2.婚約者を決められない
ヴァネッサが王都にある学園を卒業して二年が経っていた。
「あなたが早く結婚してくれないと……私の初恋が終われない……」
ヴァネッサは自分の部屋で窓の外を眺めながらぽつりと呟いた。
ヴァネッサには初恋の人がいる。その人が忘れられない。いつまでも心に未練を残したまま、新たな未来に踏み出すこともできず、時間が無為に過ぎていく――。
そういえばこの言葉は一年前にも呟いた記憶がある。自分は一歩も前に進むことができていないのだと自嘲した。
(成長していないってことよね)
ヴァネッサは手の中の釣書を閉じると机に置き、小さな溜息を吐いた。
ヴァネッサはバルテル伯爵家の長女で二十歳になる。二歳下に妹が一人いるが我が家には男子はいないので長子である自分が家を継ぐ。貴族の後継ぎであればとっくに婚約者がいて当然、もしくは結婚していてもおかしくない。でもヴァネッサにはいまだ婚約者はいない。
ありがたいことに両親は急かさず見守ってくれている……いたが、さすがに心配になったようだ。机の上にはヴァネッサ宛の釣書が積まれている。父が自分のために精査して選んでくれたものだ。この子息たちの評判はいいと聞く。真面目で好青年な人たちばかり。恋心がなくても結婚したらヴァネッサを大切にしてくれるだろう。
二十歳の誕生日を迎えても結婚に興味を示さないヴァネッサを心配して、両親が知り合いの貴族に声をかけ釣書を集め出した。婿入りを望む子息はそれなりにいて、次々に釣書が届く。年齢は年下から、そこそこ年上まで。両親は早く婚約者を決めないと年齢的にも人柄的にもヴァネッサに見合う男性がいなくなることを危惧している。
分かっている。分かっているが…………。おこがましいとは思うけれど、誰の釣書を見てもこの人だと選ぶことができない。こんな気持ちで選んでは申し訳ないと自分自身に言い訳をして決断を先延ばしにしていた。
いつまでも初恋を引きずるくらいなら告白して玉砕してしまえばよかったのかもしれない。彼とはいい友人関係だった。それを壊すのも恐かったのだろう。
彼に今婚約者や妻、せめて恋人がいるのなら諦められた……と思う。でも彼にはまだ特定のパートナーがいないし、浮ついた噂すら聞いたことがない。真面目な人なのだ。だからといって彼がフリーでも自分が彼の隣に立てるわけじゃないのだから、いい加減吹っ切るべきだと分かっている。
「はあ……」
そもそも告白して思いが通じていたとしても、彼とは結婚できない。なぜならヴァネッサはバルテル伯爵家を継ぐので、共に家を支えてくれる婿を迎えなければならない。そして初恋の相手は公爵家子息で彼もまた家を継ぐ立場だった。
何度目かの溜息を吐いて天井を見上げた。
(私は、どうすればいいのだろう)
ヴァネッサはうじうじする自分にそろそろ嫌気がさしていた。
*****
彼と出会ったのは学園へ入学したその年の夏。
ヴァネッサは授業が終わったあと、担任の先生に頼まれて一人で提出書類をまとめていた。すると教室の扉が突然開き長身の男性が入ってきた。彼はヴァネッサに気付いたが何も言わずに慌てて窓際の大きなカーテンの中に隠れた。隠れるのが上手いのか、カーテンが不自然に盛り上がってはいない。だが足がちらっと見えている。かくれんぼ? それで隠れたことになっているのかしら?
訝し気に思っているとバタバタと数人の足音がこちらに向かってくる。足音は扉の前で止まった。すぐに扉が開き息を切らした女性数人が姿を現した。そして開口一番ヴァネッサにこう尋ねて来た。
「こちらにオーディス様は来ませんでしたか?」
なるほど。鬼の正体は彼女たちでしたか。思わずカーテンに視線を向けそうになったが我慢して首を横に振った。彼女たちはヴァネッサを見ながらも教室内をきょろきょろと確認している。幸いカーテンを気にしている様子はない。だけどヴァネッサがカーテンを見てしまえば気付かれてしまう。
「いいえ。誰も来ていません」
「そう……ありがとう」
状況を察した私、えらい! 女性たちはヴァネッサの言葉に落胆し、すぐに廊下を走って行った。「あっちもくまなく探しましょう!」という声が聞こえるのでまだ諦めていないようだ。騒々しい足音が遠ざかると、カーテンからそっと男性が顔を出した。彼は教室内の様子を窺がいながら険しく眉をよせると、少し警戒しながらヴァネッサを見た。
「もう、行ってしまいましたよ」
人気者は大変だなあと思いながら、ヴァネッサは彼を安心させるように明るく伝えた。女性に追いかけられていたから、ヴァネッサにも言い寄られると案じているのかもしれない。もちろんヴァネッサはそんなことはしない。
彼はウエーバー公爵子息オーディス様。クラスが違うので話したことはないが彼の噂はよく耳にした。在学中の貴族の中では一番身分が高い。その上、麗しい容姿を持つとなれば当然女性たちから大人気になる。
ヴァネッサは彼の顔を失礼にならない程度に観察した。輝く金色の髪にコバルトブルーの美しい瞳は羨望ものだ。さらに成績もよく性格もいいとなれば、恋人になれなくても友人くらいにはなりたいと望むのも頷ける。とはいえ女性たちが狙うのは当然婚約者の椅子だろう。
「……ありがとう。助かったよ」
オーディスは警戒しながらもぽつりとヴァネッサにお礼を言った。
「どういたしまして。彼女たちは左側に行きましたから、帰られるのなら反対へ」
ヴァネッサは少しだけ目線を上げ書類整理の手を止めて微笑んだ。彼はホッと安堵の表情を浮かべるとヴァネッサに頭を下げて教室を出て行った。
ヴァネッサは平静を装ったが心臓はドキドキしていた。初めて話をしたけれど噂以上に綺麗な人だった。今までは遠目でしか見たことがなかったが、近くで見ると身長の高さやスタイルの良さに驚いてしまった。神様は彼に二物も三物も与えすぎではないのか。でもこの邂逅はヴァネッサの目の保養になった。思わぬ得をしたと頬を緩めた。
「ふふふ。先生のお手伝いをしたらいいこともあるのね」
ヴァネッサにとってオーディスとの関わりはこれで終わりのはずだった。ところが一週間後の昼休みに図書室でオーディスに声をかけられた。
「こんにちは。バルテル様」
ヴァネッサは家名を呼ばれて顔を上げた。声の主を見て目を丸くした。
(なぜオーディス様がここに?)
ヴァネッサの座っている席は図書室の奥で難しい本が置かれている棚の後ろだ。その本を借りに来る人はほぼいない上に、死角になっていて人に見つかりにくい場所なのだ。本に集中するにはもってこいで、密かにヴァネッサの特等席にしていた。ここで誰かに声をかけられたのは初めてだった。
ヴァネッサが驚いたまま固まっていると、オーディスが首を傾げた。ヴァネッサの反応がないことに困惑しながら彼は口を開く。
「バルテル様。読書中に申し訳ないのだが、時間をもらえるだろうか?」
「あっ……はい……」
ヴァネッサはハッと我に返る。
(恥ずかしい。きっと挨拶も満足に返せない女だと呆れられてしまったわ)
それでも心を立て直した。咄嗟に表情を繕い淑女らしく口元に小さく笑みを浮かべた。
「なんでしょうか? ウエーバー様」
彼は公爵子息、身分を思い出し背筋を伸ばした。
「あなたに先日のお礼を言いたくて。助けてくれてありがとう」
「いいえ。お礼を言われるようなことは何もしていませんのでお気遣いなく」
「気にしないで」と伝えるつもりが、すごく可愛気のない言い方をしてしまった。ヴァネッサはこういう言い回しが下手だ。彼は不愉快に感じたかもしれない。もっと気の利いた返事ができればいいのに……自分が情けなくなる。でも改めてお礼を言われるほど何もしていないのは本当だ。
「それでも、ありがとう」
オーディスのヴァネッサに向けられる眼差しは優しい。ヴァネッサは頬を染めながら今度はその言葉を素直に受け入れた。
「はい。どういたしまして」
それにしても義理堅い人だ。たったあれだけことでわざわざお礼を言いに来るなんて。ヴァネッサは彼に好感を抱いた。
「これは……その、お礼で……受け取って欲しい」
オーディスが手を差し出すと掌にはピンク色の可愛い小さな缶があった。リボンもついている。
「これを、私に、ですか……?」
「ささやかな物で恥ずかしいがお礼だ。気軽に受け取って欲しい」
「いいのですか?」
オーディスが大きく頷いたので、おずおずとそれを受けとる。お洒落な缶は見るからに高級そうだ。本当に受け取っていいのか不安になる。そっと持ち上げるとカラカラと音がした。ヴァネッサは首を傾げる。
「飴が入っている。疲れた時にでも食べて。もちろん疲れていなくても」
オーディスがふわりと微笑んだ。笑顔の破壊力にヴァネッサは胸を押さえたくなったがギリギリ平静を保った。
「ありがとうございます」
「じゃあ、また」
「はい」
また? もう、会う機会はないと思うけれど……まあいいか。
ヴァネッサは帰宅すると早速缶を開けて飴を一粒取り出した。淡いピンク色の丸い飴。宝石のように綺麗な飴。一粒口に入れるとそれは苺の味がした。
「美味しい……」
ヴァネッサはコロコロと口の中で飴を転がした。口の中だけでなく心の中にも甘い何かがじわりと広がっていった。