第九章 ~ 歪んだ心象、姫を喰らう鬼 ~
『邪魔ヲスルナラ、オ前タチモ、コノ娘ノ玩具ニシテヤロウ』
菊姫の口から発せられた、おぞましく、古い声が部屋に響き渡る。彼女の体は、まるで操り人形のようにギシギシと不自然な音を立てて立ち上がった。その瞳に宿る紫色の光は、もはや人間のものではなかった。
「てめぇ……菊姫に何しやがった!」
トウマが叫び、構える。
『我ハ影法師。コノ娘ノ孤独ガ我ヲ呼ビ、ソノ憎シミガ我ヲ育ンダ。我ハコノ娘ソノモノ……』
「ふざけんじゃねぇ!」
シンが短く叫び、誰よりも速く動いた。黒曜の刃が、菊姫の首筋めがけて疾る。だが、刃が触れる寸前、菊姫の体が不自然にぐにゃりと曲がり、攻撃を回避した。
「なっ!?」
「無駄よ、シン!そいつ、物理攻撃が通じない!」
ナナが叫び、数枚の護符を投げつける。護符は菊姫の体に張り付くが、紫色の妖気がそれを焼き尽くしてしまった。
『ヒヒヒ……無駄ダ。コノ屋敷ハ、我ノ領域。コノ娘ノ心象ガ、現実ヲ侵食シテイルノダカラ』
その言葉と同時に、部屋が大きく揺れた。壁、天井、床がガラスのようにひび割れ、砕け散っていく。三人の足元が崩れ、彼らは悲鳴と共に底知れぬ闇へと落下していった。
「「「うわあああああああっ!」」」
視界が白と黒で明滅し、平衡感覚が消え失せる。やがて、強い衝撃と共に、三人は硬い何かに叩きつけられた。
「いってぇ……」
トウマが呻きながら顔を上げる。そこは、先ほどまでいたはずの豪華な部屋ではなかった。
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く、巨大で歪んだ人形屋敷の世界だった。空はひび割れた天井のようであり、地面は砕けた人形の陶器の顔で埋め尽くされている。遠くには、巨大な錆びた縫い針が、枯れ木のように林立していた。美しく、そして絶望的に寂しい、狂った心象風景。
「……結界の中、か。それも、ただの結界じゃない。あいつの精神世界そのものね」
ナナが周囲を警戒しながら分析する。
「ってことは、俺たちはあのお姫様の頭ん中にいるってことかよ!?」
トウマが混乱する。
シンは黙って刀を握りしめていた。この重く、悲しい空気は、彼自身の心の一部を抉るようだった。
「出口はどこだ。そして、呪いの本体は」
『ココニ出口ナドナイ。オ前タチハ永遠ニ、コノ娘ノ終ワラナイ孤独ノ中ヲ彷徨ウノダ』
天から、影法師の声が響き渡る。
その時、地面の陶器の破片が集まり、人の形を成し始めた。昨日戦った人形たちが、今度は砕けた体で、再び三人の前に立ち塞がる。だが、その姿は昨日よりもずっと禍々々しく、その口からは菊姫の心の声が漏れ出ていた。
『どうして、誰も遊んでくれないの……』
『お父様は、私ではなく、私の価値を見ているだけ……』
『友達なんて、どうせみんないなくなってしまう……』
「こいつら、姫さんの悲しい気持ちが形になったってことか!」
トウマが叫ぶ。
「だとしても、やるしかない!」
シンが人形の一体に斬りかかる。だが、斬っても斬っても、人形はすぐに破片を集めて再生してしまう。それどころか、攻撃するほどに、その数と怨念が増していくようだった。
「ダメだ、キリがない!物理的な破壊じゃ、こいつらは止められない!」ナナが叫ぶ。
シンとナナが戦略を練り直そうと距離を取る中、トウマは一人、その場で足を止めていた。彼の顔には、苛立ちと、そして妙な納得の表情が浮かんでいた。
「……もう、いい」
トウマは天に向かって、腹の底から大声を張り上げた。
「聞こえるか、キクヒメーーーッ!俺は難しいことは分かんねぇ!お前の悲しい気持ちがどうとか、呪いがどうとか、知ったことかァァァ!」
その純粋で、あまりに真っ直ぐな叫びに、シンとナナだけでなく、襲いかかってきていた人形たちまでもが、一瞬動きを止めた。
「俺たちがここにいるのはな、お前を助けるためだ!それだけだ!だから、こんなくだらねぇ人形遊びは、とっとと終わりにしろォォォォ!」
ルフィのような、あまりにも単純で、だが本質を突く叫び。
その言葉に呼応するように、世界がわずかに揺れた。人形たちの動きが、明らかに鈍くなる。
「……あいつ、バカだけど……」
「……ええ、本当に……」
ナナとシンは呆れながらも、その姿に何かを感じ取っていた。
三人が再び歩き始めると、今度は風景が変わった。広大な、がらんとした部屋に、ぽつんと一人の少女が座り込んで泣いていた。幼い頃の菊姫の幻影だった。周りには美しい人形が山のようにあるのに、彼女はただ一人だった。
トウマは、その姿に何か言おうとして、やめた。ただ、黙ってその隣を通り過ぎる。その孤独の重さは、彼には分からない。だが、放っておけない、という気持ちだけは本物だった。
やがて三人は、この歪んだ世界の中心、巨大で禍々しい城のようなドールハウスにたどり着いた。
その玉座の間で、彼らはついに呪いの本体と対峙する。
影法師は、もはや菊姫の姿をしていなかった。
それは、無数の黒い糸と、割れた陶器と、数え切れないほどのガラスの瞳で構成された、巨大な影の怪物だった。そして、その胸の中心部には、本物の菊姫が、まるでマリオネットのように黒い糸でがんじがためにされ、囚われていた。
『ヨク来タナ……最後ノ玩具タチ……』
「あれが本体……そして、菊姫!」
「シン、ナナ!俺があのお姫様を助け出す!それまで、あのデケェのを止めといてくれ!」
トウマが叫ぶ。
「無茶言わないで!でも、あんたなら……」
「……行け。ここは俺たちが引き受ける」
シンの目には、迷いはなかった。自分と同じ、呪いに喰われかけている人間が目の前にいる。ここで引くことは、自分自身から逃げることと同じだった。
ナナが印を結び、護符の弾幕を放つ。シンは、鬼の宿る刀の力を半ば解放し、影法師の巨体に深々と斬りつけた。二人が怪物の注意を引いている隙に、トウマは囚われた菊姫に向かって、一直線に走った!
「待ってろよ、キクヒメー!」
だが、菊姫に近づくほど、黒い糸が鞭のようにしなり、トウマを打ち据える。
「ぐっ……はっ……!」
ボロボロになりながらも、トウマは足を止めない。
そしてついに、彼は菊姫の目の前にたどり着いた。しかし、頑丈な糸の檻は、彼の力では壊せそうにない。
「くそっ……どうすりゃ……」
その時、彼は思い出した。この世界は、心の力で動いている。ならば──。
トウマは、檻に手を伸ばし、中にいる菊姫の手に、そっと触れた。
「……聞こえるか、菊姫」
彼の声は、穏やかだった。
「お前、ずっと一人だったんだろ。寂しかったんだろ。でもな、もう一人じゃねぇぞ」
トウマは、にっと笑った。その笑顔は、どこまでも明るかった。
「俺たちがいる!うるさくて、行儀も悪くて、お前のこと姫なんて思ってもねぇ、ただの祓い屋の三人組だけどよ!でも、俺たちは、ここにいる!」
その温かい言葉が、菊姫の閉ざされた心に、小さな光を灯した。
「だから、帰ってこい、菊姫!お前の居場所は、そんな暗くて寂しいとこじゃねぇだろ!」
その瞬間、菊姫の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
その涙が、黒い糸に触れると、糸はまるで清められるかのように、すっと消え始めた。
『ナ……ニヲ……スル……』
内側から力が弱まったことで、影法師の動きが鈍る。
「「今だッ!!」」
その好機を、シンとナナが見逃すはずがなかった。
ナナの最大火力の術式と、シンの覚悟を決めた一閃が、同時に影法師の核を貫いた。
『ギ……ィ……アアアアアアアアアアッ!』
断末魔の叫びと共に、影法師の体はガラスのように砕け散り、歪んだ心象風景もまた、光の粒子となって崩壊していく。
気がつくと、三人は元の屋敷の部屋に立っていた。朝日が、破れた障子から差し込んでいる。
床には、菊姫が静かに眠っていた。その寝顔は、苦しげなものではなく、どこか安らかに見えた。
数時間後。
目を覚ました菊姫は、別人のように物静かだった。
彼女は、三人の前に深々と頭を下げた。
「……わたくしは……ずっと、自分の殻に閉じこもっていました。でも、あなた方の声が……トウマさんの声が、わたくしを呼び戻してくれました。本当に……ありがとうございました」
その言葉は、心からのものだった。
トウマは照れくさそうに頭を掻く。
「へへっ、別にいいってことよ!友達が困ってたら、助けるのは当たり前だろ!」
「……友達?」
菊姫の顔が、ぽっと赤らむ。
「ああ、そうだろ?」と笑うトウマに、ナナは「あんた、いつの間に友達になったのよ」と呆れ、シンは「……悪くない」とだけ、静かに呟いた。
阿部家から破格の報酬を受け取った帰り道、トウマは早速、その金で何を食べるか計画を立てていた。その騒がしい声を聞きながら、ナナとシンは、ほんの少しだけ、笑みを浮かべていた。
困難な任務は、また一つ、彼らの絆を強くしたのだった。




