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 人っ子ひとりいない夜明け前の街は抜け殻みたいにからっぽで、ボクらの足音は乾いた音をたてて、ビルの間を幾重にもこだました。暗い銅藍色のこだまはコンクリートの壁やガラス窓にぶつかると、破裂するみたいな音を響かせて反射し、また次に跳ね返る障害物を目がけて音速で飛び回る。そのさまは、まるで気の狂ったコガネムシのようだ。

 所在なげに冷たい光を投げかけてくる街灯の光は弱々しく、今にも消えてしまいそう。ちかちかと明滅しながら、影ばかりが暗く、ちっともあたりを照らしてはくれないのだった。

 もうほど近いはずの偽物の海からいつも吹いてくる青い色をした風も今はやんで、ただかすかな甘い潮の香りだけが、鼻の奥の方でちりちりと感じられる。

 海に面した狭い公園は、あったかい季節なら、いかがわしい目的をもったカップルがちらほらしてるのに、今は誰もいない。いきなり訪れた晩秋の空気はまるで敵意をもっているみたいに、露出した肌をちくちく刺してくるから、たとえ恋人たちがいたとしても、こんな時間にはもう外に出ているわけない。だから、今、この公園はボクとイツキのふたりだけのものだ。

 ベンチに座って、ぼーっと暗い海を見た。ボクたちはふたりでくっつきあって、お互いの体温で暖をとった。ボクより少し大きなイツキの身体に身をよせていると、なんにも怖いことなんてない。彼のあったかい身体から、かすかな息遣いが伝わってくる。無脊椎動物のようにボクらは寄り添い合う。

 もう星もほとんど見えず、周囲に夜明けの微粒子が混じり始める。ボクはその光の種をつかまえようとして、むなしく何度も手を伸ばした。でも、彼らは捕まるようなへまはせず、するりとボクの手をすり抜けて逃げてしまう。なにしろ光の速さなんだから、つかまえられるわけがないんだ。

 イツキは、ボクの行動を優しくちょっと哀しい目で見守っていた。ボクの肩に回した右腕に、ちょっと力が込められる。ボクは安心して、イツキのあったかい体に身をまかせる。


「おかえり、カオル」

 ボクが自分たちの部屋に帰ってきた時、もうとっくに戻っていたイツキはまだ寝てなくて、ボクの帰りを待って起きてくれていたた。こちらに疲れた笑みを投げかける彼を見てボクは、だから、海が見たいなんてわがままを言ったんだ。

「今から?」

「うん。だめ?」

 黙ってコートをさっと手に取ると、彼は文句も言わず、すぐに立ち上がった。

 部屋から海までは歩くとちょっと時間がかかるけれど、ボクらはそんなの気にしなかった。お金稼ぎで身体はくたくたに疲れ切ってるけれど、ボクらは自由だ。なんだってできそうな気分。ちょっと歩いて海を見に行くくらい、なんてことない。

 誰もいないスタジアムの公園を越え、雑然とした異国風の街路を抜け、いつもは車でいっぱいの大通りを堂々と横断し、船が繋がれた海沿いの公園まで歩いた。

 海の向こうの工業地帯のせいで真っ暗になることのない灰色の空が、段々と酸化した蒼鉛色に変わり、ちらちらときらめきだすのを見守った。

 海を渡る大きな橋の上を、カモメが飛んでいる。

「鳥だ」

「うん」

「いいなあ、鳥になりたい。どんなふうに見えるんだろ」

地面を這いつくばることしかできない自分には、想像もつかない。彼らの目には、自分たちはどんなに小さな姿で見えているんだろう。イツキとふたりで鳥になって飛んでいけたら、どんなに楽しいだろう。でもきっと、鳥には鳥たちの悩みや苦しみがあるのかもしれない。それでも、ボクは鳥になりたかった。

 海を渡る大きな橋の上には、夜明け前にもかかわらずゆっくり移動する車の明かりが、ぽつぽつと見える。

 空はさらに明るさを増し、バラ輝石の艶めかしい輝きで、向こうに見える海沿いの半月状の大きな建物を染める。

 ボクは夜明けの色が大好きだ。色がなかったら、きっとボクの心はとっくに死んでしまったに違いない。一瞬もとどまっていない夜明けの色は、まるでボクみたいだ。気まぐれで、すぐにその姿を変えてしまう。誰もボクにはついてこれないから、ボクはいつまでたってもひとりきりだ、イツキをのぞいて。

「きれいだね」

「うん」

 イツキの顔を見上げる。こちらを見下ろしてくるその目は柔らかく優しいので、ボクはひと安心した。彼の整った顔は、いつも硬直してるように見えるから、ボクはちょっと不満だった。よかった、今はすごくすてきな顔。

 ボクの心は安心と愛しさであふれて、イツキにさらによりかかった。しっかり受け止めてくれるイツキ。

 夜明けが近づくとともに、海からの風が少しでてきた。季節に合わない短めのスカートの下に潜り込んだ風の冷ややかな手が、ボクの太ももをさっとなぜて浄化してくれる。風の愛撫をうけて、ボクはまた純粋潔白に漂白されて、何にも知らなかった子どものころに戻ることができる。でも、汚れがないっていうのはちょっと肌寒いんだ。


 太陽が顔を出す頃、ボクらはもう公園を後にしてた。結局のところ、ボクらは夜行性だから。帰りの途中、コンビニに寄って朝ごはんのパンやおにぎりを買い、部屋に戻った。

 パンを食べ、ふたりでくっつきあって寝た。やっぱりあったかいほうがボクは好きかな。



 目が覚めたら、お昼過ぎだった。一緒に住んでる黒ねこが、枕元に座って、ボクの顔を手で軽くひっかいていたのだ。お腹へったのかな? イツキはまだ寝てたので、布団をめくってちょっと悪戯していたら、起きた。寝ぼけまなこでボクを見る。

「なにしてんの」

「もうお昼だよ、起きようよ」

 イツキの両脚の間から顔を上げて、ボクは言った。

 部屋の小さな窓から、申し訳程度の日の光が部屋のなかに差し込んでいる。すぐに隣のビルがあるから、お昼のちょっとの時間しか、日が当たらないのだ。

 この真っ白な部屋はムダに天井が高くて、ちょっと寒々しい。天井には、何枚もの意味のない板切れや布が下がっていて、変な装飾でいっぱいだ。この部屋はイツキがこの廃ビルで見つけて、気に入って自分の部屋にした。あとからこの部屋に転がり込んで一緒に住むようになったボクにはよくわからないけれど、もともとメルツさんという人の部屋だったらしい。気が狂った部屋にしか思えなかったけれど、住んでみればなぜかしっくりきた。

 今ではイツキとボク、黒ねこ、あと何匹かのねずみがここで暮らしていて、大所帯だ。ねことねずみたちはいつも追いかけっこをして遊んでる。

 ボクらはベッドの上で体を起こすと、軽くキスした。早くごはんをくれと、黒ねこがぶつかって、顔をすりつけてくる。ベッドから下りてねこのごはんを用意しながら、イツキが言う。

「今日は上の階で見つけた灯油ストーブを持ってこようと思うんだ」

「寒くなってきたもんね」

「灯油タンクもいくつかあったから、それも。多分冬の間に足りなくなると思うけど、とりあえずこれで、しばらくは過ごせるかなって」

「うん」

「お湯も沸かせるし、寒いのは辛いから」

「ふたりでくっついてればあったかいよ」

「ずっとそうしてるわけにはいかないだろ」

 ボクらは今朝パンと一緒に買ってきたおにぎりを食べた。彼は1個、ボクは2個。お金は食べていくには十分すぎるほどある。でもイツキは、できる限り節約して、ろくなものを食べていない。将来のために、お金を貯めているのだ。きっと何か夢があるんだろう。先のことなんて考えてないボクには、彼のこういうやり方はよくわからないし、意見を言うつもりもないけれど、本当はちゃんとしたものを食べてほしいのだ。健康に悪いに決まっているのだし。


 イツキは、ボクより3歳年上、学校に行っていれば、高校2年生のはずだった。ボクよりも少し前、この街に来たらしい。整った顔をしているけれど、いつも笑ったりせず、難しい表情をしてることが多いので、折角のイケメンも台無しだ。ボクはもうずっと女の子の恰好したままだけど、イツキは家では男子学生の制服で、仕事に行く時だけ、女の子になる。

 多分、イツキの夢は、普通の生活に戻り、学校にまた行くことなんだろう。どういう過去でここに来たのかは知らないけれど、いつもお金を貯めようと努力してる。彼のことを見ていると、何にも考えずその日暮らしの自分がまるで莫迦みたいに思えてくるけど、彼はボクを大事にしてくれるし、ボクも彼のことが大好きだ。恋人であり、お兄ちゃんであり、家族そのもの。

 おにぎりをほおばりつつ、ボクはもごもごと話した。

「今日はどうするの?」

「夕方になったら、仕事にいく。昨日はふたりお客さんとって結構もらったから、カオルは今週はもうあせらなくてもいいかな」

「わかったよ、じゃあそれまでゆっくりできるね」

「ストーブだけ、運ぶからね」

「うん」


 食べたあと、無人の真っ暗な階段を2往復して、何かのお店だったらしいゴミだらけの広い部屋から、ストーブと灯油タンク3個を部屋に運んだ。細い条線のように差し込む外の光が揺れ動く。大量のほこりが舞い上がっているのだ。ボクはできるだけ息をしないように、あわてて部屋を出る。

 少し息が切れたボクは、荷物を部屋の床に置くとそのままベッドにばたっと寝っ転がった。イツキと一緒にくっついていられる、ボクにとって一番大事な、大好きな場所。少し湿った感触が、心地よい。

 イツキは、持ち込んだストーブに灯油を入れ、さっそく火を入れていた。段々と真っ赤になっていくストーブ。ほんのりとした温かみが部屋の中にじわじわ広がっていく。部屋の壁もゆっくりとピンク色に染まり、静かに脈動し始めた。ねこはそそくさとストーブの前に陣取り、興味深げに艶めかしくうねる壁の一角を眺めている。壁の巣穴の平穏を乱されたねずみたちが、あわてふためいてぱたぱたと走り回っているのだ。ごめんね、でもきみらもあったかいほうがいいよね。

 イツキは水を入れたやかんをストーブの上に置いた。

「これでいつでもお湯が使える」

「んー」

「火の始末は気をつけなくちゃね」

「ねえ、イツキ、こっち来て」

 ベッドの上でごろごろしながら、ボクは甘えた声を出した。部屋の様子に感化されたボクは、イツキの体温を感じたくて仕方なかった。一緒にくっついて、だらだらと自由な時間を過ごしていたかった。

「できたら、布団、日に干したいんだけど」

「また今度でいいじゃん、ねえイツキ、こっち来てよ、今日はだらだらしてようよ」

「仕方ないなあ」

 苦笑しながら、それでもイツキはちゃんとボクのわがままをきいてくれる。ベッドに腰掛けると、ボクの頭を優しくなぜてくれた。ボクはベッドに顔をうずめて、ねこみたいに小さく喉を鳴らした。


 だらだらしているとすぐ時間がたってしまう。夕方になり、ボクらは街に出た。イツキもすっかりかわいい女の子みたいだ。ボクもおめかしして、軽く化粧する。まだそんなことをする必要はないのだけれど、これは街に出るための合図みたいなもの。必要ないくつかのものを入れっぱなしにしているバックを肩にかけ、ふたりとも赤いローファーを履いた。これも、仕事にはかかせない合図なのだ。

 イツキはこの仕事がいまだに苦手みたいだけれど、ボクは結構楽しんでいる。知らない人、いつも会いに来てくれる人と一緒の時間を過ごすのは、そんなに悪くない。たまにちょっと乱暴だったり怖い人もいるけど、大体は優しいから。それに、気持ちいいこと好きだし、なによりお金をくれる。お金ってすごい。お金がないと、人間にすらなれないのだから。

 イツキは離したくないといわんばかりに、ボクの手を強く握りしめる。心配性だから、きっといろいろ不安なんだろう。ボクより経験あるはずだけれど、あまりこの仕事が好きじゃないみたいだ。

 ボクらは廃ビルを出て、街の夕闇にまぎれた、捕まえられるのを待ってふわふわと街を漂う夜の精霊みたいに。捕まったら、針を刺されて箱の中に留められてしまうかもしれない。でもまあそれも悪くないかな。



 ボクが小さい頃は、ごく普通の家族だった、と思う。休日にはいろんな場所に連れて行ってもらったし、外に出るのが好きな自分には、両親と一緒に外出できるのはとても楽しかった。ボクは背も低いし、小さなうちは女の子といつも間違われるような容姿だったけれど、外で遊ぶのは大好きだった。

 小学生高学年の時、両親がこれまでの会社を辞めて、違う仕事を始めた。それが何の仕事だったのかは知らないけれど、多分、ちょっとヤバい仕事だったんだと思う。平日、休日関係なく家をあけることが多くなり、生活が急に贅沢になった。遊びに連れていってくれる頻度が下がったので、ボクはつまらなかった。

 K市に引っ越して、海のそばの閑静な住宅地にある立派な家に引っ越したのはうれしかった。海が近いから、よくひとりで遊びに行った。でもそれくらいかな、よかったのは。友だちと別れて、転校しなきゃならなかったのは、辛かった。部屋が大きくなったり、食事の質がちょっと上がるなんて、それに比べたらどうでもいいことだったから。でも、新しい学校でも、新しい友だちはすぐできた。ボクは人付き合いが大好きだったから。


 そんな夏の終わりのある日、家に帰ると誰もいなかった。よくあることだから、気にもしなかった。むしろ、ひとりで過ごせるのはうれしかったくらいだ。

 夕食の時間になっても帰ってこなかった。泊まるとは聞いてなかったけれど、ひとりで夜を過ごすこともたまにあったから、急用ができたのかなと思った。でも連絡もないのは初めてのことだった。とりあえず近くのコンビニでお弁当を買った。あとで文句を言って、ちょっと多めにお金もらわないと。

 結局、帰ってこなかった。ボクは仕方ないので、次の日、普段どおりに学校に行った。冷蔵庫の中のパンをレンジであっためて朝食にする。両親から連絡はない。

 授業が終わって、もう帰ってきてるかなと家に向かい、角を曲がって家が見えるところで、家の前に白いワゴンが停車していることにすぐ気づいた。

 真っ白な車体の横に、黒い小さな文字で、「児童保護連絡協議会」と書かれていて、車の脇に黒い服の男の人が立って、スマホを耳に当てていた。ボクはすぐに立ち止まり、角に隠れた。

 児童保護連絡協議会! 小学生のころから、よく聞いていた名前だ。いろんなところに名前が出てくるので、すぐわかった。最近かなり増えてきて社会問題にもなっている孤児を引き取り、生活と学習の支援をするための組織とのこと。なんともあやふやで個性の感じられないその名称のとおり、実態もよくわからない。けれども、子どもたちの間では、この名前は、いろいろなうわさ話と結びついている。それはよくある、あそこの病院跡地や歩道橋で夜に幽霊が出るとか、そういった類の怖い話みたいなものだけれど、それよりはずっと現実味を帯びたうわさ話だ。

 その団体の建物は山奥深くの誰も知らない場所にあるとか、そこに引き取られていって戻ってきた子どもはいないとか、連れていかれた子どもたちが海外に売られて運営費用にあてられているとか、「部品とり」されるとか、そういった話。とにかく、悪いうわさしかない。あんまり人目の多いところで話題にしていい存在でもないのは確かなようだった。

 だから、そんなうわさ話を頭から信じ込んでしまうような子どもではなかったボクでも、つい隠れてしまったのは仕方のないことだった。それが、どうやら自分を「保護」の対象としているのが明らかであれば、なおのことだ。

 車の脇の男性は、かすかに耳にさわるモーター音を漏らしつつスマホを下ろし、こちらの方に顔を向けた。こちらに気づいたというわけではなかったようだけれど、その無表情さと機械じみた動きは、ボクの心の中に急速に強い恐怖と警戒心を湧きあがらせた。

 逃げなきゃ!

 角からそっと様子をうかがっていたボクは、くるりと身をひるがえすと、あわてて走り出した。


 とりあえず、暗くなるまで商店街をぶらついて、家におそるおそる戻ってみた。家の前のワゴンはまだいて、灯りのついた車内でなにやらごそごそ動いている気配がする。家の中にも人がいるみたいだ。両親でないことはすぐわかった。なぜなら、玄関からふたりの男性が出てくるのが見えたからだ。その足取りはやっぱり電気仕掛けのようにぎくしゃくしていた。

 ボクはあわててそこから離れると、あてどなく歩きつつ、どうしようか考えた。とりあえず、少しは賑やかな駅に向かってみよう。

 両親は戻ってきていない。多分もう戻らないんじゃないだろうか。そういえば、最近ふたりで深刻そうに話している姿を何度も見ていた。きっと、仕事がうまくいかなかったんだ。それで、きっともう戻ってこれなくなったんだろう。両親のことは好きだったけど、特に悲しみの感情などはなかった。これから徐々に表れてくるんだろうか。

 あの男の人たちの前に自ら出ていくのは、絶対ない。あの恐ろしい様子を見てしまったら、それはあり得ない。うわさ話がうそか本当かはわからないけれど、絶対関わっちゃいけないことはわかる。なぜかはわからないけれど。

 でも行くべき場所もない。親戚もいないし、学校ももうダメだろう。きっと児保連とぐるになってるにきまってる。ボクが安心して自分を任せることのできる場所なんて、ひとつもなくなってしまった。

 かばんに入っているのは、教科書とノートが数冊と、スマホとイヤフォン、ハンカチ、ティッシュくらい。お金なんて、ちょっとしかない。昨日と今日のお昼代、昨日の夕食代を使って、残りはそんなに多くない。


 駅そばの商店街を歩く。ボクを取り囲む石墨のような夜の闇が、ねっとりと粘り気をもって絡みついてくる。息もしづらくなってきた。膝をあげるものひと苦労だ。ボクの周りだけ、空気が重くなっていた。

 まずい、このままだと窒息しちゃうかもしれない、と思って、お気に入りのメロディを口ずさんでみる。口から出てきた音符は粘った闇にまとわりつかれてたちまち失速し、道路にぱたりと落ちて死んでしまった。色褪せ、形がにじみ、道路に吸収されてはかなくも消えてしまう。

 この街にいるのもまずいかもしれない。彼らはボクを探しているはずだ。もしかしたらもう尾行されているかもしれない。そう思うと、急にまた怖くなってきた。明るい商店街だけれど、そこかしこの暗い影になにかが潜んでいるような気がしてきた。


 ボクは、なけなしのお金で切符を買うと、最初に来た電車に適当に乗り込んだ。当て所もなかったから。



 K市の隣のY市は、大きな都会だ。昔は夜も明るく眠らない街だったらしいけれど、今では人も減り、夜は真っ暗になる。けれども好んで夜に出歩く人たちは、やっぱり今でもいるようだ。子どもの頃、何度も両親と一緒に買い物に来たことがある。

 もうちょっとした食べ物を買うお金も残っておらず、ボクは駅から少し離れたコンビニの横の暗がりで、座って餓えをこらえていた。餓えることなんて生まれてこれまでなかったし、心細さに打ちひしがれていた。これからどうしようと考えてみたけれど、考えてもまるで解決しそうにないので、ぼーっと目の前の道路を歩く人たちを見ていた。あの人たち家に帰るのかな。いいな。

 でも、確かにお腹もへって安心して寝るところもないけれども、ボクの心の中は絶望だけで染まってるわけじゃなかった。あらゆる束縛から解放されて、天涯孤独、だだっ広い闇空の下でどうしようか思いまどっているけれど、自分の行く先は自分ひとりで好き勝手に選択できるんだという、不思議な感覚。たとえ野垂れ死にしようと、自分を縛るものは何ひとつとしてないんだと思うと、ふわりと身体が浮き上がるような気分になった。実際に、ボクは10センチほど、地面から離れて浮いていた。


「…ね、ねえ、きみ」

 突然、頭の上からおずおずとした声が降ってきた。ボクははっとして、地面に軽く着地した。

「こんなところで…どうしたの、かな」

 見上げると、陰で暗くはっきりとは見えないけれど、若いOLといった感じの女の人のようだった。目がきょろきょろとして挙動が少しあやしい感じの、眼鏡をかけた人。きっと愛想笑いばかりしているんだろう、笑みを浮かべているけれど不自然なので、いろいろ台無しになってる感じ。

 ボクは、お腹もすいてもうなんでもいいからすがりつきたい気分だったから、できるだけ哀れっぽい声を出そうと努力することにした。うつむいて、か細い声で言う。

「どこにも帰れないんです。お腹へって」

「家出してきたの?」

「いいえ、もう帰れないんです。親もいなくなっちゃって」

「行くとこなくて、こ、こんなところにいるの? 中学生…くらい?」

「はい」

 顔を上げて、心配そうにこちらを見つめる彼女を上目遣いで見た。彼女は周りをきょろきょろ見回すと、しばらく沈黙したあと、思い切ったように口を開く。

「…あのさ…もしよかったらだけど…う、うち、来る?」

「…いいんですか?」

「ね、寝るところもないんでしょう? お腹もすいてるんじゃない?」

 その挙動不審な様子で、ボクは少しだけ安心感をもった。あの恐怖しか感じさせなかった児保連の男の人とはまるで正反対だ。それに何より、お腹がへった。ボクは、彼女の言葉にしがみつくことにした。


 何でも選んでいいからというので、コンビニで、お弁当を選んだ。

「遠慮しなくていいからね?」

 ちょっと遠慮しつつも、いくつか食べ物を選ばせてもらった。彼女も自分の夕食だろう、一緒に買う。ひとり暮らしのようだ。

 まあ大丈夫だよね…というか、どこにもあてもなく、お金もないのだから、彼女にすがりつくしか方法はないのだった。気を許したわけではないけれど、ボクにはもう彼女についていくしかなかった。


 少し歩いたところにあるマンションの5階、2DKの部屋が彼女の自宅だった。

 お茶を入れてくれ、シャワーを浴びてきたら、と言う。お風呂から出るとボクの学生服はなくて、多分彼女のだろうかわいいパジャマが脱衣所に置いてあった。下着もなく、女性用のものが置いてあった。これを履けということなんだろうか。これしかないのだろうと思い、仕方なく履いた。落ち着かない。洗濯するから、と彼女は言った。

「とっても似合ってる。女の子にしか見えない」

「そうですか」

 これは褒められてるのかな、と思ったけれど、特にうれしいわけでもなかったので、適当に応えた。

 お弁当を一緒に食べながら、話した。最初はふたりともおずおずと、お腹がいっぱいになってくると、人懐こいボクが話をリードした。

 彼女の名前は、ユキエ。年齢ははっきりわからないけれど、多分20歳中ごろといったところ。Y駅そばの生涯学習センターでピアノを教えているらしい。音楽関係の仕事につけたのは幸運だったけれど、人とのつきあいが好きなほうではないので、ちょっと辛いと言う。

「でも、本物のピアノに触れるのは、うれしいの。と、とても買えないし、あっても部屋では弾けないから…」

 語尾がかすれてフェイドアウトする彼女の話し方は、ちょっと聞き取りづらい。

「そうなんですね。ここには楽器はないんですか?」

「電子ピアノが部屋にあるわ、音はヘッドフォンで聞けるから」

 なんでボクを連れてきてくれたのかは、聞けなかった。けれども、その夜のうちにそれはすぐわかった。


 ベッドの上で、ボクはユキエさんのおもちゃになった。そうじゃないかとは思っていたので、覚悟はしていた。ただ、予想していたのとは違って、男の子としてではなく、女の子として扱われた。最初は痛くて苦しくてたまらなかったけれど、ボクはじっと我慢した。これできれいな部屋に住めて、ご飯が食べられるなら、文句なんていえない。でも、ちょっとだけ涙が出た。悲しかったわけじゃなく、痛かったから。

 終わったあと、ふと気づいたかのように、ユキエさんは、ごめんねと耳元にささやいた。ぼんやりとその声を聞きながら、ボクはすっかり疲れ果て、ぐったりとしたまま、気づいたら寝てしまっていた。



 ユキエさんは、ボクの学生服を返してくれなかった。ボクはいつも、彼女が買ってきた女の子用の下着と服を着て過ごした。逃げないようにするためだったのかもしれない。数日は外に出してくれなかったけど、逃げたりする気が全然ないことがわかると、一緒に買い物に行ったりするようになった。いろいろ買ってくれるけれど、意味なくお金をくれたりはしなかった。自分が高校生の時に着てたものだといって渡してくれた、ブレザーの制服一式はボクのお気に入りだった。

 逃げようと思えば、いくらでもできたけれども、一体どこに? ここにいれば、家のなかでぬくぬくと過ごせるし、ご飯も食べられるんだから、出ていく意味もない。でも、お昼ご飯用に渡してくれるお金を半分だけ貯めていたことは、彼女には黙っていた。自分の詳しい境遇の話もしなかったけれど、ある程度は察しているみたいだった。

 ユキエさんが仕事に行っている日中は、大体本を読んだり、ピアノを弾いたり、スマホをいじったりして過ごした。男の子同士や女装した男の子がエッチなことをしてるマンガとかが何冊かあって、ああ、こういうのが好きなのかと思ったけれど、ボク自身も嫌いじゃなかったので、特になにも思わなかった。そういうのを見ながら、ひとりでエッチなこともしたりしたし…

 ひとりでいるのに飽きると、時には近くの公園に行ったり、スーパーに行ってぶらぶらしたけれど、不審の目で見られたことはない。そんなおせっかいな人は、この街にはいないみたいだった。でも、必要以上に人目に触れるのは避けるようにしていた。一度公園で、ナンパされそうになって、逃げ帰ったことがあったから。

 夜は、毎日ユキエさんにいじくりまわされた。最初は苦しいばっかりで嫌だったけれど、そのうち慣れてきて、気持ち良くなってきた。この時だけは、ユキエさんはとても生き生きとして見えたし、それがボクもうれしかった。自分から率先して行為するようになったけれど、終わったあと彼女はいつも落ち込んでいるようだった。

 一度酔っぱらった時は、自己嫌悪のスパイラルに落ち込んで、慰めるのが大変だった。もし児保連や警察にでも連れて行かれたらと思うと、恐怖しかなかったから、こっちも必死だった。

「ごめんね、嫌だよね、こんなの」

「そんなことないよ? ボク、結構好きだけど」

「わたしってほんと、最悪だ、いつもこうなの…」

「そんなふうに思うことないと思うけど」

「カオルくんのことも、ちゃんとしたほうがいいのかなって」

「お願い、それだけはやめてください…ね、ユキエさんの好きにしていいんだよ? ボクも、そうして欲しいんだから。ね?」

「いいのかな…」

「うん! お互い同意の上なんだから。悪いことしてるわけじゃないし」

 内心、多分悪いことだろうとは思ったけれど、そんなことは口に出さない。

「でも、これじゃあ結婚なんて絶対無理だよね」

「でも、最近は結婚なんてする人、ほとんどいないみたいだよ?」

「いっそのこと、大人になるのを待って、カオルくんと偽装結婚とかも…あり?」

「なんで偽装なの」

「あ、そっか」

 ふたりで笑い合った。

 実際、そんな未来もあったのかもしれない。そんなことが可能なのかどうかは分からないけれど、もしかしたら。でも結局そんなことにはならなかった。


 その日は特に変わったことのない日だった。ただ、ちょっと夏の暑さがぶりかえしたように日射しがまぶしく、ユキエさんの高校時代の制服を着て、昼食を買いに近くのコンビニにでかけたボクは、何だか目がくらくらした。

 ビルの谷間からのぞく狭く青い空に、鳥たちの小さな黒点がいくつも見えて、ボクは急に鳥籠から出ていきたくなったのだ。自分から入った鳥籠で、居心地は悪くなかったけれど、いつまでもいる場所じゃなかった。もういてもたってもいられなかった。

 海の方から吹いてくる青い風は少し湿っていて、風にのって、出航! という声が聞こえた。きっと船長が叫んでいるのだ、生きて帰れないけれども、行くのだ、と。それは多分、過去にどこかで誰かが発した声が、風に乗って地球を何十年何百年とぐるぐる周り、今ボクの耳元に奇跡的に届いた、時間の化石だったんだろう。

 ボクはすぐにマンションに戻ると、自分のかばんを掴んで、ユキエさんからもらった女子高生の制服のまま飛び出した。

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