空挺、狙撃特務班員
一九四二年、マラヤ戦線終盤。
その夜、彼は音もなく、熱帯の闇に身を溶かしていた。
茂みに身を伏せ、眼前に広がる港町を見下ろす。
シンガポール島。英軍の拠点であり、東洋のジブラルタルとも称された鉄壁の都市。
彼──陸軍挺進狙撃兵・神谷一佐は、九九式狙撃銃のスコープを覗き込んだ。
遠くに見えるのは教会跡の屋上。情報によれば、英国軍の通信将校が定時連絡のためにそこへ現れる。
距離、およそ八百メートル。風、南南西から一・五メートル。
湿度は高いが、視界は良好。月光が廃墟の瓦礫を淡く照らしている。
『狙撃とは、敵の息を読むことだ』
教官の言葉がよぎる。呼吸を合わせ、鼓動を沈める。
神谷はかつて、満州で選抜された狙撃手だった。極寒の雪原で、吐く息が凍るような中でも正確に標的を撃ち抜いた。
その腕が買われ、空挺部隊の実験部隊へと転属となった。彼の任務は、空挺降下によって敵後方に潜入し、戦術的要衝を沈黙させること。
今回は初の実戦降下。
しかも、上官より下された命令は──
「この一撃が、我が軍の上陸作戦を左右する」
敵通信司令の排除。任務は単純だが、失敗は許されない。
降下は昨日の深夜、マレー半島南端の密林地帯。
輸送機の音が消える前に、パラシュートが開いた。
夜陰に紛れて密林を抜け、単独でジョホール海峡を泳ぎ渡る。背に背負った防水布包みの中には、分解された九九式狙撃銃と最小限の弾薬。
今は高台のゴム園跡。
視界には高層の廃墟が一本。そこが標的だ。
「──いた」
照準の先、影が揺れる。白人将校の姿。
無線機を肩に、部下らしき二人を従えて塔へ上がっていく。
スコープ越しに、相手の階級章が読み取れる。
通信司令、アンドリュー・C・ハリントン中佐。
帝国陸軍による上陸計画を察知し、英軍の反攻を指揮する要となる人物。
息を止める。
重力、風、呼吸──すべてが一点に集約されていく。
引き金にかけた指に、汗がにじむ。
彼の指が、絞られた。
閃光と共に、銃声がゴム林に消える。
将校の身体が崩れ落ち、部下たちが叫ぶ。
無線機が屋上から転げ落ち、夜の静寂が再び訪れる。
だがもう神谷の姿はそこにない。
銃を抱え、斜面を転げ落ちるように撤収路へ。
逃走経路はあらかじめ現地協力者の華僑から得ていた。水牛道を抜け、隠された小舟でジャングルへと戻る。
空挺狙撃──その初の実戦は、沈黙の中で遂行された。
そして数日後、帝国陸軍はシンガポールへ上陸。
敵の無線指揮系統は混乱し、反撃の体勢は崩壊したままだった。
神谷の名が報道に載ることはなかった。
だが彼の一弾は、歴史の裏側で確かに戦況を動かした。
──音なき勝利。それが、彼の仕事だった。