第1章3 アル=ヒクマ郊外にて
有り余る紅茶とタバコに埋め尽くされた涼しいパブで頭を抱える両人のいるアル=ヒクマから少し離れた郊外には、主に獣人からなるスラムが形成されていた。
帝国に占領される前からいるもの。その後からきたもの。どこかから逃げてきたもの。
色々な種族がこの穴のようなスラムでただ生きていた。
足の踏み場もないほどに捨てられた何かの残骸や何の動物かもわからない骨が道いっぱいに落ちている。
このスラムで生きてはや60年。人間換算で言えば2、30歳ほどになるハイエナ族の獣人、イリヤ・スカルファングは麻痺してしまった鼻をすんと鳴らしながら狭いこの道を歩いていた。
藍色の傷んだ髪を流し、灰色のシュマグをバンダナのように巻いて耳を隠している。ボロボロの傷だらけのズボンに薄いTシャツ、擦り切れた緑色のロングコートで尻尾を隠していた。
左手で紙袋を持ち、辺りを警戒するように周囲に目線を配っている。
太陽が丁度真上に来たところであった。地獄のようなスラムにも平等に春の心地よい風が吹いている。
しばらく殺風景なスラムを歩いたイリヤは薄汚れたレンガの建物の前で足をとめた。
ドアを3回したのちに2回、そして素早く5回叩くとドアが勢いよく開かれ、右目に傷を負った人間が顔を出した。
「はい、これ」
イリヤは紙袋を丁寧に渡すと、男は乱暴に銅貨を何枚か投げ渡し、ドアを閉めようとする。
「ちょっと待ちなよあんた。約束が違うじゃない。こんなんじゃ黒パンぐらいの分にしかなりやしないじゃないか」
イリヤは足をドアに挟むと詰め寄り、長い鼻先をぐいと突きつけた。
「じゃあ憲兵にでも言えば?」
そういうと男は無理やり閉める。
「ちょっと待ちなよあんた___ッ!痛っい!」
イリヤは慌てて固く閉じたドアをどんどんと何度も叩くが、まるで元から誰もいないかのように静まり返ったままだった。
イリヤはペッとドアに唾を吐くと、来た道をトボトボと歩いていった。
日が傾く頃、イリヤは黒パンをいくつか抱え、廃墟の聖堂に入っていった。
風化したレンガで作られたドーム状の聖堂はボロボロにはなっているものの、礼拝室のベンチや祭壇だけは綺麗に整えられていた。
祭壇の奥には何かしらの壁画があった跡が見受けられるが、焼け爛れていて全容を見ることは叶わない。
子供たちの小さな讃美歌が聞こえる。本来であれば禁じられたはずの、今では全て焼かれた獣人語の歌である。
「イリヤ様だ!」「イリヤ様!今日はどうだったーー!?」
4、5人の灰色の耳の子供達は礼拝室に入ってきたイリヤを見ると、一目散に駆けてきた。
「コラっまずは帰ってきたんだからおかえりでしょう?そんな無礼なことをするんだったらあたいが獣神様に言いつけてやるんだからね」
そういうとイリヤは子供たちの頭を優しく撫でた。
普段は鋭い光を放つ眼も子供達を見るときは優しそうな目に変わっていた。
うんおかえりーと口々に言う子供達の数を数えると、イリヤは不審そうに尋ねた。
「あら?アマルはどこにいったの?」
子供達はお互いの顔を見合わせると、さあ?と口々に言い合った。
イリヤは呆れたようにため息をつくと、聖堂の横にある共同の寝室へと入っていった。
薄暗い、殺風景な寝室では齢6歳にも満たない幼い少女が寝転びながら、ふわふわの耳をピクピクさせ、一心に分厚い革張りの本を読んでいた。
「アマル、やっぱりここにいたのね、来なかったら心配するじゃない」
「あっイリヤさま」
イリヤはベッドに腰掛けるとアマルの頭を優しく撫でた。
「ねえ、アマルさま。カミサマってほんとうにいるの?」
アマルは読んでいた聖書をイリヤに見せると、唐突に無邪気に尋ねた。
「ええ、きっと獣神様はアマルのことを見守ってらっしゃるわ」
「でもね、でもねイリヤさま。ほんとうにいるんだったら、カミサマはイジワルなんだね」
「あら、それはどうして?」
「だってイリヤさま、いつもどこかにいってつかれてるじゃない。あたしがカミサマだったらゼッタイそんなことはさせないのになぁ!」
無邪気にそう言うと、アマルはベッドにぽんと横になり、足をバタバタさせた。
イリヤはしばらく何も言えなかった。
無邪気なアマルの無意識の残酷な善意が心に響いたのか、それとも子供たちに十分なことをやれていない自分を恥じたのか。もしくはその全てかもしれない。
外から子供たちのワイワイと騒ぐ声がだんだんと大きくなってくる。
「ッて、アマル!寝てる場合じゃないでしょ、ご飯よご飯。おまんま食べるの」
そう言うと今にも眠ろうとするアマルを抱き抱え、礼拝室の方に歩いていった。
翌日の朝である。
イリヤは子供達に水浴びをさせた後、昨日と同じ服装でスラムの酒場に足を踏み入れた。
痩せこけた男の獣人が4、5人ほどテーブル席に屯し、暇そうにあくびをしていた。
「おっ片耳のイリヤじゃないか。こんな朝っぱらから何しにきたんだ」
奥のテーブル席の3人組がイリヤを見つけるとニヤニヤと笑う。
イリヤはそんなものには目もくれずに、酒場の出入り口のすぐそばにある求人票を目を皿のようにして眺めた。
「ねぇ、店主。求人はこれだけ?もっと他はないの」
そう言うとカウンターの奥でタバコを吸いながら新聞を読んでいる店主に話しかける。
「生憎、そこで全部だよイリヤ。お前が水商売でもするってんなら考えもんだけどね、中々美形なんだし、その辺りも視野に入れたら___」
「まさか、どこまで落ちぶれてもそれだけはしないわ」
遮るように返す。
「じゃあないな。諦めな、スカルファングのご令嬢」
そう言うと店主はまた新聞に目を落とした。
新しい憲兵が久しぶりにやって来たことなど記事になって載っていた。
自分が食べさえしなかったら昨日買った黒パンの分で子供達は2、3日は飢えを凌げるだろう。その間に仕事を探そう。
そう考えたイリヤはギロりと奥のテーブル席を睨むと、怒ったようにして来た道をを後にした。
イリヤが聖堂に帰ると、子供達は丁度どこからか拾ってきたボールでサッカーをしていた。
どこかで習うわけでもないのにみんな中々いい腕なもので100回、200回とリフティングを繰り返している。
しばらくその光景を見つめていたイリヤは突如聞こえてきた足音に耳をそば立てさせた。
「ほら、みんな、約束のところに行くんだよ、早く!」
子供達を地下室に隠すと、イリヤは門の役割すら果たしていない朽ちた木の門の前で望まぬ来訪者を待った。
コートに忍ばせたナイフをそっと掴む。
道の角から足音が段々と大きくなって聞こえてくる。
「イリヤ!久しぶり!!」
ばさっばさと音を立てて淡いピンク色の毛並みをした鳥人族の少女が走ってくる。
何も少女と言っても若いわけではない。鳥人族は空を飛ぶために身長を犠牲にしたのだから身長が低いのは当然の話である。
「ル・サエラ?」
イリヤは不思議そうに呟くと、しばらく会っていなかった友を迎えた。
「イリヤ!どう?背が伸びたでしょう!!あんたを超える日も近いかもね!」
「ルルー、前から言ってるけど、あんた、あたいと同い年でしょ?もう身長は伸びないって」
「まだわからないでしょイリヤ!あたしはもっと大きくなっていつか世界で一番強い鳥人になるんだから!」
ル・サエラは頭のトサカはゾワっと立てて、不満そうに抗議する。
「はいはい、わかったわかった。で?何しにきたのルルー、まさか遊びに来ただけなんて言うんじゃないでしょうね」
「まさかそんなことないよ!えーっとなんだっけ、ああそう!昨日なんだけど、のんびりお空を飛んでるとね、なんだかいい匂いかしたからついてくと紅茶とかタバコとか入った箱が何個も変なパブに入っていくのを見たんだ!」
「うん、それで?」
「イリヤこないだ言ってたでしょ?紅茶とかタバコはよく売れるーって!タバコはなんだかよくわからないけど___紅茶なら売れるんでしょ?」
イリヤは以前、今より困窮していた頃にそのような会話をル・サエラとしたことを覚えていた。
「ルルー、まさかあたいに略奪しろなんて言うつもりはないわよね?」
イリヤはルルーに厳しい目を向ける。
「それにそんないい匂いがするんだったら他の人がもう行ってるでしょ」
「それが不思議なんだけどねイリヤ」
ルルーは体に巻きつけた布をいじりながら答えた。
「友達が言ってたんだけど、最近みんな鼻がダメになっちゃって自分で何を食べているかわからないんだって、かわいそうだよね。だって美味しいものが味わえないんだもの!」
そういうとル・サエラはバサバサと翼をはためかせた。
日はもうそろそろ天上に達しそうなところであった。
「それじゃあもういくね!イリヤ、もし覚えてたらまた来る___」
「待って」
イリヤは今にも羽ばたいて行こうとするル・サエラを引き止めた。
「それどこの酒屋?」
大学の勉強があるので一週間休みます。




