あっちとこっちの苦悩
あぁ、あのぼんやりしきった顔は完全に妄想の中に居るなぁ。こうなると何も聞こえないんだ。あんな、だらしなく座っちゃって。椅子から落ちたらどうするんだよ。坂下くん、細いんだから怪我するでしょうが。
「…………」
笑ってる。何かボケでも浮かんだのかな。
「んー……」
坂下はようやく姿勢を直して、被っていた帽子を更に浅く被った。手帳に何か書き込むと、頬杖をついた。
「……甘いの食べたい」
坂下はネタ作りの際に、甘いものを欲しがる。
「坂下くん、そういえばお土産あるよ」
倉田はなかなか話せなかったが、ようやく切り出せた。坂下は疲れきった顔で倉田を見た。
「こないだロケで行った和菓子屋さんのどら焼き、めっちゃ美味しかったから買ってきた。食べて」
「……いいの?」
「いいよ。皆も食べて」
マネージャーやネタ作りに付き合ってくれている友人の作家もどら焼きを受け取った。坂下は動くのもつらそうにどら焼きを手に取った。そして、一口食べた。
「美味しい」
坂下は驚いた。
「でしょ?」
「この生地ももちもちで、美味しい」
マネージャーも作家も美味しい、と笑顔になっている。坂下は子供みたいにもぐもぐしている。同い年とは思えないなぁ。
倉田と坂下は「フィヨルド」というコンビを結成している。愛されるポンコツである倉田はこのところテレビ番組に呼ばれるようになった。一方、地味でひょろりとした坂下はあまり感情が見えない。といって無愛想ではなく、話せばのんびりしていてちょっぴり天然で非常に穏やかだ。芸人仲間からも、二人の人柄の良さは有名である。去年、コントの日本一を決める大会で初めて決勝に進出した。結果は残念ながら最下位だったのだが、おかげで倉田のピンの仕事が増えた。ネタを作っているのは坂下で、全くネタを作れない倉田に出来るのは、こうしてテレビの仕事で知った甘いものを坂下に差し入れする事だけだ。坂下は少し元気になって、また作家と設定について話し合い出した。来週には事務所ライブがある。マネージャーがどうしても出てほしいと言うので、他にもライブ出演が二つもある。
「二つも出るのぉ?」
坂下はネタ作りは好きだが、ライブ会場に行くのは面倒くさがる。とにかく坂下は面倒くさがるのだ。芸人なら、ライブに出れるなんて喜ぶのが普通ではないか。倉田はもちろんそっちだが、坂下は違うらしい。この人、本当に芸人か?と思ってしまう。立て続けに三つのライブに出るのだから、当然ネタを作らなくてはならない。坂下は手帳を見つめて、動かない。倉田は手で隠してあくびをした。眠い。坂下は手帳に何か書き込んでいる。
「……これでどうかな」
作家に見せては話し合い、また手帳を見つめる。こんなの、こっちは眠くなるに決まっている。でも、我慢。
「兼人、寝たかったら寝てていいよ」
坂下はこちらを見ずに言った。
「大丈夫。設定、決まった?」
「候補は、出来た」
また作家と話し合う。また手帳に書き込んでいく。パソコンも持っているが、フィヨルドはもっぱらネタ帳は坂下の手書きだ。しかも設定のみで、台詞などは坂下が覚えの悪い倉田の為に言って聞かせる。フィヨルドは坂下の頭脳なくしてネタを作る事は出来ない。
「俺、もう駄目だぁ……」
坂下くんはよくそう言う。設定を考えられなくなった時、坂下くんは芸人を辞めるという。
「俺って、頭も悪いし、才能もないし、急に一つも浮かばなくなるかもしれない」
倉田から言わせれば、坂下は天才だと思う。ネタを作れるし、自分が出来なくても、絶対に怒らない。むしろこちらに合わせてくれる。最近、倉田がピンでテレビ番組に呼ばれるようになっていても、坂下は何も言わない。
「五連休だったから、読めてなかった本読んだ」
普通、五連休ならば少しは怒る。
「倉田さんのロケのオファーが増えてきたので、積極的に入れていきますね」
マネージャーが楽屋でそう言っていても、坂下はぼんやりしている。そもそも雑誌なんか読んでいて、聞いてもいない。
「…………」
時々、怖くなる。この人は本当に俺とコンビを組んでいたいのだろうか。
「兼人、出来た」
おぉ、今回は早い。
「『ネタ書いてないから』とか、もういらなくないですか?」
ピンの仕事でテレビ番組に出ていると、若手の芸人がそう切り出した。
「そうですよね。ネタ書いてなくても、売れてるのはこっちだし」
確かにこのひな壇、ネタを書いていない芸人が多い。
「もうそういうの、世間は求めてないんすよ」
確かに、世間ではコンビのどっちがネタを書いているかなどどうでもいい。テレビに出て面白い方が売れるし、有名になる。テレビに出るのも、もはやコンビでなければならない訳でもない。フィヨルドの倉田、と言えば世間では顔をすぐに思い出してもらえるようになっている。対して坂下は「じゃない方芸人」と呼ばれ、コンビ間の格差はそれぞれ広がりつつある。
「倉田はどう思う?」
司会の先輩芸人が振ってきた。
「うちの坂下くんは、のんびり屋さんなんで、こないだも五連休に、読みたかった本読んだって言ってました」
「五連休してんのかよ」
「本読んでたんだ」
「満喫してました」
「坂下らしいなぁ」
皆は笑った。倉田はよく坂下ののんびり屋トークをする。芸人たちは知っているが、世間では知られていない。何度も話していれば、倉田の相方は坂下だと認識してくれる筈だ。本当はこうしたトークバラエティも、坂下は出来るのだ。でも、呼ばれるのは倉田だけ。
このままで、本当にいいのだろうか。
「さっきの動きの方が面白いかな」
ネタの稽古は、事務所の稽古場で二人きりでやる。ネタが完成すれば、あとは坂下の頭の中に全て詰まっている。それからは坂下が演出家となるのだ。
「もう一回、最初からやってみようか」
この時の坂下は、皆が知っているのんびり屋さんではなくなる。決して怒りはしないが、その目つきはまるで違う。坂下は芸人にしかなれない人だと、倉田は思っている。
稽古を終えると、坂下はいつもののんびり屋さんに戻る。帰り支度は遅い。
「坂下くん」
「……ん?」
「ちょっと、聞いていい?」
「ネタ、やりにくいとか?」
「いや、ネタは出来そう」
「……じゃあ、何?」
坂下は冷たい目でこちらを見た。
「坂下くんって、売れたいって思ってないよね」
「…………」
坂下はずっと冷たい目で見つめている。
「俺ばっか最近テレビ出てる。ライブは二人で出るけど、テレビには興味ないのかなって思って」
「興味ない訳ないよ」
坂下は椅子から立ち上がると、上着を着た。
「坂下くんはテレビ出たくないの?」
「そりゃ、出たいよ」
「じゃあ……」
「決めるのは俺らじゃないし。テレビ局の人だから。兼人の方がテレビに向いてるから、呼ばれてるんでしょ」
「そうかも知れないけど、坂下くんももっと頑張って、テレビ出れるようになればさ……」
「……兼人こそ、何でそんな事言うの?」
「えっ?」
「ライブに出たくないなら、そう言って。マネージャーに言っとくから」
「ネタはずっとやりたいよ」
「……じゃあ、いいじゃん。稽古場閉めるから、出て」
「はい……」
倉田はいそいそと稽古場を出た。電気を消して稽古場の鍵を閉める坂下の後ろ姿を見ていたが、とぼとぼと歩き出した。違うのに。俺はフィヨルドで売れたいのに。フィヨルドの倉田、じゃなくて、フィヨルドの二人で売れたいのに。どうして、分かってくれないのだろう。
「珍しく誘われたから来てみたら、そういうこと」
事務所の先輩芸人である野島は呆れた顔で倉田を見た。酒が弱いくせに、だいぶ酔っ払っている。
「坂下は分かりにくいからなぁ」
「ですよねぇ!」
「デカいよ、声が」
倉田はしょんぼりしてまたビールを飲んだ。
「もう飲むなって。味分かんなくなってるだろ」
野島はコーラを飲んだ。実は野島は酒が飲めない。倉田も決して強くないので、二人はよく酒なしの食事に出かける間柄だ。
「こんなんなら、坂下くんに怒られた方がいいっすわ」
「でも、あいつは怒んないからな」
「そうなんすよ。このままでいいって言うんですよ。いい訳ないでしょ?俺ばっかテレビ出て。いい訳ないじゃないですか。そうでしょ?野島さん」
倉田は野島に近付いた。
「こないだのライブ、どうだったの」「ウケましたよ。新ネタでしたけど」
「坂下、どんな感じだった」
「どうって、普通でした」
「普通か……」
野島はぼんやりしている坂下の顔を思い浮かべた。
「ネタはずっとやっていきたいんです」
以前、事務所で会った時にそう話していた。
「でも、最近倉田、忙しいじゃない」
「兼人が嫌がったら、やめます」
「いいの?それで」
「コンビですから」
「聞いてます?野島さん」
倉田は野島の顔を覗き込んだ。
「あぁ、何だっけ?」
「坂下くんにもっと真面目にやってほしいって事ですよ」
「あいつはあれで真面目なんだよ」
「ネタだけ作ってればいいんですか?それじゃ、作家と同じじゃないですか。芸人じゃないじゃないですか」
「ちゃんとコントで演じてるじゃない」
「…………」
倉田の動きが止まった。
「お?どうした?」
「俺だって、ずっとネタやりたいですよ。坂下くんと一緒に……」
倉田は泣き出した。
「あぁ、もう、泣くなよ」
こんなの、坂下が見たらドン引きだろうな。
「面白かったなぁ」
坂下は珍しく後輩であるカナディアンの遠山に話しかけた。
「あっ、お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
坂下はわざわざ頭を下げた。遠山も恐縮して何度も頭を下げた。
「いいなぁ、あんなネタ作れて」
「本当ですか?俺は坂下さんの方が羨ましいですよ」
「えぇ、何処が?」
「いや、坂下さんみたいにもっとシンプルな設定で笑わせたいです」
「そう?えぇと、名前、何だっけ?」
「遠山です」
「遠山くんか。俺とか一回でいいから、あぁいう伏線回収みたいなコント作ってみたいけどなぁ」
「坂下さんなら作れますよ」
「いや、もう無理だよぉ」
事務所ライブの楽屋で、坂下と遠山が楽しそうに話しているのを倉田は見かけた。
「倉田さん、時間なんでお願いします」
マネージャーに言われて、慌てて帰り支度をする。もちろん倉田のみの仕事で、坂下は倉田に見せない笑顔で遠山と話している。
「坂下さんとこうして話せるなんて光栄です」
「言い過ぎだよぉ」
「いえ、ネタの話とかもっとしたいです」
「えぇ?じゃあ、これからご飯とか行く?」
「いいんですか?」
「いいよ。バイトとか大丈夫?」
「はい。うわぁ、嬉しい」
倉田が名残惜しそうに楽屋を出ると、坂下はようやく帰り支度を始めた。
テレビ局に向かうマネージャーの車の中でも、倉田はずっと坂下のあの笑顔が頭から離れずにいた。
「……兼人こそ、何でそんな事言うの?」
あの時の坂下のあの冷たい目は、もはや相方に向けられたものではないのではないか。
「どうかしましたか?」
マネージャーは分かりやすい倉田の表情に、思わず話しかけた。
「どうしたら、坂下くん、テレビに出れる?」
「……実は、上の方にも話してみたんです」
「それで?」
「社長からあまり無理はさせないように、と」
「社長が?」
「坂下さんはまだあのままでいいと」
「マジか。何考えてんだよ、社長」
珍しく倉田は怒った。
「前のコンビで苦労してるからって」
「…………」
倉田は動きを止めた。
「社長、あの頃の坂下さんの事、よく覚えてるそうです。私はまだ入社してないので分からないんですけど」
そうだ。あの時の坂下くんは、本当につらそうだった。
坂下は高校の先輩に誘われて、この事務所の素人オーディションに参加し、合格して芸人になった。まだ高校三年生で、同期の中では最年少だった。だからなのか、相方である高校の先輩は坂下に何もさせなかった。
「お前は俺の言う通りにしてればいいから」
同期はモスグリーンで、彼らは大学を卒業して芸人になっているので、会えば話はするが、相方が意識してあまり仲良くできなかった。同期でいつしか坂下は孤立していた。しかも相方はネタでスベると、全て坂下のせいにした。楽屋で平然と坂下を怒鳴るのだ。物を投げつけられた事も、突き飛ばされる事もしょっちゅうだった。
「坂下、もう無理しないで解散しちゃえばいいのに」
「悪いけど、ネタ作ってるのはあっちだしあいつの言う事聞いてやってるだけだからな。坂下、何も悪くないよ」
モスグリーンは密かに心配していた。同期も事務所でも、彼らの関係性には頭を悩ませていた。そんな時、事務所にスクールが出来た。
「お前ら、ちょっとスクールで学び直せ」
モスグリーンはすでにテレビに出始めていたが、それ以外の芸人は強制的に半年間、スクールで学ぶ事になった。単純になかなか芽が出なかったのだ。そのスクールに一期生として入学したのが同級生とコンビを組んでいた倉田だった。
「スクールのネタ見せなんかダルいから、お前、ネタ作っとけ」
相方に言われた坂下は密かに作っていたネタを披露した。演技指導など相方に出来はしなかったが、相方はそれなりに合わせてくれた。
「坂下、このネタ、お前が作ったのか」
「…………」
それは明らかに相方の作るネタと違っていた。しかし、当時の坂下には答える勇気はなかった。
「いえ……」
相方はもちろん自分が作ったと話したが、スクールの講師だった谷地田にはすぐにバレた。
「坂下、お前、もう一回ネタ作ってこい」
「でも……」
「わざとギリギリにネタ作るようにあいつには言っとくから。そしたら、お前にやらせるだろ?」
谷地田の言う通り、急にネタ見せを言われた相方は坂下に要求した。二回目のネタを見た谷地田は確信した。
「坂下にネタを作らせた方がいい」
しかし、相方はそれを拒んだ。
「俺のネタで合格して、芸人になったんですよ。こいつのネタが面白いなんて、たまたまでしょ」
だが、皆は相方の才能の限界を分かっていた。相方はスクールに来なくなり、やがて連絡も取れなくなった。後で知った話では、女性トラブルと借金が原因らしい。坂下は谷地田が熱心に教えた事もあり、才能は明らかに開花させていた。
「坂下、どうする?ピンでやるか?」
「いえ、辞めます」
「芸人やめるのか」
「はい」
事務所としては、どうしても坂下をやめさせたくなかった。ちょうどその頃、倉田の相方がピンでやりたいと言い出した。
「倉田、これからどうする?ピンでやるか?」
「……あの、坂下くん、今、どうしてますか?」
「やめるって言ってるんだ」
「坂下くんと組みます。俺、あの人のコントやりたいです」
そうして、フィヨルドは結成された。スクールでも彼らのネタは群を抜いていた。坂下は元々半年だけという約束だったので、倉田も繰り上げの卒業となった。あの時、もし坂下があのまま芸人を辞めていたら、倉田の相方がピンでやりたいと言わなければ、フィヨルドは誕生しなかった。倉田たちも坂下の前の相方の素行の悪さは知っていた。坂下がスクールの課題での大喜利で良い答えを出したりすると睨みつけ、後で倉田たちの前でも平気で坂下を突き飛ばしたりしていた。見ていても、本当にかわいそうだった。たかが先輩というだけで、何故あそこまでしなければならないのか理解できなかった。もしかすると、坂下の才能を知っていて、恐れていたのかもしれない。嫉妬していたのだと思う。しかし、倉田がもっと理解出来なかったのが坂下が何も言い返さなかったという事だ。どんな目にあわされても、抵抗した事がなかった。いつもやられていた。つらそうな、悲しそうな表情で、スクールでも隅にぽつんと座っていた。倉田が話しかけると、同い年と分かった。それからは会えば話はしていた。倉田は密かに坂下に憧れていた。スクールに入りたてのほぼ素人の倉田から見れば、すでに舞台経験のある坂下は声の出し方や動き方などは比べ物にならなかった。普段は目を伏せてぼそぼそ話す坂下とは別人だった。大喜利でも面白い答えを出す。あの相方さえ居なければ、そう言う奴も居たくらいだった。
「坂下くん、聞いていい?」
「……ん?」
フィヨルド結成すぐに、倉田は坂下がぼんやりしているのを見て、恐る恐る話しかけてみた。
「前のコンビの時、何でいつも抵抗しなかったの?」
坂下は目を伏せた。あまり話したくない時、坂下は目を伏せる。
「俺、見てて腹立ってた。俺だけじゃない、皆そう思ってたよ」
倉田は食い下がった。坂下は倉田を見ずに、ずっと目を伏せている。
「……コンビだから」
「えっ?」
「コンビとして、俺が抵抗しない方がいいと思ってた。あくまで二人でコンビだから」
「倉田さん?」
マネージャーの声に、倉田は我に返った。
「マネージャー、今からスケジュール組んで、年末に単独ライブってやれないかな」
「今からですか?」
「まだ半年はあるよね」
「でも、倉田さん、大丈夫ですか?年末になると結構オファー来ますけど」
「俺、坂下くんとコントしたい」
「……倉田さん」
「ずっと、坂下くんのネタでコントしたい」
「……社長に話してみます」
「よろしくお願いしまーす」
フィヨルドとピン芸人のコナガセは取材記者に立ち上がって頭を下げると、座った。
「今回は年末に単独ライブが決まったという事で、フィヨルドのお二人とコナガセさんにお話を伺いたいんですが」
「はい。よろしくお願いします」
「まず、突然の発表に感じたんですが」
「突然でした」
「いや、でも僕は以前から単独ライブやりたかったので、嬉しかったです」
コナガセはやる気に満ちている。隣の坂下はそんなコナガセを冷たい目で見ている。
「ちょっと、坂下さん、何すかその目は!」
「……ずいぶんとかかってるなぁって」
「だって、念願でしたから」
「やっぱり突然だったんですね?どういう経緯で発表されたんですか?」
「いや、突然、社長から言われたんです」
「えっ?僕はマネージャーからでしたよ?」
コナガセは坂下を見た。
「社長から電話があって」
「えぇ?」
「うん。頑張ってライブやってくれって」
「それは坂下くんに腰上げてもらう為にじゃない?」
倉田が言った。実は言い出しっぺだが、黙っている。
「坂下さん、なかなか動かないですからね」
「そんな何もしない奴だと思われてるの?」
コナガセは笑った。
「でも、坂下くんは動き出したら早いから」
倉田が言うと、坂下は倉田を一瞥したが、黙っていた。
「いや、何で黙るんですか!」
コナガセがツッコんだ。
「これからネタ詰めなきゃなぁと思って」
「でも、倉田さんは今、結構お忙しいですよね?」
記者が倉田を見た。
「そうですね、ロケにはよく行かせてもらってます」
「ネタ合わせとか、大変じゃないんですか?」
「なるべく少なくはします。俺が詰めておけばいいので。暇ですから」
坂下が言った。
「坂下さんは『じゃない方芸人』などと呼ばれていますが、ネタは坂下さんが作ってるんですよね?」
「でも、フィヨルドの顔は倉田くんですから。別に俺はじゃない方でいいです」
「坂下さんは、これ、本気で言ってますからね」
コナガセは坂下を指差した。
「僕はそういうの、嫌でピンになりましたもん」
「えっ、目立ちたいって事?」
「そりゃそうですよ。じゃない方でいいですなんて坂下さんしか言わないんじゃないですか?」
「そうかなぁ…」
「でもね、フィヨルドの頭脳は坂下くんだから。俺はフィヨルド代表でテレビ出てるのよ」
倉田が言った。坂下はまた倉田を一瞥しただけだ。
「フィヨルドさんの関係性って、他のコンビとはちょっと違いますよね?」
記者は二人を見た。
「そうなんですか?」
コナガセは単純に他のコンビの関係性を知らなかった。
「普通なら、お互いがライバルみたいなところもあったりするじゃないですか」
「そういうのは、俺はないです」
「とにかくうちは坂下くんがこの調子ですからね。怒られたりしないから、俺は快適です」
倉田が言うと、記者は頷いた。
「今日、お会いしてみて分かりました。坂下さんがいかにのんびりした方なのかが」
「それ、よく言われるんですけど、本当にのんびりしてます?」
「この自覚ないのがいいんですよね」
コナガセも頷いた。
「いいんですかね」
「坂下さんの魅力だと思います。こっちもとても穏やかになれると言いますか…」
坂下はぼんやり顔で、首をかしげた。
「でも、フィヨルドのネタはそんなにのんびりではないですよね?」
「ネタのテンポはでも、遅いとは言われます。昔は本当にテンポの早いのが流行ってたりしたので」
「フィヨルドさんはずっとあぁいう感じのネタをやってたんですか?」
コナガセが聞いた。
「どうだろう……」
「あの、私、学生時代に『コントカタログ』、見てたんですよ」
記者は二人を見て微笑んだ。「コントカタログ」は、若手芸人がコラボコントなどを披露していたテレビ番組だ。フィヨルドが初めて出たテレビ番組で、あの番組からフィヨルドの名前が世間に知られた。
「あぁ、そうなんですか」
「俺らも中堅になってきたんだなぁ」
倉田が苦笑いした。
「コナガセもそうだけど、うちの事務所も若手が増えてきたよね」
「僕も『コントカタログ』、見てましたよ」
「あの時は、でも三年目とかじゃない?」
「そうだっけ」
「そんなもんだったんですか?」
「うちらはお互い二回目のコンビだったから」
「そうなんですか?それって、あまり話してないですよね?」
記者は驚いた。
「楽しい話じゃないんでね」
倉田は坂下を見た。坂下は目を伏せていた。記者は敏感に、その坂下を見ていた。
「……話をライブに戻しましょうか」
「そうですね」
取材を終えると、坂下はコナガセと楽しそうに話している。コナガセは気持ちの良い男で、芸人としては珍しいくらいに常識人だ。
「この後、仕事ですか?」
「打ち合わせしないと。もう時間ないから」
「俺もですよ。二人でですか?打ち合わせ」
「ううん、兼人はテレビ局で打ち合わせ」
「そのうち倉田さん、レギュラーとか始まるんじゃないですか?」
「かもねぇ」
「いいんすか?」
「いいんじゃない?」
「相変わらずですねぇ」
倉田はそんな会話を聞きながら、帰り支度をしていた。
「じゃ、お疲れ」
「あっ、お疲れ様です」
倉田は事務所の会議室を出た。二人はこのまま事務所の会議室で打ち合わせだ。ネタを書く者と、書かないのにテレビで忙しい者。倉田には、前者の方が芸人のような気がしていた。
テレビタレントになるのか、俺は。
「おっ、倉田じゃん」
倉田はテレビ局でモスグリーンの楽屋を見つけ、顔を出した。
「今、大丈夫?」
「いいよ」
モスグリーンの早田は台本を見ていた。
「そういえば初めてだね、テレビ局で会うの」
駒田は離れたところで雑誌を見ていた。
「モスグリーンはさっさと売れたからね」
倉田からするとモスグリーンは先輩だが、坂下が同期なので倉田も甘えてタメ口で話している。二人も気にしていない。
「やっぱり倉田だけがテレビ出てくると思ったよ」
「えっ!?」
「だって、あの坂下がテレビ出たがる訳ないじゃん」
「でも、出たいとは言ってたよ?」
「そりゃそう言うよ。でも、あいつは今のままでいいと思ってんだよ」
「このままだと、コンビ格差が広がってくだけだよ」
「そんな事言ったら、うちもコンビ格差あるよ?俺、ネタ書かないし」
「こいつと坂下はそういうとこ同じなんだよな」
早田は駒田を指差した。確かに、駒田もマイペースで、芸人としての欲のない男だ。
「でもテレビには二人で呼ばれるじゃん」
「うちらはショートコントで売れたからね。二人で売れたから」
「俺らは?」
「『コントカタログ』だろ?あれは俺も見てたけど、コラボとかは倉田の方が目立ってたからなぁ」
「でもそのコラボコントのネタ会議に坂下くん出てたし」
「そりゃ倉田に出来ないからだろ」
「そうだけど……」
「でも今はそういうの、関係ないからね」
「お前が言うなよ」
早田は駒田を指差す。指を差すのが早田の癖だ。
「まぁでも、テレビ出れるかなんてタイミングだからさ。まさに『コントカタログ』がそうだったでしょ?」
「確かに、あの時はたまたま総合演出の十倉さんが俺らの事、知ってくれてて出れたからなぁ」
「でしょ?だからさ、此処でうだうだ言ってても俺らにはどうする事も出来ないよ。倉田が頑張れば、いつかは二人で出れるようになるよ」
「そうだよ。坂下は俺より全然出来るもん」
「お前がポンコツすぎるんだよ」
早田はまた駒田を指差した。
モスグリーンからはあまりいいアドバイスをもらえなかった。
大塚は居酒屋に入ると一人、ビールを飲んでいる坂下を見つけた。
「よう」
大塚は坂下の向かいに座った。
「大塚っち、お疲れ」
「大変だろ?毎日打ち合わせ?」
大塚もビールを頼んだ。
「大塚っちの方が大変でしょ。すごいよなぁ、舞台だもんなぁ」
「俺も驚いてるよ。元々俳優志望で、それを諦めて芸人になったのに、舞台の仕事が来るんだもんな」
「良かったねぇ」
ビールが来ると、二人は乾杯した。大塚は「御殿」というトリオを結成している。坂下の後輩だが、同い年とあって、タメ口で話している。坂下は気にしていないし、友達と思っているようだ。大塚も先輩ではあるが、のんびりした坂下を何だか弟のように思えてしまう。大塚たち御殿も「コントカタログ」でテレビに出たが、その後はなかなか仕事量が増えずにいた。しかし、どうした訳か大塚に舞台の仕事が舞い込んできたのだ。これは大抜擢だ。
「俳優の養成所に居た頃を思い出しながら、必死にやってるよ」
「絶対見に行くから」
「先にそっちの単独ライブだろ?見に行くから」
「いいよぉ。稽古で大変でしょ?」
「フィヨルドのコントは絶対見るよ。例え忙しくても。その価値はある」
「価値って、大袈裟だよぉ」
坂下は首を振って、ビールを飲んだ。というか、料理を頼んでいない。
「っていうか、ビールしか飲んでないの?」
「あんまり食べたくない」
「どうりで、顔やつれてるなぁと思ったよ」
「二キロ痩せた」
「これ以上痩せてどうするんだよ。ただでさえ少食なんだから、少しでも食わないと。ぶっ倒れるよ?」
「ライブ終わりまで持てばいいから」
「駄目だって、少しでも食いな」
大塚は料理を追加した。坂下は仕方なくもそもそと料理を食べた。
「今日、会場で打ち合わせしたんだ」
坂下は箸を置いた。
「どうなの?会場の規模は」
「思ってたより大きかった。完売出来ないかもなぁ」
「弱気だな。そんなに自信ないの?」
「……よく分からない」
「何だ、煮詰まってるのか」
坂下はため息をついた。
「俺、もう駄目かも……」
「おいおい、大丈夫かよ」
坂下は疲れ切っていた。
「倉田は?」
「今日の午前に稽古した」
「どうなの?」
「俺がやらなくちゃいけない事が多過ぎて……」
坂下はまたため息ついた。
「そりゃ大変だ。珍しく働かされてる訳か」
「俺って、頭も悪いし、才能もないし、そんな奴が決めていっていいのかな……」
「倉田にやらせる気かよ」
「さすがにそれは無理だけど……」
「じゃあ、坂下が決めないと」
坂下はまたビールを飲んだ。
「もしこのライブが上手くいかなかったら、もう単独の話はなくなるよね」
「上手くいくよ。フィヨルドのコントは金払って見る価値あるって」
「……それは大塚っちだけだよぉ。俺、もう駄目なんだぁ……」
坂下はビールを飲み干して、おかわりした。
大塚は役者になろうと養成所に通っていたが、周りを見て自分は役者になれないと途中で辞めてしまった。就職しなければならないのかと、どこか絶望していると、今の事務所のスクールを見つけた。確かにお笑いは学生時代から好きだった。文化祭ではコントを作って披露したくらいだ。大塚はそのスクールに入った。周りは年下が多く、浮いてはいたが、相方となる本間と佐藤に出会った。スクール側がトリオを組んだらどうかと言うので、大塚は御殿を結成した。本間は情熱だけはあるが、ネタは作れない。佐藤は無口でやはりネタは作れない。二人は要するにスクールでも余り物だった。大塚のネタに文句は言うが、結局は従ってくれる。二人も俺の言う通りになるというのは愉快だ。しかし、大塚もそこまでの才能はない。スクールを何とか卒業して、事務所ライブに出た時だった。初めて、フィヨルドのネタを見た。大塚にはすぐに分かった。ネタを作っているのは、のんびりツッコんでいる坂下だ。
「お疲れ様です」
「演技上手いねぇ。すごいなぁ」
坂下の第一声はそれだった。先輩なのに、褒めてくれた。敏感な大塚は、それが社交辞令ではないとすぐに分かった。
「坂下さんこそ、面白かったです」
「そこまでじゃないよぉ」
「まぁ、そこまでじゃないです」
「だよねぇ」
「あっ、ちょっとショックでした?」
「うん」
坂下は悲しそうにため息をついた。
「やっぱり、俺、もう駄目なんだぁ……」
「いやいや、駄目じゃないですよ。そんなに落ち込まないでくださいよ」
聞けば、この時、坂下はなかなかネタが書けずにいた。
「俺って、頭も悪いし、才能もないし、そんな奴がネタ書いてるんだからどうしょうもないよねぇ」
「才能はありますよ」
坂下は大塚を見た。
「俺もネタ書くから、分かります。ネタ書ける奴は、才能あるんです」
坂下はぼんやり大塚を見ていたが、微笑んだ。
「すごいねぇ、君は。羨ましいなぁ」
二人はそれから急激に仲良くなった。坂下はネタの相談にも乗ってくれたし、一緒にネタを考えた事もある。優しい先輩は、いつしか戦友になり、そして友人となった。坂下はいつだって褒めてくれる。ネタをけなされた事は一度もない。坂下は誰も傷つけない。その代わり、誰にも甘えない。甘え方を知らないのかもしれない。そんな坂下が、自分にだけは弱音を吐く。それだけ坂下は自分を信用してくれているのだ。
「……ん?」
大塚は坂下の隣に移動した。坂下は目をとろんとさせている。酔っ払ってきたようだ。
「坂下は大丈夫だよ。出来る。才能もある。倉田の分まで頑張ってるんだ。それがちょっと疲れてきたんだよな?」
「……うん」
「大丈夫だよ。あともう少しだから、頑張れよ、なっ?」
大塚は細くなった坂下の背中を優しく撫でた。
「……うん」
こうしていると、本当に弟のように思えてくる。でも、坂下はいつだって自分の前に居る。目指すべき先輩なのだ。
「収録、お疲れ様でした」
この日、事務所の大先輩芸人である大橋がコントを披露する「大橋と仲間たち」という番組の収録が行われた。大橋は普段トリオだが、ネタ作り担当もあって、いまだにピンでコントを披露している。今回はそのコントを演じるにあたってゲストが呼ばれたが、フィヨルドも選ばれた。フィヨルドは全編のコントに出演した。収録後に、取材が始まった。
「お疲れ様でしたー」
「今回の『大橋と仲間たち』は、ひたすらコントを披露しましたけど、その相棒にフィヨルドのお二人を指名したそうですね」
「ありがとうございます」
坂下と倉田は頭を下げた。
「俺、フィヨルド好きなんですよ。昔、事務所ライブで見て、好きになったんです。それから、二人も好きで」
「本当にありがたいです。俺らからしたら、大橋さんは雲の上の人ですから」
「特に俺、アヤノが好きなんですよ」
「大橋さん、やめてくださいよ。俺の事アヤノっていうの」
坂下はすぐにツッコんだ。
「坂下くんの名前、綾乃なんです」
倉田が言った。
「誰か分かりませんよ。坂下でいいんです」
「いや、アヤノってかわいい名前だよな?倉田」
「まぁ、俺も初めて聞いた時、かわいいって思いましたけど」
「だから嫌なんです」
「何で綾乃なんだっけ」
大橋は坂下に近付いた。
「お母さんが女の子が欲しかったんです。でも、男の子だったんで、名前だけでもかわいくしたんです」
「名前だけでもかわいくって」
大橋は笑った。
「この話して笑うの、大橋さんだけですよ」
「でも、アヤノはかわいいよ」
大橋は坂下の肩を組んだ。
「仲いいんですねぇ」
カメラマンがそんな二人の写真を撮っている。
「まぁ、かわいがってもらってます」
「いや、倉田ばっかりテレビ出てるでしょ。アヤノも出てほしいんだよ」
大橋は坂下の肩を叩いた。
「いや、俺、地味ですから」
「この男ね、分かりやすいネタ書くでしょ。そのくせにね、分かりにくいんですよ」
「あっ、大橋さん、そうなんですよ!」
急に倉田が身を乗り出してきた。
「だろ?そこが面白いんです。でね、ツッコミが上手い。俺ね、特にアヤノの冷たい目が好きなんだよ」
「なんですか?それ」
記者も身を乗り出している。坂下だけが取り残されていた。
「俺ね、昔、事務所ライブでダラダラボケてたのよ。そしたらね、後輩たちは苦笑いしてたんだけど、アヤノだけ」
大橋は坂下の真似をして、冷たい目で見つめた。
「大橋さん、そっくりっす」
倉田は大橋を指差して笑った。
「それ見てね、うわっ、長かったんだと思って、やめたんだよ」
「俺、嫌な奴じゃないですかぁ」
「違う。後輩なのに、終われよって目で訴えてるんですよ。声に出さないで目でツッコんでくるの」
また大橋は坂下の冷たい目を真似た。
「『アヤノの冷たい目』」
「先輩睨みつけるなんて、ただの嫌な後輩じゃないですかぁ」
「それはツッコミだから。俺の防波堤だから。アヤノのツッコミは的確なんだよ」
「俺もね、これでもアドリブとかやるじゃないですか。ウケたら笑ってくれますよ?でも、スベったら」
倉田も「アヤノの冷たい目」の真似をした。大橋は笑った。
「ドキッとするんです」
「それがいいんだよなぁ」
「よくないですよ。そんなに冷たい目、してます?」
「してるよぉ。お前は笑いが好きだから、厳しいんだよぉ」
大橋はまた坂下の肩を叩いた。
「先輩に厳しい後輩って、駄目じゃないですか」
「アヤノはいいんだよ。お前は例外」
大橋はまた肩を組んだ。坂下は不満げに首をかしげた。大橋はどさくさに紛れて坂下の頭を撫でた。
「いや、撫でないでくださいよ」
「よーしよしよし」
「動物じゃないんですよ」
その後、大橋と打ち上げに向かった。個室に入ると、まずは飲み物から頼んだ。大橋も酒は弱く、坂下だけがビールを頼んだ。
「二人ソフトドリンクで、俺だけビールって、また嫌な後輩じゃないです
かぁ」
「いいのアヤノは。去年の年末の単独ライブ、お疲れ会も兼ねてるから。乾杯」
三人は乾杯した。
「楽しかったなぁ」
「でも、すごいっすよねぇ。大橋さんなんて、もうコントとかやらなくていいのに」
「いやさ、アヤノも分かると思うけどさ、たまに設定とか浮かんでくるんだよ。そうするとネタ書いちゃうわけよ」
「まぁ、そういう時もあります」
坂下はビールを飲んだ。
「俺、一回、フィヨルドとコントしたかったんだよ。夢、叶ったわあ」
「こちらこそありがとうございました。めちゃめちゃ楽しかったです」
「年末の単独ライブも、見たよ」
「えぇ?本当ですか?」
倉田は身を乗り出した。
「どうでした?」
「面白かったよ。さすがアヤノだよ」
「大橋さん、俺は?」
「倉田も面白かった」
倉田は満足そうに笑った。
「倉田はノジとよく遊んでるんだろ?」
「あっ、野島さんとよくご飯行ってます」
「ノジにもずいぶん会ってないなぁ」
「お二人とも忙しいですもんね」
「何か頼もう、アヤノは何にする?」
「大橋さん、坂下くん、あのライブで三キロ痩せちゃったんです」
「アヤノ、食べなきゃ。ぶっ倒れるよ?此処の焼きうどん、めっちゃ美味しいから頼んであげる」
「じゃあ俺もください」
倉田は手を挙げた。
「どうりでちょっと腰回りが細くなったような気がしたんだよ」
「服で見えないじゃないですかぁ」
大橋は坂下の腰を触った。
「やめてくださいよ」
「くすぐったい?」
「弱いんですからぁ」
「どれどれー」
「あっ、駄目ですってぇ」
坂下は近付いてくる大橋から逃げて倉田の後ろに隠れた。大橋はしばらく坂下に近付こうとして、坂下は逃げ回った。
「もう、やめてくださいよ、子供じゃないんですからぁ」
ちょっと疲れて、ようやく大橋も坂下も座り直した。
「くすぐられてゲラゲラ笑うアヤノ見たかったのになぁ」
「気持ち悪い事言わないでください
よぉ」
焼きうどんが来たので、三人は早速食べた。
「美味しい」
「だろ?此処の焼きうどん、めっちゃおいしー」
坂下も子供みたいにもぐもぐしている。
「アヤノ、単独は続けろよ」
「……そう思いますか」
「俺らはテレビに舵切ったけど、やっぱり単独やれるってのは羨ましいし、なかなか皆が出来るもんじゃないよ」
坂下の目つきが変わった。大橋も真面目になった。二人は箸を置いた。倉田も慌てて動きを止めた。
「コントはずっとやっていこうとは思ってます。俺がネタを作れる限りは、ですけど」
「アヤノは出来るよ。才能あるもん」
「…………」
大橋は笑った。
「決まってるじゃん。俺はお前に憧れてるんだよ」
「やめてくださいよ」
「いや、本当に。アヤノなら大丈夫、出来るー」
大橋は途端に近付いて、坂下をくす
ぐった。
「やだぁあはは!」
坂下は子供みたいに笑った。
「…………」
かっ、かわいい!倉田は思わず顔を赤らめた。坂下くん、めちゃめちゃかわいい!
「じゃあ、お疲れー」
「お疲れ様でした……」
大橋はあの後さんざん坂下をくすぐって、酒は飲んでいないので、車で帰っていった。坂下は酔った上に疲れ切って、とぼとぼ歩き出そうとした。
「あぁ、坂下くん、送ってくよ」
坂下は立ち止まると、とろんとした目で倉田を見た。
「……いいの?」
「いいよ。俺は飲んでないし」
「……ありがとう」
坂下は素直に倉田の車に乗った。もちろん後部座席。坂下はさんざんくすぐられて、すっかり疲れている。あぁいう子供でもやらないような事を平気でするのが大橋だ。でも憎めない。自分より年上だが、あのパワーは一体どこから来るのだろう。あの人が疲れているところを見た事がない。坂下はぼんやりした顔で、帽子を更に浅く被って窓の外を見つめている。車内は無音で、さっきまでの楽しかった打ち上げが遠い昔の事のようだ。
「此処でいいよ」
坂下は倉田に言うと、車から降りようとした。
「坂下くん」
「……ん?」
「今からならまだ間に合うよね、エントリー」
坂下は帽子を被り直した。
「エントリー?」
倉田は坂下の顔を見た。
「去年は何か忙しくて出れなかったけど。今年は出ようと思って。大会」
コントの日本一を決める大会の事だ。
「決勝には行ったけど、結局最下位だったし。最終決戦までは行きたいなぁと思って」
「…………」
「坂下くんが嫌なら、やめるけど」
「兼人が出たいならいいよ」
坂下は目を伏せて言うと、車から降りようとした。
「待って。本当に、いいの?」
倉田は引き止めた。
「明日、マネージャーに相談しよう。兼人のスケジュールの調整とかあるだろうし」
「坂下くんは……」
「コンビだから、やるよ。兼人がやりたいならやるよ」
「坂下くんはどうなの」
倉田は食い下がった。
「いっつもコンビコンビって言うけど、坂下くん自身はどうなの?」
坂下は倉田を一瞥したが、また目を伏せた。
「あくまで二人でコンビだから。兼人の行きたい方向があれば、それはどこまでもついて行くよ。それがコンビだから」
倉田はこれ以上、言えなかった。
「送ってくれてありがとう。お疲れ」
坂下は車を降りた。
「…………」
倉田は車を動かせずにいた。前のコンビの時もそうだった。坂下は相方について行く。そうする事がコンビであるという考えなのだ。自分ではなく、相方の考えについて行く。二人でずっと歩いていく為に。倉田はずっと二人で売れたいと考えていた。だが、坂下は二人で居続ける事をずっと考えていたのだ。コンビであり続ける。ネタを作り、コンビとしてコントを演じる。坂下にとって、フィヨルドの存続を優先させていたのだ。どんなに自分はじゃない方芸人と呼ばれようが、倉田が解散を言わなければいいのだ。坂下は相方に捨てられた。コント作家になるつもりはない。もう辞めようか。そんな時、たまたま倉田がコンビを組もうと言ってきた。もう、コンビを解消されたくない。だから、あの言葉が出たのだ。
「あくまで二人でコンビだから。兼人の行きたい方向があれば、それはどこまでもついて行くよ。それがコンビだから」
二人で売れたい、だなんて安易だった。坂下はちゃんと、しっかり考えているのだ。
「アヤノは出来るよ。才能あるもん」
すでに成功しているあの大橋が言うのだ。坂下について行かなければならないのは、自分の方だ。坂下の前には、必ず道がある。その道を倉田と二人で歩いていくのだ。
絶対、大会に出て優勝する。坂下の才能を、世間に知らしめてやるのだ。倉田は車を動かした。
坂下は自宅に帰ると、電気を点けて台所に向かった。とりあえず冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してマグカップに注ぐと、飲んだ。そのマグカップを持ってリビングに向かい、ソファーに腰掛けた。テーブルにマグカップを置くと、肩に掛けていたバッグと帽子もソファーを置いて、とりあえずだらしなく座った。少ししてため息をつくと、バッグからネタ帳を取り出した。大会に出るとなると、大会用のネタを考えなくてはならない。
めんどくさいなぁ……。