第七章 ~ 鬼市への潜入、そして覚醒する過去の刃 ~
屋敷の奥、静まり返った座敷に重い空気が満ちていた。宗真の言葉は、まるで石のように三人の間に落ちた。
「特にお前にとってはな、藤原シン」
トウマとナナの視線が、突き刺さるようにシンに向けられる。シンは表情を変えぬまま、ただ静かに宗真を見返していた。その瞳の奥に、誰も知らない深い闇が揺らめいている。
「どういうことだよ、宗真の旦那」トウマが声を絞り出す。「なんでシンが関係あんだよ」
宗真は大きなため息をつき、どかりと畳に腰を下ろした。
「お前たちが噂に聞いた『品』…それは、一本の鞘だ。『鬼切りの鞘』と呼ばれる、いわくつきの代物だ」
「鞘が……なんでそんなに大事なんだ?」ナナが眉をひそめる。
宗真は答えず、代わりにシンに視線を送った。「シン、お前の口から話せ。こいつらはお前の背中を預ける仲間だ。知っておく権利がある」
シンはしばらく黙ったまま、床の一点を睨んでいた。やがて、重い口を開いた。
「……俺の刀は、呪われている」
その言葉に、トウマとナナは息をのんだ。
「俺の一族、藤原家は代々、妖刀の類を管理し、封じる役目を担ってきた。この刀……『黒曜』もその一本だ。しかし、こいつに宿るモノは、ただの妖怪じゃねぇ。もっと禍々しい……人を喰らい、血を啜ることで力を増す、悪鬼そのものだ」
シンの声は淡々としていたが、その指先がかすかに震えている。
「その力を唯一抑え込めるのが、対となる『鬼切りの鞘』だ。だが……十年前に、鞘は奪われた。一族もろとも……な」
シンの脳裏に、あの夜の光景が焼き付いて蘇る。炎、悲鳴、そして血の匂い。優しかった父が、目の前で胸を貫かれ、崩れ落ちる姿。そして、父の亡骸のそばで、鞘を手に取り、自分を嘲笑うように見下ろしていた、あの男の顔。
「鞘がなければ、この刀に宿る鬼は、いずれ持ち主の魂を喰らい尽くす。俺は……鬼に喰われる前に、鞘を取り戻さなければならない。そして、あの男を……この手で斬る」
静かな殺意が、部屋の温度を数度下げた。
トウマはゴクリと唾を飲み込み、シンの肩を掴んだ。
「……なんだよ、そんな大事なこと、なんで黙ってたんだ!」
「……関係ないことだ」
「関係なくねぇだろ!俺たちはチームじゃねぇか!だったら、お前の問題は俺たちの問題だ!絶対取り返してやるぞ、その鞘!」
トウマの真っ直ぐな言葉に、シンの目がわずかに揺れる。
ナナも腕を組み、ふいっと顔をそむけた。
「……勝手に死んで、こっちの足引っ張られても迷惑だし。手伝ってやらなくもないわよ」
そのやり取りを見て、宗真は満足そうに頷いた。
「話が早くて助かる。鬼市は、今度の新月の夜、霧深いことで知られる古都の外れの『亡骸の森』に現れる。だが、祓い屋と分かれば即座に殺されるぞ。正体を隠し、妖怪のふりをして潜入する必要がある」
宗真は立ち上がり、奥の棚から古びた桐の箱を取り出した。
「これを持っていけ。鬼市への通行手形代わりになる『鬼灯の護符』だ。それと、変装用の道具だ。せいぜい、まともな化け物に見えるようにな」
三人は、それぞれの覚悟を胸に、運命の夜へと備えるのだった。
***
新月の夜。亡骸の森は、その名の通り、生きた人間の気配が一切しない不気味な静寂に包まれていた。月明かりすら届かない森の奥深くで、三人は息を潜めていた。
「うへぇ……マジで何も見えねぇ……」
トウマは、宗真に渡された安物の天狗の面をつけ、蓑を羽織っていた。その姿は、威厳ある妖怪というより、祭りで道に迷った子供のようだ。
「あんたのその格好、逆に目立つわよ」
ナナは顔半分を布で隠し、薬草売りのような装束をまとっている。腰には怪しげな薬瓶がいくつもぶら下がっていた。
シンはただ、深い色の頭巾を被り、顔を影に落としているだけだった。しかし、その全身から放たれる殺気は、そこらの妖怪よりもよほど禍々しく、変装としては完璧だったかもしれない。
その時、森の空気が変わった。
ねっとりとした妖気が立ち込め、空間がぐにゃりと歪む。目の前の何もない空間に、ぼうっと朱色の鳥居が浮かび上がった。鳥居の向こう側は、この世のものとは思えない奇妙な光と喧騒に満ちていた。
「……来たな」シンが呟く。
鳥居の前には、牛の頭を持つ巨体の門番、牛鬼が立ちはだかった。
「何者だ。ここは生者の来る場所ではない」
ナナが冷静に一歩前に出て、懐から鬼灯の護符を見せる。
「野暮なことを聞くんじゃないよ。商売しに来ただけさ」
牛鬼は護符を一瞥すると、興味を失ったように道を開けた。
「……行け」
鳥居をくぐった瞬間、世界は完全に反転した。
目の前に広がっていたのは、まさに百鬼夜行の光景だった。
空には提灯お化けが浮かび、道を歩けば河童や一つ目小僧が肩をぶつけてくる。露店では、呪われた武具、瓶詰めにされた人間の悲鳴、持ち主の記憶が宿る古い櫛などが、当たり前のように売り買いされていた。甘く危険な香りが鼻をつき、陽気な音楽と苦悶の叫びが混じり合った奇妙なざわめきが耳を打つ。
「す……すげぇ……!」
トウマは目を丸くして、完全に気圧されていた。
「浮かれるな、トウマ。ここは敵地のど真ん中だ」シンが低い声で警告する。刀の柄を握る彼の手には、汗が滲んでいた。鞘を求める刀の鬼が、この濃密な妖気の中で、かつてないほどに暴れようとしているのだ。
「分かってるって。……よし、情報収集だ。手分けして探そう。一刻したら、あのデカい骸骨の酒場に戻る!」
ナナが的確に指示を出す。三人は頷き、人(?)混みの中へと散っていった。
トウマは、持ち前の単純さを武器に、わざとぶつかっては謝る作戦で情報を集めようとした。
「おっと、すいやせん!」
ぶつかった相手は、体が粘液で覆われたのっぺらぼうだった。
「……気をつけろ、小僧。お前の魂、なかなかうまそうだ」
「ひぇっ!ご、ごめんなさい!」
早々に絡まれながらも、彼はいくつかの情報を耳にした。高価な品は、市場の中央で行われる『闇オークション』に出るらしい。
一方、ナナは知性で勝負した。古びた巻物を売る店主に、持参した珍しい薬草を見せながら取引を持ちかける。
「ねえ、おじさん。面白いもの、見せてあげようか?その代わり、ちょっと教えてほしいんだけど……妖刀の鞘を探してるって客、見なかった?」
狐の顔をした店主は、目を細めてナナを見つめた。
「ほう……お嬢ちゃん、なかなか良いものを持ってるねぇ。だが、その手の話は高くつくよ。特に、今夜の『目玉商品』に関わることならね」
やはり、オークションだ。ナナは確信する。
その頃、シンは一人、市場の奥深くを歩いていた。
鬼が、刀の中で叫んでいる。もっと血を、もっと魂を、と。そして、すぐ近くに『半身』がある、と。
シンは額に浮かぶ汗を拭い、必死に精神を保っていた。
(落ち着け……今暴走すれば、全てが終わりだ……)
その時、彼の視界の端に、見覚えのある紋様をつけた羽織が映った。
ハッとして振り返る。そこに立っていたのは、痩せた老人の妖怪だった。だが、その羽織は……かつて、藤原家に仕えていた家臣のものだった。
「……まさか」
シンが近づこうとした瞬間、背後から冷たい声がかけられた。
「探したぞ、藤原の生き残り」
心臓が凍りつく。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは、蛇のように冷たい目をした男だった。口元には、残酷な笑みが浮かんでいる。十年経っても、一日たりとも忘れたことのない顔。
「……影山……!」
シンの口から、憎悪に満ちた名前が漏れる。
あの夜、一族を皆殺しにし、鬼切りの鞘を奪った張本人。影山が、そこにいた。
「ほう、俺の名を覚えていたか。光栄だな。あの夜、見逃してやった甲斐があったというものだ」
影山は楽しそうに肩をすくめる。
「お前も、あの鞘を追って来たクチか?残念だったな。あれは今から、俺がもう一度買い戻すところだ。お前の一族の血で汚れた業物を、清めてやるのには骨が折れたからな」
カチン、とシンの頭の中で何かが切れる音がした。
「……貴様ぁぁぁっ!」
シンは理性を失い、刀に手をかけた。鞘から抜き放たれた黒曜の刃が、黒い妖気を激しく立ち上らせる。
「シン、やめろ!」
合流しようと駆けつけてきたトウマとナナの声も、もう彼には届かない。
「ハッ、その目だ!それでこそ、藤原の鬼だ!」
影山は喜びの声をあげ、自身の腰に差した刀を抜いた。二つの刃がぶつかり合う予感が、鬼市の空気を震わせた。
周囲の妖怪たちが、面白そうな見世物が始まったとばかりに、距離を置いて円を作り始める。
「まずい、囲まれた!」ナナが舌打ちする。
「黙れぇぇぇっ!」
シンは獣のように咆哮し、影山に斬りかかった。速く、重い一撃。しかし、影山はそれを紙一重で、しかも笑みを浮かべたまま受け流した。
キィン!と甲高い金属音が響く。
「遅い。弱い。十年経っても、お前はあの夜のガキのままだ」
影山はシンの刀を弾き、がら空きになった胴体に蹴りを入れた。
「ぐっ……!」
シンは地面を転がり、咳き込む。
「さて、座興はここまでだ。オークションが始まる」
影山はシンに背を向け、まるで興味を失ったかのように歩き出した。
「待て……!」
シンが立ち上がろうとしたその時、市場の警備役である屈強な鬼たちが、武器を構えて三人を包囲した。
「騒ぎを起こした罪は重いぞ、小僧ども」
「くそっ、どうすんのよこれ!」ナナが叫ぶ。
トウマは半泣きになりながらも、二人の前に立ちはだかった。
「シンの仇は……俺たちが討つんだ!こんなとこで死んでたまるか!」
トウマは懐から護符を数枚取り出し、デタラメに投げつけた。
「くらえ、未来の世界一の祓い屋スペシャルだ!」
護符は明後日の方向に飛んでいき、近くの露店の怪しげな壺に命中。壺はけたたましい音を立てて爆発し、中から色とりどりの煙が噴き出した。
市場は一瞬にして大混乱に陥る。
「……バカだけど、たまには役に立つじゃない!」
ナナはその隙を見逃さず、煙幕の護符を地面に叩きつけた。さらに濃い煙が視界を覆う。
「シン、トウマ、逃げるわよ!」
ナナはシンの腕を掴み、トウマがその後を追う。
三人は混乱の中を駆け抜け、必死で鳥居を目指した。背後からは、鬼たちの怒号と、影山の嘲笑が聞こえてくるようだった。
夜明けの光が差し込む頃、三人はようやく亡骸の森を抜け出し、人間の世界へと転がり出た。
服はボロボロで、体は傷だらけ。そして、手には何も残っていなかった。鬼切りの鞘は、手に入らなかった。
シンは地面に膝をつき、拳で土を殴りつけた。
「……くそっ……くそぉっ!」
己の無力さへの怒りと、再び宿敵を前に何もできなかった絶望が、彼を打ちのめしていた。黒曜の刀が、主の絶望に呼応するかのように、不吉な脈動を繰り返している。
トウマは、そんなシンの隣に黙って座り、その肩に力なく手を置いた。
「……今回は、ダメだったけどよ」
トウマの声は、震えていた。
「でも、あいつの顔は見た。目的もはっきりした。だったら、後は強くなるだけだ。俺が、俺たちが、絶対にお前を一人で戦わせねぇ。約束だ」
ナナも、息を切らしながら隣に腰を下ろす。
「……そうよ。泣いてたって鞘は戻ってこない。それに、あんたのせいで死にかけたんだから、借りは返してもらうわよ。……だから、勝手に折れるんじゃないわよ、バカ」
シンの顔が、ゆっくりと上がる。
その目には、絶望だけではない、新たな決意の光が灯っていた。
夜明けの光が、傷だらけの三人を照らしていた。任務は失敗に終わった。だが、彼らは初めて、本当の意味で一つのチームになったのかもしれない。復讐の刃は、今、静かに研がれ始めた。