第二章 ~ 迷子と始まりの街 ~
黄泉村を出てから、すでにどれくらいの時間が経ったのか、トウマ自身にもわからなかった。太陽は高く昇り、額から流れる汗が目にしみる。
「はぁ……クソ、どこだよ町って……」
独り言を漏らしながら歩き続け、何度も同じ景色を見ている気がした。森も山も、もう見慣れている。村で毎日見ていたのと、何も変わらない。風の匂いも、鳥の鳴き声も、幼い頃からずっと耳にしてきた。だが、それでも道は分からず、空腹も限界に近づいていた。
「腹減ったぁ……もう歩けねぇ……」
足元の石につまずき、派手に転ぶ。
「いってぇ……」
ふと顔を上げると、遠くの先にぼんやりと建物の影が見えた。
「あれ……町か!?」
目をこすりながら確かめる。煙突から上がる煙、人の声、行き交う馬車。
「マジで町だーっ!」
叫びながら駆け出した。石畳の道を踏みしめ、埃の舞う通りを突き進む。誰かにぶつかりながらも気にしない。空腹と疲労で意識が朦朧とする中、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。
「ん……なんだ、この匂い……」
焼いた魚の匂い、甘辛いタレの香り、炊きたてのご飯の湯気。ふらふらと匂いの方向へ歩くと、小さな食堂の前にたどり着く。暖簾の奥からは「いらっしゃい!」の威勢のいい声と、焼き網の音が聞こえた。
「これは……もう、入るしかねぇ!」
気がつけば暖簾をくぐり、席に腰を下ろしていた。
「兄ちゃん、注文は?」
「あ、あの……全部ください!」
「はぁ!?」
店主が目を丸くするも、すぐに豪快に笑った。
「若いな!気に入った!ほら、ガンガン食え!」
大皿に盛られた焼き魚、煮物、山盛りのご飯。飢えた獣のように箸を握り、次々と平らげる。
「うめぇぇぇぇ!」
口の中いっぱいに旨味が広がり、胃が満たされていく。
「はぁー、生き返る……」
しかし、ふと気づく。
「……金、ねぇじゃん」
慌てて懐を探るも、布切れと護符しか出てこない。
「やっべ……」
すぐさま席を立ち、そっと店を出ようとする。が、
「おい、兄ちゃん。代金は?」
背後から低い声。
「……あ、あとで払います!」
ダッシュ。驚く店主。
「待ちやがれぇぇぇぇ!!」
怒声が響き、包丁片手に追いかけてくる。
「ひえぇぇぇ!勘弁してくれぇぇぇぇ!」
町の通りを駆け抜け、人混みをすり抜け、ついには城下町の外れまで逃げた。息を切らし、振り返ると、まだ遠くから怒鳴り声。
「クソッ……もうムリ……」
そのまま茂みへと飛び込み、森の奥へ。気がつけばまた見覚えのない森の中。
「なんでだよおおおお!せっかく町見つけたのに!」
悔しさと疲労で、倒れこむ。
「あー……もう、腹いっぱいだからいいや……」
ぼんやりと木々を眺めていると、どこからか微かな音が聞こえた。カサ…カサ…と乾いた音。
「……ん?」
周囲を見回すも、誰もいない。風の音かと気のせいにしようとした瞬間、地面が揺れた。
「えっ……」
ドスン。ドスン。と、地響き。
「ま、まさか……」
恐る恐る頭上を見上げると、巨大な影が自分を覆っていた。
目の前に現れたのは、三つ目の巨体を持つ異形の怪物。
鋭い牙、太い腕、土色の肌。涎を垂らしながらこちらを睨みつける。
「ひいいいいぃぃぃ!!」
トウマは無意識に叫び声を上げ、竹刀を探そうとしたが、そうだ。
もう、あれは川に流されたのだった。
「武器ねぇぇぇぇ!」
ただ茫然と見上げるしかない。
「ヤベぇって!これヤベぇって!!」
怪物が巨腕を振り下ろそうとしたその時――
ヒュッと、どこからか紙切れが舞い、怪物の額にぴたりと張り付いた。
「え?」
次の瞬間、光る鎖が音を立てて現れ、怪物の身体を絡め取る。
「ぐぉぉぉぉぉ……」
苦しげにうめき声をあげ、やがて煙のように消えた。
ポカンと口を開けたままのトウマ。その視界の端から、誰かが現れた。
白い狐面を被った女性。長い黒髪、藍色の装束。静かに歩み寄り、何も言わずに――
「ゴンッ!」
思いっきりトウマの頭を叩いた。
「いてっ!な、なにすんだよ!」
「……あんた、見えてるんでしょ」
狐面の奥から冷たい声。
「な、何が?」
「今の。妖怪。霊。」
「そ、そりゃ見えたけど……」
「なら、なんで突っ立ってんの、バカ」
強い口調に、トウマは黙り込んだ。
「目の前で襲われて、声出してるだけなんて、ただのカカシだよ」
ズシン、と胸に響く。
そう言うと、彼女は踵を返し、森の奥へ歩き出した。
「ちょ、待てよ!名前は!?」
「関係ない」
冷たい返事。トウマは慌てて後を追いかけた。
「ま、待ってくれってばぁ!」
トウマは必死にその後ろ姿を追いかけた。
だが、狐面の女は振り返ることもなく、静かに森の奥へ進んでいく。
「おい!ちょっとくらい話しようぜ!飯でも奢るし!」
「いらない」
「冷てぇなおい!」
トウマは息を切らしながら、ようやく彼女の横に追いつく。
狐面越しにちらりとこちらを見ただけで、何も言わず歩き続ける女。
「な、なぁ……お前、さっきの妖怪、どうやって……」
「別に。札投げただけ」
「いやいや、普通そんなもんで倒せねーだろ!」
「見えてるなら、わかるでしょ」
「ま、まぁな……」
妙に静かな空気が流れる。
トウマは何か話さなきゃと焦る。
「そ、そうだ!名前!まだ聞いてねーじゃん!」
「関係ない」
「いやいや、旅の途中で出会った縁だろ?こういうのはさ、『名乗らせてもらうぜ!』みたいな展開って相場が――」
「黙って」
「うっ……」
一蹴された。
「お前は祓い屋なんだろ?」
「お、おう!未来の世界一祓い屋だぜ!」
「なら、もっとマシな覚悟決めな」
そう言い、狐面の女は歩みを止め、振り返った。
「さっきのは、ただの下っ端。これから先、もっとエグいのが出る」
「う……」
「逃げるなら今のうち」
トウマは拳を握りしめた。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……逃げねぇよ。俺はやるって決めたんだ」
その言葉に、女はしばらく沈黙し、やがて微かに口元を緩めた。
「……そう」
それきり、また静かに歩き出す。
「なぁ……お前、どこ行くんだ?」
「街道沿いの町」
「マジか!俺もちょうど町探してたんだ!」
「……はぁ」
狐面の女は肩を落とした。
「一緒に行っていいか?」
「勝手にすれば」
「よっしゃー!」
ガッツポーズするトウマ。
「じゃあさ、名前だけ教えてくれよ。せめて、呼び名くらい」
狐面の女はしばらく考え、
「レンゲ」
とだけ名乗った。
「レンゲか。おう、よろしくな!」
その後、二人は森を抜け、薄明るくなった山道を並んで歩き始めた。
途中で野良犬に追われ、転んだり、蛇に驚いたりとドタバタしつつ、どうにか夜が明ける頃、遠くに町の灯りが見えてきた。
「お、見えた!あれ絶対町だろ!」
「たぶんね」
レンゲは相変わらず素っ気ないが、どこか楽しんでいるようにも見えた。
「いやー、世話になったなレンゲ!」
「どうせ途中までだから」
「わかってるって!俺も町で仕事探さなきゃだし!」
空は白み、山道の先に町の門がぼんやりと浮かび上がる。
トウマは胸の中で思った。
(よし、今度こそ、まともな依頼取ってやるぜ!)
その背後で、レンゲが静かに呟いた。
「……ま、せいぜい死なないようにね」
夜が明け、新たな一日と、また一騒動が始まろうとしていた。
完。