオンハルトが黙った。

 それから、観念したように口を開いた。


「セレスティーヌ」

「はい」

「一つ、頼みがある」

「何でしょう」

「……古文書整理係を、辞めてほしい」


 わたくしの心臓が跳ねた。


「——え?」

「代わりに、この領地の正式な書記官になってくれ。待遇は大幅に改善する。住居も城内に用意する。書庫への出入りは自由だ。給金も——」

「あの、レオンハルト」


 わたくしは、彼の早口を遮った。

 珍しい。いつもあんなに寡黙な人が、こんなに言葉を重ねている。


「それは——ただの昇進のお話ですか?」


 レオンハルトが固まった。


「……昇進だけでは、ない」


 彼の声は、かすれていた。


「君に、ここにいてほしい。ずっと。俺の、隣に」


 ああ——やっぱり、この人は不器用だ。

 告白なのか昇進なのか分からない言い方をして、耳まで真っ赤にして。


「レオンハルト」

「……何だ」

「わたくしは記録魔法の持ち主です。今の言葉、一字一句記録しましたからね。撤回はできませんよ」

「撤回する気はない」


 即答だった。

 まっすぐな紺色の瞳が、わたくしを見ている。

 一切の迷いがない。


「……では、お受けいたします。書記官の件も——それ以外も」


 レオンハルトの表情が、ゆっくりとほどけた。

 初めて見る、本当の笑顔だった。


「一つ条件があります」

「何でも言え」

「この書庫の整理は、最後までやらせてください。三百年分、全部」

「当然だ。——ただし」

「ただし?」

「一人でやるな。俺も手伝う」


 わたくしは笑った。

 涙が混じっていたかもしれないけれど、それも記録魔法が覚えていてくれるだろう。


 かつてわたくしは、暗い書庫の中で一人きりで働いていた。

 誰にも見られず、誰にも評価されず、ただ黙々と記録を続けていた。


 今は違う。

 隣に、一緒に本を読んでくれる人がいる。

 わたくしの魔法を「美しい」と言ってくれる人がいる。


 窓から差し込む午後の光の中で、レオンハルトがわたくしの隣で古文書を読んでいる。

 時々、分からない箇所を聞いてくる。わたくしが説明すると、真剣に頷く。

 その横顔を見ていると、不思議と胸が温かくなる。


「……何を見ている」

「あなたを記録しています」

「記録魔法で?」

「いいえ。ただの——目で」


 レオンハルトが本から顔を上げた。

 少し驚いたような、それからひどく優しい顔をした。


「……そうか」


 不器用な人は、短い言葉の中に全部を込める。

 わたくしの記録魔法は、その声の温度まで記録してしまう。


 ——わたくし、セレスティーヌ・フォルセットは、ここに記録します。


 これは、地味な記録係が見つけた、静かで温かな幸福の記録。

 どうか末永く、この記録が続きますように。

読んでいただき、ありがとうございます。


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