第十四章 ~ 魂の形、力の源流 ~
滝壺の水面は、先ほどの激闘が嘘のように静まり返っていた。
トウマは岸辺に大の字になって倒れ込み、荒い息を繰り返す。体は泥と傷でボロボロだったが、その心は不思議と澄み渡っていた。
「……ほう」
目の前に、翠魂翁が仁王立ちしている。その表情から怒りは消え、代わりに純粋な興味と、どこか面白がるような光が宿っていた。
「ただの五月蠅蝿ではない、か。面白い」
翠魂翁は、顎に手を当てて満足げに頷く。
「よかろう、小僧。貴様の魂、ワシが預かってやる。ただし、ワシの修行は生易しいものではないぞ。地獄の鬼ごっこは、ただの前菜にすぎん」
「……望む、ところだ」
トウマは、きしむ体を無理やり起こし、翠魂翁の前にあぐらをかいて座った。その目には、もう恐怖はない。あるのは、己の弱さと向き合い、それを乗り越えんとする強い意志だけだった。
「ふむ。まずは、己を知ることからじゃ」
翠魂翁は、トウマの目の前に人差し指を突きつけた。指先が、トウマの額に触れるか触れないかの距離で止まる。
「目を閉じ、己の内なる『気』の流れを感じてみよ。お前の魂の器は、確かに大きい。だが、それは穴だらけの桶のようなもの。霊気がだだ漏れじゃ。まずはその穴がどこにあるのか、自分で見つけ出すのじゃ」
言われた通り、トウマはゆっくりと目を閉じた。
意識を、己の内に集中させる。
最初は何も感じなかった。ただ、体の痛みと疲労、そして滝の轟音が聞こえるだけ。
「雑念を捨てい。滝の音は、もはやお前の一部。外界の音ではない。お前の魂と共鳴する、ゆりかごの歌じゃ」
翠魂翁の声に導かれるように、トウマはさらに深く、深く、意識を沈めていった。
すると、不意に感じた。
自分の体の中に、温かい何かが流れているのを。それはまるで、穏やかな川のようだった。だが、よくよく感じてみると、その川の流れは一定ではない。あちこちで渦を巻き、岸辺から水が溢れ出し、無駄にエネルギーが浪費されているのが分かった。
(これか……!俺の……気の流れ……!)
特に、感情が高ぶる胸のあたりと、思考が駆け巡る頭の部分で、気の漏れが激しい。宗真が言っていた「ザル」の意味が、今、はっきりと理解できた。
「……見えたか、小僧」
「ああ……なんとなく」
「うむ。それが第一歩じゃ。では、次じゃ」
翠魂翁は、こともなげに言った。
「その穴を、塞いでみよ」
「……へ?どうやって」
「知るか。自分で考えい」
あまりにも無責任な言葉。だが、トウマはもう文句を言わなかった。
彼は再び意識を集中させ、気の漏れている部分に、自分の意識を向けてみた。
(塞ぐ……塞ぐんだ……!)
念じる。だが、気はまるで言うことを聞かない。意識すればするほど、逆にその部分から気が激しく噴き出す始末だった。
「ぐっ……!」
「阿呆め。力ずくで流れを止めようとするな。川の流れを無理やり堰き止めれば、堤は決壊するだけじゃ。そうではない」
翠魂翁は、すっと立ち上がると、滝のほとりにある巨大な岩を指差した。
「あの岩を見てみよ。滝の水は、絶えずあの岩を打ちつけておる。だが、岩は砕けぬ。なぜじゃ?」
「……硬いから?」
「それもあろう。だが、もっと重要なことがある。岩は、水の力を『受け流して』おるのじゃ」
翠魂翁は続けた。
「気の制御も同じこと。無理に塞ぐのではない。流れを認め、受け入れ、そして、その方向を優しく変えてやるのじゃ。お前の魂の形に合わせて、気の通り道を作ってやれ。それが、『経絡』と呼ばれるものになる」
トウマは目を開け、その岩をじっと見つめた。
何百年、何千年もの間、激しい滝の流れを受け続けてきた岩。その表面は滑らかに削られているが、確かにその存在を保ち続けている。
(受け流す……)
彼はもう一度、目を閉じた。
今度は、気の漏れを敵だとは思わなかった。それは、自分の一部なのだ。
彼は、胸のあたりで荒れ狂う気の渦に、そっと意識を寄り添わせた。
(大丈夫だ……俺は、ここにいるぞ……)
まるで、怯える獣をなだめるように。
すると、不思議なことに、あれほど激しかった気の渦が、少しだけ、ほんの少しだけ、勢いを弱めた気がした。
「……ほう」
翠魂翁が、感心したように息を漏らす。
その日から、トウマの本当の修行が始まった。
それは、剣を振るうわけでも、術を学ぶわけでもない。ただひたすらに、滝の音を聞きながら座禅を組み、己の内なる気と対話し続けるという、あまりにも地味で、過酷なものだった。
来る日も来る日も、彼は座り続けた。
腹が減れば、翠魂翁がどこからか取ってくる苔や木の実を食べ、喉が渇けば滝の水を飲んだ。眠るのは、一日のうちほんのわずかな時間だけ。それ以外は、全て内観の時間に費やされた。
時には、気の流れに飲まれそうになり、意識を失いかけることもあった。
ある夜には、心の奥底に封じていた、センセーとの別れの記憶が蘇り、感情が爆発して気が暴走しかけた。その時は、翠魂翁の容赦ない頭突きによって、無理やり意識を断ち切られた。
「雑念に呑まれるな、この未熟者めが!過去は過去じゃ!お前が向き合うべきは、今、ここにある己の魂のみ!」
厳しい言葉。だが、その奥には確かな導きがあった。
トウマは、歯を食いしばり、何度も立ち上がった。
シンやナナの顔が、何度も脳裏をよぎった。今頃、あいつらはもっと強くなっているかもしれない。俺だけが、こんなところで足踏みしているわけにはいかない。
一週間が経った頃、彼は自分の気の流れを、かなりはっきりと認識できるようになっていた。
二週間が経つ頃には、荒れ狂う気の渦を、穏やかな流れへと少しずつ変えることができるようになってきた。
そして、一ヶ月が経った朝。
いつものように座禅を組んでいたトウマの体から、ふわりと、青白いオーラのようなものが立ち上った。
それは、今までのように無秩序に漏れ出す気ではなかった。彼の体の輪郭に沿って、静かに、そして力強く燃え盛る、制御された霊気の輝きだった。
目を開けたトウマは、自分の両手を見つめた。
その手に、力が満ちていくのが分かる。ただの腕力ではない。魂の力そのものが、体の隅々まで行き渡っていく感覚。
「……ようやく、己の魂の形を識ったか、小僧」
いつの間にか、隣に座っていた翠魂翁が、満足げに言った。
「ああ……。これが、俺の力……」
「うむ。だが、これはまだ始まりにすぎん。お前は、ようやくスタートラインに立っただけじゃ。これから、その力をどう使うか……それを学ぶのが、第二の修行じゃ」
翠魂翁は、にやりと笑った。その顔は、初めて会った時と同じ、どこか胡散臭い緑色のダルマの顔だった。
だが、今のトウマには、その存在が、誰よりも頼もしく見えた。