表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノノメ  作者: 風風
修行の始まり
15/15

第十四章 ~ 魂の形、力の源流 ~

滝壺の水面は、先ほどの激闘が嘘のように静まり返っていた。

トウマは岸辺に大の字になって倒れ込み、荒い息を繰り返す。体は泥と傷でボロボロだったが、その心は不思議と澄み渡っていた。


「……ほう」


目の前に、翠魂翁すいこんおうが仁王立ちしている。その表情から怒りは消え、代わりに純粋な興味と、どこか面白がるような光が宿っていた。


「ただの五月蠅うるさい蝿ではない、か。面白い」


翠魂翁は、顎に手を当てて満足げに頷く。


「よかろう、小僧。貴様の魂、ワシが預かってやる。ただし、ワシの修行は生易しいものではないぞ。地獄の鬼ごっこは、ただの前菜にすぎん」


「……望む、ところだ」


トウマは、きしむ体を無理やり起こし、翠魂翁の前にあぐらをかいて座った。その目には、もう恐怖はない。あるのは、己の弱さと向き合い、それを乗り越えんとする強い意志だけだった。


「ふむ。まずは、己を知ることからじゃ」


翠魂翁は、トウマの目の前に人差し指を突きつけた。指先が、トウマの額に触れるか触れないかの距離で止まる。


「目を閉じ、己の内なる『気』の流れを感じてみよ。お前の魂の器は、確かに大きい。だが、それは穴だらけの桶のようなもの。霊気がだだ漏れじゃ。まずはその穴がどこにあるのか、自分で見つけ出すのじゃ」


言われた通り、トウマはゆっくりと目を閉じた。

意識を、己の内に集中させる。

最初は何も感じなかった。ただ、体の痛みと疲労、そして滝の轟音が聞こえるだけ。


「雑念を捨てい。滝の音は、もはやお前の一部。外界の音ではない。お前の魂と共鳴する、ゆりかごの歌じゃ」


翠魂翁の声に導かれるように、トウマはさらに深く、深く、意識を沈めていった。

すると、不意に感じた。

自分の体の中に、温かい何かが流れているのを。それはまるで、穏やかな川のようだった。だが、よくよく感じてみると、その川の流れは一定ではない。あちこちで渦を巻き、岸辺から水が溢れ出し、無駄にエネルギーが浪費されているのが分かった。


(これか……!俺の……気の流れ……!)


特に、感情が高ぶる胸のあたりと、思考が駆け巡る頭の部分で、気の漏れが激しい。宗真が言っていた「ザル」の意味が、今、はっきりと理解できた。


「……見えたか、小僧」

「ああ……なんとなく」

「うむ。それが第一歩じゃ。では、次じゃ」


翠魂翁は、こともなげに言った。


「その穴を、塞いでみよ」


「……へ?どうやって」

「知るか。自分で考えい」


あまりにも無責任な言葉。だが、トウマはもう文句を言わなかった。

彼は再び意識を集中させ、気の漏れている部分に、自分の意識を向けてみた。

(塞ぐ……塞ぐんだ……!)

念じる。だが、気はまるで言うことを聞かない。意識すればするほど、逆にその部分から気が激しく噴き出す始末だった。


「ぐっ……!」

「阿呆め。力ずくで流れを止めようとするな。川の流れを無理やり堰き止めれば、堤は決壊するだけじゃ。そうではない」


翠魂翁は、すっと立ち上がると、滝のほとりにある巨大な岩を指差した。


「あの岩を見てみよ。滝の水は、絶えずあの岩を打ちつけておる。だが、岩は砕けぬ。なぜじゃ?」

「……硬いから?」

「それもあろう。だが、もっと重要なことがある。岩は、水の力を『受け流して』おるのじゃ」


翠魂翁は続けた。


「気の制御も同じこと。無理に塞ぐのではない。流れを認め、受け入れ、そして、その方向を優しく変えてやるのじゃ。お前の魂の形に合わせて、気の通り道を作ってやれ。それが、『経絡けいらく』と呼ばれるものになる」


トウマは目を開け、その岩をじっと見つめた。

何百年、何千年もの間、激しい滝の流れを受け続けてきた岩。その表面は滑らかに削られているが、確かにその存在を保ち続けている。


(受け流す……)


彼はもう一度、目を閉じた。

今度は、気の漏れを敵だとは思わなかった。それは、自分の一部なのだ。

彼は、胸のあたりで荒れ狂う気の渦に、そっと意識を寄り添わせた。

(大丈夫だ……俺は、ここにいるぞ……)

まるで、怯える獣をなだめるように。

すると、不思議なことに、あれほど激しかった気の渦が、少しだけ、ほんの少しだけ、勢いを弱めた気がした。


「……ほう」


翠魂翁が、感心したように息を漏らす。


その日から、トウマの本当の修行が始まった。

それは、剣を振るうわけでも、術を学ぶわけでもない。ただひたすらに、滝の音を聞きながら座禅を組み、己の内なる気と対話し続けるという、あまりにも地味で、過酷なものだった。


来る日も来る日も、彼は座り続けた。

腹が減れば、翠魂翁がどこからか取ってくる苔や木の実を食べ、喉が渇けば滝の水を飲んだ。眠るのは、一日のうちほんのわずかな時間だけ。それ以外は、全て内観の時間に費やされた。


時には、気の流れに飲まれそうになり、意識を失いかけることもあった。

ある夜には、心の奥底に封じていた、センセーとの別れの記憶が蘇り、感情が爆発して気が暴走しかけた。その時は、翠魂翁の容赦ない頭突きによって、無理やり意識を断ち切られた。


「雑念に呑まれるな、この未熟者めが!過去は過去じゃ!お前が向き合うべきは、今、ここにある己の魂のみ!」


厳しい言葉。だが、その奥には確かな導きがあった。

トウマは、歯を食いしばり、何度も立ち上がった。

シンやナナの顔が、何度も脳裏をよぎった。今頃、あいつらはもっと強くなっているかもしれない。俺だけが、こんなところで足踏みしているわけにはいかない。


一週間が経った頃、彼は自分の気の流れを、かなりはっきりと認識できるようになっていた。

二週間が経つ頃には、荒れ狂う気の渦を、穏やかな流れへと少しずつ変えることができるようになってきた。

そして、一ヶ月が経った朝。


いつものように座禅を組んでいたトウマの体から、ふわりと、青白いオーラのようなものが立ち上った。

それは、今までのように無秩序に漏れ出す気ではなかった。彼の体の輪郭に沿って、静かに、そして力強く燃え盛る、制御された霊気の輝きだった。


目を開けたトウマは、自分の両手を見つめた。

その手に、力が満ちていくのが分かる。ただの腕力ではない。魂の力そのものが、体の隅々まで行き渡っていく感覚。


「……ようやく、己の魂の形をったか、小僧」

いつの間にか、隣に座っていた翠魂翁が、満足げに言った。


「ああ……。これが、俺の力……」


「うむ。だが、これはまだ始まりにすぎん。お前は、ようやくスタートラインに立っただけじゃ。これから、その力をどう使うか……それを学ぶのが、第二の修行じゃ」


翠魂翁は、にやりと笑った。その顔は、初めて会った時と同じ、どこか胡散臭い緑色のダルマの顔だった。

だが、今のトウマには、その存在が、誰よりも頼もしく見えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ