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電車の中は、薄いアクリル板みたいな乗客でいっぱいだったけれど、なぜそんな姿をしているかといえば、薄ければそれだけたくさんの人を一度に乗せることができるからだった。ボクは彼らのすき間に、倒さないように器用に滑り込まなければならなかった。将棋倒しになって、大惨事になってしまうからだ。
電車で数駅のI町で降りた。何か考えがあったわけじゃなく、なんとなく。
I町は繁華街だけれど、すっかりさびれて、今では駅から離れた地域は誰もいない放棄された雑居ビルばかりだった。隠れる場所には事欠かない。今のボクみたいな境遇の未成年者がかなりいると聞いたこともあった。その時は、自分がそういう立場になるとは思ってもみなかった。
そんな理由を考えたわけではなかったけれど、磁石に吸いつけられる磁鉄鉱の砂粒みたいに、この街に自然と引き寄せられたのかもしれない。
意味もなく人もまばらな商店街をぶらつき、大したものもないショウウィンドウをのぞき込む。街のはずれのビルに囲まれた小さな公園のベンチに座り、夕暮れが人々の顔をのっぺらぼうにする頃合いになると、ボクは早くも考えなしにユキエさんの元から飛び出してきてしまったことを少し後悔し始めた。自転車に乗ったきれいなお姉さんが、こちらをちらりと見ながら通り過ぎる。
ふわふわと夜の粒子たちがボクの周りを飛び回り、時々街灯の光にきらりとまたたいた。その有様は、きれいではあるけれど、ボクの心に不安の種を植え付ける。やっぱり夜は怖いから。それが知らない街ならばなおさらだ。ユキエさんのあたたかい部屋とベッドを思い出し、ボクは思わず顔を赤らめた。
いい加減衝動的に行動するのはやめたほうがいいんじゃないかなぁと似合わない自省をしつつ、充電が心もとなくなってきたぼんやり光るスマホの画面を眺めていると、ボクの隣にひとりの小ぎれいなスーツのおじさんが座った。会社帰りだろうか。ボクのほうをちらちら見ているのを感じる。またこのパターンかなと思った。結局ボクはまだ何もできないし、誰かにすがりつくしかできないんだなと思うと、さすがに心が沈んでくる。ボクは隣からの視線を感じながら、気にしないふりをして足をぶらぶらさせた。
「待ち合わせ?」
言葉をかけてくるおじさん。ちょっと思い迷ったふうな口調だ。
「そうじゃないです」
「学校帰りかな」
「えっと、そうですね、はい」
「ここにはよく来るの?」
「はじめて」
「ああ、そうか」
納得するようにひとりでうなずいた。
「ここはあんまり柄のいいところじゃないし、きみみたいな若い子がこんな時間にいるのはまずいと思うけど」
「そうなんですか」
「家に帰ったほうがいいんじゃないかな」
「そうですね、どうしよっかな」
「帰りたくないの」
「そういうわけじゃないですけど…」
「じゃあもしよかったらさ、ご飯でも一緒に食べに行かない? ちょっと暇しててさ、つきあってくれたらうれしいんだけど」
「おごってくれるの?」
「もちろん」
おごってくれるという話に間髪入れずに食いついたボクを見て、おじさんはいろいろと得心がいったようだった。
「じゃあ、おいしいお店があるから、行こうか」
「はい!」
勢いよく立ち上がったボクとおじさんのところに、さっとボクより少し年上っぽい女の子が歩み寄ってきた。胸もとに大きなリボンをつけたチェック柄のかわいいワンピースと、赤い靴を身につけている。背が特に高いわけではないけれど、女の子にしては体つきがしっかりしてる。それがイツキだった。
「おじさん、ここじゃダメだよ、普通の子じゃん」
声ではっきり男の娘だと分かった。多分高校生くらいかなと思った。顔立ちは整っているけれど、打ち沈んだ知的な瞳のせいか、少し暗い感じがする。別に女の子になりたいからこういう恰好をしているわけではないみたいで、立ち居振る舞いが女性っぽいわけでもない。ボクなんて、女の子の恰好をさせられるようになってから、いつの間にかなんとはなしに柔らかくかわいらしいしぐさなどをしようとしている自分に気づいたりもしたのだけれど、これはもしかしたら生まれつきだったのかもしれない。
「あ、イツキくん、バレちゃったか」
「普通の子を誘うなら、別のとこでやってよ」
「ははは、ごめんごめん、じゃあさ、イツキくんは今はどう?」
「えっとごめん、ちょっとこの子に用があるから」
さりげなくおじさんの腕をとり、見上げて愛想笑いする彼。
「また今度お願いね」
「はいはい、わかりましたよ」
軽く手を振りながら、そんなに失望したふうでもなく、おじさんは向こうに行ってしまった。ご飯! せっかくタダで食べられそうだったのに。なんなのこの子。
彼は腰に手をやり、不満顔のボクのほうに顔を向けた。
「きみ、男の娘だろ。中学生? こんなとこで遊んでないで、早く家に帰ったほうがいいよ。悪いやつらだっているんだから」
「キミだって男なんでしょ、キミはいいの」
「おれはここらへんに住んでるから」
「そうなんだ」
「きみみたいな若くてかわいい子は、夜に遊び回ってちゃだめだって、危ないから。気持ちはわかるけどさ」
「そんな歳変わらないように見えるけど…って、それよりご飯! 折角おごってもらえそうだったのになあ」
「食べたらそのあと、ホテルに連れてかれて、きみが食べられちゃうよ」
「ふふ、別にいいよ、そのくらい」
「え、経験あるの」
ちょっと驚いた顔を見せる彼。子ども扱いされて少しいらっとしていたので、ちょっぴり誇らしい気分になった。偉くともなんともないのだけれど。
「ええっと、まあないんだけど」
「なんだよ」
ボクの様子を見て、少し心配になったのだろうか、彼はうつむき加減に少し考え込んでから、ボクのほうに右手を差し出してきた。
「ご飯くらい、おれがおごってあげるよ」
「ほんと?」
「うん、まあ色々事情もあるんだろうし…もしよかったら話、聞こうか?」
「えーと、ご飯だけでいいや」
「調子いいなあ、もう。時間は大丈夫?」
「うん、全然。帰るとこ、ないから」
彼は何も言わず、ボクに手を差し伸べてくれた。おじさんが声をかけてきたのはわかる。目的があったのだから。でも、彼はどうしてボクに関わってくれるのだろう。少し疑問も感じたけれど、彼の真面目そうな顔を見ていたら、そんな気持ちはすぐに消えてしまった。
家を離れてから、はじめて心が落ち着くような気がした。ずっと忘れていた笑顔すら浮かべて、ボクは彼についていった。
*
どこかのお店に行っておごってくれるのかと思ったら、そうではなく、コンビニでお弁当と飲み物を買って、彼の部屋に行った。それでも十分だったけれど、残念と思う心が表面に出ないよう何とか押さえつつ、彼について行った。お店で彼はお酒を買っていた。どう見ても未成年なのだけれど、お店の人も何も言わないし、彼も当然といった様子だった。
公園から少し離れたそのあたりは、とりわけおんぼろで汚く低いビルが密集していて、街灯もない暗い迷路のような細い路地を、ボクらは歩いた。慣れた様子の彼は暗い中さっさと歩を進め、ボクは取り残されまいとあせって足早に彼のあとをついて行く。ねっとりと闇がまとわりつき、声を出すのもはばかられた。
「この辺は人も少ないんだけど、念のため、表からは入らないようにしてるんだ」
裏口のドアのカギを開けながら彼が言う。いつも手入れしているのか、なめらかにドアは開いた。
「秘密基地みたいだね」
「でしょ? 誰にも見つからないようにしてる。めんどいから。ここに、面白い部屋を見つけたんだ。きみを入れるのは特別なんだからな」
「ふうん」
「もっと感謝しろよ」
ドアを閉めると真っ暗になった。彼はごそごそとバッグから電灯を出して、スイッチを入れる。彼の白っぽい顔が、闇のなかに浮かんだ。彼はボクの手をとると、階段を上り、3階の部屋に案内してくれた。
部屋に入ると、中央のテーブルに置かれたランタンに火をつけた。
「電気も水道もないけど、なんか気が狂ったみたいな部屋で、面白いんだ」
10畳くらいの広さの洋室。天井から、何枚もの板が意味なくぶら下がり、さらにいくつかの布が弧を描いている。それらのかすかに揺れ動く影が複雑に絡み合い、まるで白黒の抽象画のようだった。壁には斜めに切られた凹凸が直線を作り、さらにそこには色違いの壁紙が貼りつけられていて、ボクは大きなモザイクの中に入り込んだような錯覚にとらわれた。壁の一面につけられた分厚いカーテンは、多分窓を隠しているのだろう。
部屋の中央にはテーブルと椅子がひとつ。あとは、ベッドと戸棚、ポリタンクとペットボトルがいくつか壁際に置いてある以外、あまり家具はなかった
彼はテーブルをベッドに寄せると、コンビニで買ってきたビニール袋を上に載せた。
「椅子に座って。おれはちょっと着換えるから。ほんとはもうちょっと客とりたかったけど、いいや。今日は終わり」
椅子に座って、周りを見回す。彼のことが気になった。高校生くらいなのに、ひとりでこんなとこに暮らしてるということは、似たような境遇なんだろうか。仕事ってやっぱりあれだよね、自分を売ってるんだよね。
おじさんは彼のことをイツキと呼んでいた。彼のことを買ったことがあるみたいな口ぶりだった。多分そういうことなのだろう。
ゆったりした部屋着に着換え、普通の男の子に戻った彼はベッドに座り、ボクと真正面に向き合った。袋からお弁当と飲み物を出して、一息つく。
「その恰好、すごく似合ってる」
「ありがと」
「おれはイツキ。ここでひとりで暮らしてる。仕事のためにあんな恰好してるけど、ほんとはまだ苦手でさ。でもきみはほんとに女の子みたいだね。背も低いし華奢だし、顔もかわいいや」
「カオルっていいます。この恰好はいろいろあって…あの、仕事って、やっぱりあの」
「うん…自分を売ってる。それが一番稼げるから」
「あの、ボク」
「まず、食べない?」
「うん」
一気に身の上話を聞かされそうになるのを察したか、イツキはペットボトルの紅茶とお弁当をボクのほうに押しやった。ぷしゅっと音をたてて、缶のふたを開ける。
「それって、お酒…」
「そうだよ。おいしくはないし、きみには早いかもね」
大して年齢違わないくせに、とボクは思った。でも、どういうものなのか、興味はある。なんでも、経験してみないとわからないから。
ランタンの光は思ったよりも明るくて、やわらかかった。電灯の白い光と違って、その少しパラ鶏冠石の黄色味がかった光は何ものかに抵抗するかのように揺れ動いていて、常に忍び込んでこようと手を伸ばしてくる部屋の隅の暗がりの存在をいやがうえにも感じさせる。その悪意を持った手は、何とかボクのなかに入り込み、胸に不安の種を植え付けようとしているのだ。ボクは少し身を固くした。電灯のまるで静止しているかのような灯りと違って、まるで生きているみたいだった。
食事のあと、ボクは、自分の今まで顛末を、ぽつぽつと話していた。食べ終わって手持ち無沙汰になったからか、同世代の話しやすい相手と久々に出会ったからか、とにかく話がしたかった。
時折はるか遠くから車の音がかすかに聞こえてくるだけで、ささやくような声でも驚くほど大きく響いた。自分の声が、この狂った部屋の壁にじんわりと浸み込んでいく。
要所要所で、イツキが口をはさんだ。
「児保連は、ヤバいよね。T山の麓に大きな病院があって、そこに収容されると、もう逃げられないらしいよ」
「機械じかけみたいだった」
「児保連と警官だけは、とにかく逃げたほうがいい。特におれらみたいなのは。よく警官に見つからなかったね」
「捕まりそうになったことある?」
「うーん、まあね…ちょっと前まで、この辺にはおれ以外にふたり暮らしてたんだけどさ、ふたりとも警官に捕まっちゃってね、おれひとりになっちゃった」
「仲良かったの」
「いろいろ教えてもらったんだけどね、やっぱり話し相手がいないとつまんないよ」
ユキエさんのことはちょっとボカして話したけれど、何をされていたかは、説明せずともわかっているみたいだった。
「開発されちゃったんだね」
「開発?」
「気持ちよかったんだろ」
「…まあちょっとは」
「なんで逃げてきちゃったの。そこにいれば、飼いねこみたいに苦労しないでのんびり暮らせてたかもしれないのに。うらやましいや」
「わかんない」
ボクは言葉少なく答えた。本当にどうして飛び出したか、わからなかったから。
「野良ねこになっちゃったんだ。これからどうするつもり?」
「どうしよう」
「考えなしだね」
「うん…」
ボクはうつむいた。能天気なボクでも、さすがにまた心が打ち沈んできた。そんなボクのことをじっと見つめるイツキ。ふたりで黙りこくっていると、じわじわと暗闇が広がってくるような気分だった。ボクは耐え切れず、口を開く。
「イツキくんはどうなの? ずっとここにいるつもりじゃないんでしょ?」
「おれ? おれはね、とにかく何とかしてお金を稼ぐんだ。そして、ここから出て、普通に暮らす」
「どうやって?」
「それはまだわかんないけど…でもお金さえあれば、何とかなる」
「なるのかな」
「なるさ! 少しは貯金できてるんだ。普通にバイトするよりずっと割のいい仕事だし。あと、勉強もしてる。資格をとって、大学に行きたいな」
いきなり生活が一変して、先のことなんてまだ考える余裕もなかった自分には、イツキのそういう前向きな姿勢は驚きだった。余裕があっても、これからのことなんて考えもしないかもしれない。すごいなあと思った。
「ね、一緒にここで暮らさない? いろいろ教えてあげるからさ、カオルなら、多分おれよりずっと稼げる、かわいいから」
「いいの?」
「ひとりで暮らしていくのは、やっぱり辛いんだ。時々、押し潰されそうになる」
ひとりでこの部屋で夜を過ごすのは、きっととても辛いだろうなと思った。ひとりになってしまって寂しくて仕方ないんだろう。イツキの口調から、それは容易に想像できた。ボクも、ひとりで暮らしていけるとはとても思えなかったから、イツキの言葉は渡りに船だった。目の前に差し出された唯一のすがりつける手に、何とかしがみつくしかなかった。
「もしイツキくんがいいなら、ボクも一緒に暮らしたい」
「よし! じゃあ決まった! 準備とかあるから、明日いろいろ教えてあげる」
イツキはぐっとお酒を飲みほして、笑った。初めて見る彼の笑顔は何だかすてきで、ボクはちょっとどきどきした。ランタンの光も急にぱっと明るさを増したみたいだった。ふと気づけば、部屋の隅の暗がりはもう悪意なんて持ってはいなかった。むしろそれはボクたちふたりを包み込み、敵意ある外界から守ってくれる優しいシーツだった。
その夜は、ボクたちは同じベッドでふたりで一緒に寝た。ベッドはひとつしかないのだから。そういえば、ユキエさんは一緒に寝てくれたりはしなかったなと思う。真っ暗な部屋で、彼の体温をそばに感じながら、ボクは久々にあったかい安堵感に包まれて眠りについた。こんなにぐっすりと眠れたのは、いつ以来だろう。
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ふたりで女の子になって歩く街は、少し緊張はしていたけれど、楽しかった。ボクらみたいな子が集まる場所は、イツキと会った公園が中心で、どうやらいろいろ縄張りみたいのがあるらしい。そこ以外でお金稼ぎをしようとすると、いろいろ軋轢が生じてしまうから。
もちろん真正の女の子のほうがずっと多くて、多分ボクと同年代くらいから、もっとお姉さんまでいる。ボクらみたいなのを相手にするお客さんは少ないから、すき間でいさせてもらってるという感じみたいだ。
ボクはイツキから赤い靴を借りた。借り物だからちょっと大きくて歩きにくいけれど、これは必要な目印だ。決まりではないが、なんとなくそういう慣習になっているらしい。いつからそうなったのかは分からないが、この街では、自分を売り物にしている者は赤い靴を履くのだ。
狭い公園を取り囲む古ぼけたビル群は直線で空を切り取り、狭いブロックで区切られた地面に植えられているわずかばかりの樹々は、身を細め震えていた。自分たちの不憫な境遇を嘆いているみたいだった。まさかこんなところで一生を過ごすことになるなんて、思いもよらなかったろうから。
いじけた葉っぱの茂る一本の長い枝が、ボクのほうに手を伸ばそうと上下に動いていたけれど、全然届かなかった。ボクはあまり関わりになりたくなかったので、ちらりと見ただけで、すぐ目を逸らした。
最初にボクを買ってくれたおじさんは、かなり年齢は上の感じの人だった。父親より少し上の年代じゃないだろうか。イツキの知り合いで、時々来てくれるらしい。
ボクは男の人とそういうことをするのは初めてで緊張したけれど、ユキエさんとの経験があるので、なんとかなるだろうとは思っていた。嫌悪感とかそういったことも全然なく、すんなり受け入れてしまったけれど、これは普通じゃないんだろうか。もともとそういう傾向があったんだろうか。わからない。
いずれにしても、こうしないとお金が稼げないのだ。ボクを雇ってくれるちゃんとした仕事なんてあるわけない。どうせやらなくちゃいけないのなら、できるだけ苦痛でなくしたい。
「この子、男の人とするのは初めてなんだ」
「初めてをもらっちゃっていいの?」
「そのかわり、ちょっと多めにもらえないかな、これくらいでどうかな」
「まあ初めてだしね。いいよ、ずいぶん若い感じだけど」
「まあね、かわいいでしょ」
「正直、めっちゃかわいいね」
「わたしの友だちだから、優しくしてあげて」
イツキとおじさんが話しているのをぼんやり聞いていた。自分のことを話しているのに、他人事みたいな気がした。
まだユキエさんの高校の制服を着たボクは、すっかりこの恰好が馴染んでいたし、気に入ってもいた。ボクはもう男の子であった自分を捨てて、すっかり女の子か、あるいはどちらでもない性別になってしまったような気分だった。ユキエさんに女の子として扱われ、そして今日これから、本当に男としての自分を捨てることになるのだ。
流され流されて、こんなことになってしまったけれど、まあ仕方ない。お尻がちょっとむずむずした。
イツキが今度はボクのほうに振り向き、言う。
「全部この人に任せていいから。部屋に行ったら、お風呂場で準備する前にスマホの充電は忘れずにね」
「うん」
こういってボクを送り出してくれたイツキは、ボクの様子を見て少し安心したようだった。
おじさんと歩き出し、後ろを振り返ると、イツキが小さく手を振っている。困ったような笑顔をしていた。